チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

200601裏 ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)の消印

2013年06月30日 13時18分51秒 | 郵便為替
200601裏 ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)の消印

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 1. VI 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年6月1日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

到着印
LJUBLJANA 1 -4 VI. 20. - 10 2c *
スロヴェニアのLJUBLJANA 1郵便局1920年6月4日10時、消印識別記号2c *
オーストリア型のドイツ語-スロヴェニア語の2か国表記の消印からドイツ語表記のLAIBACH 1を削除してユーゴ化した消印

200601 ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)の消印

2013年06月30日 13時18分08秒 | 郵便為替
200601 ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)の消印

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語がローマ字で記載された証書、キリル文字による表記はない

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.106, 40 vinar凸版
Mi.107, 50 vinar、4枚
合計 240 vinar (60 para)

備考
1920年5月16日から通貨改革と郵便料金値上げが行われた。
通貨は、4 vinar = 1 para, 4 Kronen = 1 Dinarとセルビアにとり有利に設定された。
れにより、旧オーストリア・ハンガリー帝国領とボスニア・ヘルツェゴビナ占領地の住民の資産価値は4分の1に下落した。
この措置により、この地域の郵便料金は4倍に上がったことになる。

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額 99k 34h (24.835 Dinar)
25 Dinar以下-----25 para
支払い(払い出し)料金、50 Dinar以下-----10 para
合計 35 para (140 vinar)
料金は35 para (140 vinar)であるはずなのに、貼りつけられた切手は240 vinar (60 para)であり、100 vinar (25 para)過剰に徴収している。
恐らく、料金計算の間違いであると推定される。

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 1. VI 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年6月1日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

20051? PALANKA郵便局 裏

2013年06月23日 11時35分10秒 | 郵便為替
20051? PALANKA郵便局

到着印
MITROVICA 920 MAJ. 23. N9 E
920の2が逆さに植字されている。
ヴォイヴォディナのMITROVICA郵便局1920年5月23日昼間9時、消印識別記号E
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

右下にBudapest 1918と印刷されており、この郵便為替証書が1918年にハンガリー王国の首都ブダペストで印刷されたことを示しています。


WikipediaのMITROVICAの情報
スレムスカ・ミトロヴィツァ
Sremska Mitrovica/Сремска Митровица
人口 (2011年現在) 市街地 37,586人

スレムスカ・ミトロヴィツァ(セルビア語: Sremska Mitrovica/Сремска Митровица)はセルビアの都市及び基礎自治体でヴォイヴォディナ自治州スレム郡の行政的な中心都市である。サヴァ川の左岸に位置し、2011年現在の人口は市街で37,586人、基礎自治体全体では79,773人であった。
ローマ帝国テトラルキア期にはローマ帝国の4つの首都のうちの一つとなり「栄光の母の都市」とも呼ばれ町やその周辺部からヘレンニウス・エトルスクス、ホスティリアヌス、デキウス、クラウディウス・ゴティクス、クィンティッルス、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス、プロブス、マクシミアヌス、コンスタンティウス2世、グラティアヌスなど多くのローマ皇帝を輩出している。

都市名
セルビア語ではスレムスカ・ミトロヴィツァの名で知られるが、ルシン語ではスレムスカ・ミトロヴィツァ(Сримска Митровица) 、クロアチア語ではスリイェムスカ・ミトロヴィツァ(Srijemska Mitrovica)、ハンガリー語ではサーヴァセンデメテール(Szávaszentdemeter)又は単にミトロヴィツァ(Mitrovica)、ドイツ語ではズィルミッシュ・ミトロヴィッツ(Syrmisch Mitrowitz)、ラテン語ではシルミウム(Sirmium)、トルコ語ではディミトロフチャ(Dimitrofça)と表記されたり呼称される。
スレムスカ・ミトロヴィツァの意味は「スレムのミトロヴィツァ」と言う意味でセルビアではコソボを含めてミトロヴィツァの地名がコソヴスカ・ミトロヴィツァやスレムスカ・ミトロヴィツァ内の自治体であるマチェヴァンスカ・ミトロヴィツァなどがある。
ミトロヴィツァ自体は4世紀に殉教したキリスト教の聖人である聖デメトリウスのセルビア・クロアチア語名(Свети Димитрије/Sveti Dimitrije)である。
ローマ帝国期にはラテン名のシリミウムで呼ばれていた。1180年頃からシィヴィタス・サンクティ・デメトリィ "Civitas Sancti Demetrii" 、ドミトロヴィツァ"Dmitrovica"、ミトロヴィツァ"Mitrovica"と呼称が変わり、最終的に現在のスレムスカ・ミトロヴィツァとなった。

歴史
古代
スレムスカ・ミトロヴィツァはヨーロッパの都市の中でも最も古い歴史のある町のうちの一つである。人が住み始めた考古学的な発見は紀元前5000年より前に遡る。紀元前500年頃のイオニアの宝石が市街で発見されている。この町をローマ人が支配するようになったのは紀元前1世紀ころで、シルミウムは既に集落が形成されていた。1世紀、シルミウムは属領やローマ市民の地位を得てパンノニアにおいて重要な軍事的、戦略的な場所となった。トラヤヌス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、クラウディウス・ゴティクスなどのローマ皇帝たちは遠征の準備をシルミウムで行った。103年、パンノニアは2つの属州に分割され上パンノニアと下パンノニアとなり、シルミウムは下パンノニアの首都となった。296年、ディオクレティアヌスは新たに分割されたパンノニアの統治を行った。パンノニアは以前の2つの属州から4つの属州に分けられそれぞれ、パンノニア・プリマ(Prima)、パンノニア・ウァレリア(Valeria)、パンノニア・サウィア(Savia)、パンノニア・セクンダ(Secunda)とされた。シリミウムはパンノニア・セクンダの首都となった。293年になるとローマ帝国は分担統治を行うテトラルキアを導入し帝国領を4つに分け、シリミウムはローマ帝国の4つの首都のうちの1つとなった。他の3つはそれぞれ現在のトルコのイズミットであるニコメディア、イタリアのミラノであるメディオラヌム、ドイツのトリーアであるアウグスタ・トレウェロルムである。テトラキアが始まった時のシリミウムに赴任した皇帝はガレリウスであった。318年道制 (en) が施行されイリュリクム (en) の首都となった。4世紀からはキリスト教の中心として重要な地となっておりシリミウム主教の本拠となる。4世紀後半になるとゴート族が支配するようになり後に東ローマ帝国に併合される。441年にはフン族が襲来し征服しておりその後約1世紀以上にわたり東ゴート族、ゲピド族など様々な蛮族の手にあった。短期間であったがゲピド族の王国の中心となりクニムンド王(Cunimund) (en) は金貨を鋳造している。567年以降、シリミウムは東ローマ帝国に再び取り込まれる。582年にはアヴァールに征服され、この出来事により古代後期のシリミウムの歴史は終焉した。6世紀頃の豪華な金のアヴァールの工芸品であるベルトが近隣で発見されている。[1]

アヴァール支配以後から中世、近世、20世紀初めまで
2世紀以上にわたりシリミウムがどのような状況であったかは明らかではない。8世紀、シリミウムはフランク人の王国に属していた。ブルガリア帝国の一部となる9世紀になると再びシルミウムの歴史的な役割は増えることになり、ポペ・エイドリアン2世は聖メトディオスのシリミウム大主教の称号を与えた。ブルガリア人によってシリミウムでのキリスト教の伝統は復活している。11世紀、第二次ブルガリア帝国の皇帝・サムイルの臣下であるセルモン公(Constantine Diogenes)の支配下となった。その後、1018年に再び東ローマ帝国に含まれハンガリー王国との間で領有が争われた。この間、シリミウムにはシルミウム・テマが置かれておりシリミウムはその中心であった。1180年、東ローマ帝国が破れるとハンガリー王国の支配下となる。1451年になると町はセルビア人領主ジュラジ・ブランコヴィッチ (en) の領有となる。
1521年にオスマン帝国の支配下なり以後、2世紀にわたりその支配下にあった。オスマンの旅行家エヴリヤ・チェレビによればミトロヴィツァはボスニアのサンジャクのベグである フスレヴ=ベグ(Husrev-bey)によって征服され、ディミトロフチャと改称された。16世紀半ばから町の住民のほとんどはムスリムであった。1566年、1569年の統計では592人のムスリムと30人のキリスト教徒の住居があったとされたが、1572年の統計では598人のムスリムと18人のキリスト教徒の住居となっている。1573年の記録では町には17のモスクがあり教会はなかった。オスマン支配期のスレムスカ・ミトロヴィツァはシルミア最大の居住地でありシレム・サンジャクが置かれオスマン行政の拠点とされた。1718年になるとハプスブルク君主国がスレムを支配下に置くとムスリムからセルビア人やクロアチア人、ドイツ人移住者に置き換わって行った。1765年の記録では人口は809人おりそのうち514人はセルビア人で290人はカトリック教徒であるとされる。スレムスカ・ミトロヴィツァはハプスブルクの軍政国境地帯の一部となった。1848年から1849年の一年間はスルプスカ・ヴォイヴォディナ (en) としてセルビア人の自治地域になったが直ぐに軍政国境地帯の行政下に戻された。1881年に軍政国境地帯が廃止されるとスレムスカ・ミトロヴィツァはオーストリア=ハンガリー帝国内のスラヴォニア王国 (en) セレーム県に含まれた。1910年の統計によれば、人口は12,909人を数えそのうち4,878人はセルビア語話者、3,915人はクロアチア人、2,341人はドイツ人であったとされる。市街地を含まない自治体全域では32,012人おり、27,022人はセルビア語話者、2,324人はドイツ人、1,071人はクロアチア人であった。

第一次世界大戦後
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が終焉を迎えると新たにスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が成立した。1918年11月24日にシルミアのルマの会議でミトロヴィツァを含むシルミアのほぼ全域をセルビア王国に組み込むことを決め、続いて12月1日にスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国になった。1918年から1922年にかけてスレムスカ・ミトロヴィツァはセレーム県の一部となり1922年から1929年にかけてはシルミアオブラスト、1929年から1931年まではドリナ州、1931年から1941年まではドナウ州となった。
第二次世界大戦時に枢軸国とクロアチア独立国の軍隊が町を占領し、町の名前もクロアチアのミトロヴィツァを意味するフルヴァツカ・ミトロヴィツァ(Hrvatska Mitrovica)と改称された。ナチの傀儡政権であるクロアチア独立国の中でも大きな死の強制収容所がスレムスカ・ミトロヴィツァにあり1万人以上のセルビア人やユダヤ人、反ファシストの人々が犠牲となった。[2][3] 1944年、町は新たにユーゴスラビア社会主義共和国のヴォイヴォディナ自治州の一部となり1945年からはユーゴスラビア内のセルビア社会主義共和国となった。ユーゴスラビアの各共和国が独立後の1992年から2003年まではユーゴスラビア連邦共和国となりモンテネグロとの連邦解消後はセルビアの一部となる。

20051? PALANKA郵便局

2013年06月23日 11時34分30秒 | 郵便為替
20051? PALANKA郵便局

郵便為替証書
オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリー語表記
額面印紙 2 fillér が印刷されている郵便為替証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.105, 30 vinar凸版、ノコギリルレット目打ち、横ペアー
合計 60 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 60 vinar
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない。

消印
PALANKA 920 MAJ 1? -N10 A
ヴォイヴォディナのPALANKA郵便局1920年5月15日、昼間10時、消印識別記号A
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

この使用例はヴォイヴォディナのPALANKA郵便局の使用であり、この辺りにはハンガリー人がほとんどであったため、ハンガリー語だけで記載された証書を使用したと考えられます。

PALANKAはドナウ河河畔の町であり、Wikipedia英語版の情報は下記のアドレスです
http://en.wikipedia.org/wiki/Ba%C4%8Dka_Palanka

200515 スロヴェニアのROGATEC 料金90 vinar

2013年06月16日 14時15分08秒 | 郵便為替
200515 スロヴェニアのROGATEC 料金90 vinar
(切断されていた物をリジョイントしたもの)

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアのスロヴェニアのスロヴェニア語のみで表記された新形式の郵便為替証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.105, 30 vinar石版
Mi.108, 60 vinar
合計 90 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

備考: このROGATEC の1920年5月15日の使用例は、この料金の適用の最終日。

(2)料金計算
300 Kronenを越えて400 Kronen以下-----80 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 90 vinar
貼り付けた切手90 vinarは、右上の黒インクの記載90に一致している。

消印
ROGATEC 15. V. 20 *b*
スロヴェニアのROGATEC 郵便局1920年5月15日、消印識別記号b
オーストリア型の郵便局名がスロヴェニア語表記の消印
この町のドイツ語名はROHITSCH

為替記号
黒色の正方形の箱型の証示印IV 281
これはROGATEC 郵便局を表すと考えられます

200515 スロヴェニアのROGATEC 料金45 vinar

2013年06月09日 11時31分11秒 | 郵便為替
200515 スロヴェニアのROGATEC 料金45 vinar
(切断されていた物をリジョイントしたもの)

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアのスロヴェニアのスロヴェニア語のみで表記された新形式の郵便為替証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.102, 15 vinar石版
Mi.105, 30 vinar石版
合計 45 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

備考: このROGATEC の1920年5月15日の使用例は、この料金の適用の最終日。

(2)料金計算
25 Kronen以下-----25 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 35 vinar
貼り付けた切手45 vinarは、右上の黒インクの記載45に一致している。
しかし、正規の郵便料金35 vinarよりは10 vinar多い。
郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で10 vinar追加貼り付けした可能性があるし、料金の計算間違いで10 vinar余分に徴収した可能性もある。

消印
ROGATEC 15. V. 20 *b*
スロヴェニアのROGATEC 郵便局1920年5月15日、消印識別記号b
郵便局名がスロヴェニア語表記のオーストリア型の消印
この町のドイツ語名はROHITSCH

為替記号
黒色の正方形の箱型の証示印IV 281
これはROGATEC 郵便局を表すと考えられます

200514裏 VINKOVCI郵便局80 vianr料金

2013年06月02日 11時31分34秒 | 郵便為替
200514裏 VINKOVCI郵便局80 vianr料金

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.106, 40 vinar凸版
合計 80 vinar

消印
VINKOVCI 920 MAJ 14 N8 F
クロアチアのVINKOVCI郵便局1920年5月14日、昼間8時、消印識別記号F
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

到着印
ヴォイヴォディナのMITROVICA

右下角にZagreb 1919と印刷されているため、1919年にクロアチアの首都のZagrebで印刷されたと考えられる。

200514表 VINKOVCI郵便局80 vianr料金

2013年06月02日 11時30分17秒 | 郵便為替
200514表 VINKOVCI郵便局80 vianr料金

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書
1919年中頃に、郵便為替の価格が3 filirに値上げされ、額面印紙「Pošta Kraljevstva SHS 3 fil」と印刷された新しい郵便為替が登場した。この新郵便為替証書の早期使用は1919年7月7日(ZAGREB 6)、後期使用は1920年9月。

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.106, 40 vinar凸版
合計 80 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
200 Kronenを越えて300 Kronen以下-----70 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 80 vinar
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない。
貼り付けた切手80 vinarは、右上の鉛筆の記載80fに一致している。

消印
VINKOVCI 920 MAJ 14 N8 F
クロアチアのVINKOVCI郵便局1920年5月14日、昼間8時、消印識別記号F
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

Wikipediaの記載
ヴィンコヴツィ(クロアチア語: Vinkovci,ハンガリー語: Vinkovce,ドイツ語: Winkowitz,ラテン語: Cibalis)はクロアチア東部ヴコヴァル=スリイェム郡の都市及び基礎自治体である。人口は2001年の国勢調査で35,912人で、ヴコヴァル=スリイェム郡では一番人口が多い都市である。クロアチア鉄道の輸送拠点の一つで、セルビア方面へ向かう路線が経由する。

地勢
ヴィンコヴツィはスラヴォニア地方東部に位置し、郡都ヴコヴァルの南西19km、ジュパニャの北24km、オシエクの南43kmの地点にある。ボスットゥ川に沿った平地に開け標高は90mで穏やかな大陸性気候である。

歴史
ヴィンコヴツィはすでに新石器時代頃には人が住み始めていたとされ、青銅器時代にはソポト文化(Sopot)と呼ばれる文化が形作られていた。イリュリア人たちが居住するようになるが、ケルト人たちとの争いも起こる。その後、ローマ帝国によって属州パンノニアとして支配され、ローマ都市キバリスまたはキバラエ(Cibalis,Cibalae)として知られていた。ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世やウァレンスの生誕地でもある。しかし378年には西ゴート族により都市は破壊されてしまう。その後も、フン族やゲピド族、東ゴート族、アヴァール人などにより破壊された。
スラヴ人の流入によって居住地が形成されるようになり、11世紀よりハンガリーの歴史書に言及され始め1242年にモンゴルにより侵略される。村が現在の名称であるヴィンコやヴィンコヴツィで言及され始めたのもこの頃である。1527年からはオスマン帝国によって支配されるようになり、オスマン支配は1687年まで続いた。カルロヴィッツ条約によって1699年以降はハプスブルク君主国の支配に移行する。その後は交通の要衝として地理的な立地の良さから再び発展し、ハプスブルクによる支配は1918年まで続く。
1941年から1945年まではクロアチア独立国の領域で、1944年4月17日より連合国より交通の要衝であることから激しい空爆を受ける。第二次世界大戦後は大過なく過ぎて行くが、20世紀も終盤に差し掛かる1990年になると再び歴史的に大きな影響を受けることになる。1990年に始まったクロアチア紛争ではクライナ・セルビア人共和国とクロアチア共和国との間の前線に近いことから多大な被害を受けた。周辺の村を始め、都市中心部の重要な施設や工場などの施設は軒並み被害を受け経済活動にも打撃を受け、紛争は嵐作戦によって終結する。1995年12月から1996年12月までヴィンコヴツィ駅はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争関連の和平履行部隊ため荷役の基地として使われた。

文化
ヴィンコヴツィの文化財で注目されるのは1100年からのプレ・ロマネスク様式のメラヤ教会(Meraja)とカールマーン1世、ラースロー1世の紋章で中世クロアチアの文化的にもっとも重要な記念物である。秋にはスラヴォニアでも大きなイベントであるVinkovačke Jeseniが開催され、スラヴォニアの民族舞踊が披露され、伝統的な衣装やオリジナルのパフォーマンスが見られる他、地域の伝統的な食材を楽しめたり壮大なパレードが行われる。

経済
ヴィンコヴィツィの経済は交易の他、交通、食品加工、金属加工などを基礎としている。工業は食品の他にも建材や木材、家具材、皮革、織物なども生産されている。周辺は豊かな農産地や畜産地が広がっており、品種改良の中心地でもある。

交通
ヴィンコヴツィはクロアチア東部の鉄道の輸送拠点でボスニア・ヘルツェゴビナやハンガリー、ザグレブやベオグラードからやって来る路線が交わる場所でザグレブについで2番目に大きな規模を誇る拠点である。幹線道路も交わる場所でポサヴィナとポドラヴィナを結ぶ幹線道路D55号線と地域の道路が交差する。 ヴィンコヴツィはオリエント急行殺人事件の舞台になった場所でもある。