チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

ユーゴラヴィア崩壊 本当の原因

2017年06月11日 15時35分25秒 | 歴史・社会的状況
スロヴェニア独立戦争(10日戦争)中のカバー
スロヴェニア独立戦争4日目の1991年6月29日に、MARIBOR(マリボール)市の南約5kmに位置する町HOČE(ホチェ)からマリボール市宛ての書留・速達便。スロヴェニア独立記念切手とユーゴスラヴィア普通切手の混貼り。
マリボール市に到着したのは7月1日(裏に到着印)です。たった5kmの距離しかなく、しかも速達便であるにも関わらず2日間もかかっています。これは、6月27日にユーゴスラヴィア連邦軍の戦車部隊がマリボール市内に突入して占拠していたためです。


私がユーゴスラヴィア(意味は「南スラヴ人の土地(国)」)の郵便史研究のための調査を始めた1991年3月から約3カ月経過した6月末のある日(6月28日頃だったと記憶しています)、NHKの夜7時のニュースの冒頭で、ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共和国の高速道路に止められた数台のバスのバリケードを砲撃するユーゴ連邦軍の戦車の映像が映し出され、ユーゴ内戦が始まりました(スロヴェニア独立戦争(10日戦争とも呼ばれる))。

その後あっという間に戦火がユーゴ全体に広がり、クロアチア内戦(東スラヴォニアと南西部のクライナ地方)、ボスニア内戦、マケドニア独立、コソボ紛争、ユーゴ空爆と戦乱が続き、終には2006年にセルビアとモンテネグロが分裂してユーゴスラヴィアは完全に消滅しました。
この様子は、このブログをご覧の皆様もマスコミ報道でご覧になったはずです。
このようなユーゴスラヴィアの崩壊を見ながら、それと同時並行でその国の建国当時の郵便史の収集と研究を進めるという、何とも言えない皮肉なことになったことは予想外でした。

多民族・多宗教国家ユーゴスラヴィアが崩壊したのは、歴史的に積み重なった民族と宗教の対立の怨念が原因であると一般には報道され、学者もこのように解説しています。

しかし、崩壊前の状態を調べてみると、民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人など)、宗教(ローマカトリック、セルビア正教、イスラム教)の枠組みを越えた、「ユーゴスラヴィア人」という認識がかなり広まっており、チトー大統領の元で独自の社会主義の自主独立路線を引いていたこの国は、比較的豊かで自由で幸福な国であったことが報告されています。

このため、ユーゴスラヴィアがなぜ崩壊したのか、はっきりとした理由が分からない状態でした。

ところが最近、次の本を読むに至って、ユーゴスラヴィアの崩壊は、アメリカが計画的に仕掛けた秘密工作が原因であったことが明らかになりましたのでご紹介します。
マスコミ報道や学者の言うことは、全くの嘘であり、支配構造の強制的変化をもくろんだアメリカの地政学的な世界戦略が原因であったことが証明されています。

ロックフェラーの完全支配 ジオポリティックス(石油・戦争)編
ウィリアム・イングドール (著), 為清勝彦 (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2010/9/30)

著者略歴イングドール,F.ウィリアム
1944年8月9日、米国ミネソタ州ミネアポリス生まれ。プリンストン大学政治学科卒業、ストックホルム大学・大学院で比較経済学を研究。70年代の石油・穀物危機を契機に以来30年余り、エネルギー、農業、貿易、金融など極めて広範な分野をカバーし、石油ピーク説・地球温暖化論の虚偽を暴くなど、稀有の分析力で世界支配の構図を鋭く解明している。独ラインマイン大学経済学講師、北京化工大学客員教授。現在、妻とドイツに在住 (以上はアマゾンの情報)


p.423~
ワシントンと相棒1M Fが決めた 民族主義的経済優等生は危険につき
ポスト冷戦、緩衝地帯はもう不要とユーゴスラビア処分

 米国製の経済「ショック療法」がソ連に処方されるずっと前に、バルカン半島諸国が米国の干渉の標的になっていた。ワシントンが早い段階でユーゴスラビアに注目するようになったのは、ユーゴスラビアの経済モデルの破壊が重要だと認識していたからである。中央アジアの潜在的な石油資源という意味で、一九九〇年代中盤に向け、ワシントンにとってユーゴスラビアの戦略的位置づけは、ますます重要になっていた。一九九〇年代後半を通じ、ワシントンのバルカン政策では、石油とドルが決定的に重要な意味を持っていた。だが、それは西側の評論家が想像したような単純な内容ではなかった。(17)

 ベルリンの壁が崩壊するずっと前に、ワシントンはいつもの相棒(IMF)と一緒に、当時ユーゴスラビアだった地域で忙しく働いていた。ユーラシアの地図を第一次世界大戦以前の状態(英国他の利権がオスマン帝国を解体し、ドイツのバグダード鉄道の夢を砕こうとして介入したときの状態)に戻すため、バルカンの民族主義は外部から操られていた。

 その狙いは明らかだった。
ユーゴスラビアを、自立できないほど小さな国に細分化し、西欧と中央アジアの交差点に、NATOと米国の足場を築きたかったのである。石油と地政学は、再びワシントンの最大関心事になっていた。

 皮肉にもー九九〇年代初期に、まさにNATOの存続理由だったワルシャワ条約機構が解体され、NATOの意義は消滅したかに思えていた。どんな脅威があれば、一九四九年の冷戦同盟(西欧全域への米国の軍事展開)を継続させる理由になるというのだろうか? ましてNATOを東へとさらに拡張させる理由がないことは言うまでもない。多くの人は、ソ連の脅威が確実に消滅したのであれば、NATOも解体になると期待しでいた。だが、ソ連の崩壊を待たずしで、既にワシントンの戦略家はNATOの新しい任務を考え始めていた。

新たに提案されたNATOの任務は、「NATOの域外配備」と名付けられ、NATO加盟国の国境をはるかに超えた活動を意味していた。さらにこの新任務は、1994年、「平和のためのパートナーシップ(PfP)」と結合した。PfPは、旧ワルシャワ条約機構の軍事力を、順次、米国が率いるNATOに統合していくというワシントンの計画である。

共和党のリチャード・ルーガ上院議員は、冷戦が終わっても米国が支配するNATOというジレンマを「NATOの選択、域外派兵か、それとも失業か」という名言で表現している。実に都合の良いことに、バルカンの戦争(ユーゴスラビア紛争)は、ワシントンにとってNATOを延長する絶好の理由になったのである。この紛争は十年以上続くことになった。

ワシントンは、四十年間以上、ソ連に対抗する緩衝地帯として、ユーゴスラビアとチトーの独自社会主義モデルを目立たないように支持していた。だが、ソ連がバラバラになると、緩衝地帯の価値はなくなっていた。むしろワシントンにとっては、経済的にうまく機能していた民族主義の部分は、近隣の東欧諸国に対し、極端なIMFショック療法ではなく中道的な経済形態もあり得ると気付かせる可能性があったため、危険だった。ワシントン上層部の戦略家にとっては、この理由だけでも、ユーゴスラビア型の経済は解体しておく必要があった。ユーゴスラビアが中央アジアの潜在的な石油資源への最短経路に位置する事実は、補強理由になっただけである。ユーゴスラビアは、必要とあらば、絶叫させ、くたばらせてでも、IMF流の自由市場改革に組み込まなければならなかった。そのケリはNATOがつけることになった。

 ソ連の体制が末期状態にあることが明白になっていた一九八八年には既に、ワシントンはユーゴスラビアにアドバイザーを送り込んでいる。その人々は、ワシントンの仲間たちが、NED(米国民主主義基金)と呼んでいた、大仰な名前を持つ奇怪な私的・非営利組織だった。この「民間」組織が、ユーゴスラビアのあちこちで気前よくドルをばら撒いて、反体制グループに資金を提供し、空腹を抱えて新しい暮らしを夢見る若いジャーナリストを買収した。また、反体制の労働組合、IMFに好意的な反体制派経済学者、人権擁護のNGOに資金を与える活動を始めた。

 それから十年後の1998年(NATOがベオグラードを爆撃し始める一年前)、NEDの責任者ポール・マッカーシーは、「ソロス財団とヨーロッパ系の財団も若干いたが、NEDは、ユーゴスラビア連邦共和国で補助金を支給し、地元NGOや独立系メディアと一緒に行動した数少ない西側の組織だった」と、ワシントンで自慢気に話している(19)。冷戦の時代であれば、そんな外国への内部干渉は、CIAの不安定化工作と言われた類のものであるが、ワシントンの新言語では「民主主義の促進」と翻訳された。結果的に、セルビア人、コソボ人、ボスニア人、クロアチア人たちの生活水準は、壊滅状態になった。

1990年以降にユーゴスラビアで起こったことの意味を理解したのは、わずかな内部関係者のみだった。ワシントンは、NED、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ財団」、IMFを使い、地政学の政策を進める道具としてユーゴスラビアの経済混乱を発生させたのだ。一九八九年、IMFはアンテ・マルコピッチ首相に、経済構造改革を強行するよう要求した。理由はともあれ、彼は実行した。


**注:
当時NEDの代表だったマッカーシーは、1988年以来、旧ユーゴスラビアのさまぎまな反体制組織、ジャーナリスト、マスコミ、労働組合への資金掟供でNEDが果たした役割を詳しく説明している。NEDは1983年のレーガン政権のときに設立され、ワシントン内部で「諜報機関の民営化」と言われていたものの一環だった。1960~70年代にCIAが前線組織に資金提供していたことが明るみになり痛手を被ったが、議会はNEDのような「民間」組織を設立・資金援助することに同意した。やることは同じだが、公然とすることになった。1991年9月21日の「ワシントン・ポスト」 のインタビューで、N E Dの立案者Allen Weinsteinは、「今我々がやっでいることの大半は、25年前にはCIAが極秘でやっていたことだ」と述べている。ある邪悪なCIAのエージェントは、NEDの人道的「運動家」に変身している。主権国家の不安定化工作で非難されるどころか、NEDの運動家は、セルビアやブルガリア等で彼らの敵を「腐敗した民族主義者」と非難している。2003年後半にはフセイン後のイラクを「民主化」する主役を務めるよう、ブッシュ政権がNEDを教育していた。**


 IMFの政策により、ユーゴスラビアのGDPは、一九九〇年には7・5%低下し、一九九一年にはさらに15%低下した。工業生産は、21%も急減した。IMFは、国営企業の大量売却=民営化を要求した。その結果、一九九〇年までに、千百社以上が倒産し、20%以上が失業した。国の各地域にかかった経済圧力は、爆発性のカクテルとなった。予想できでいたことだが、経済混乱が進む過程で、各地域は生き残りをかけて近隣の地域と争うようになったのだ。完膚なきまでに破滅させるため、IMFは、あらゆる賃金を一九八九年の水準で凍結するように命令した。激しいインフレが進行する中、一九九〇年上半期で実質賃金は41%低下した。一九九一年には、インフレ率は140%を超えていた。そして、この状況で、IMFは、通貨ディナールの完全兌換性と金利の自由化を命じたのである。ユーゴスラビア政府が、自らの中央銀行から借り入れるのを阻止し、社会政策等に必要な資金を調達する能力を麻痺させようとしたIMFの意図は明白である。こうした凍死状態の経済により、一九九一年六月にクロアチアとスロベニアが正式に分離独立宣言するまでもなく、既に経済的には事実上の分離状態になっていた。
  

違法な内政干渉 狙いはカスピ海油 連邦解体、ボスニア戦争、コソボ戦争
IMFショック療法は図に当たりバルカンは流血と憎悪の渦に

一九九〇年十一月、ブッシュ政権の圧力で、米国議会は「海外活動予算法」を可決した。
この新法には、所定の六カ月以内にユーゴスラビアからの独立を宣言することができない地域は、全ての米国の資金援助を失うことになるとの条項があった。また、この法律は、ユーゴスラビアの六つの共和国が、アメリカ国務省の監督の下、それぞれ個別に選挙を実施するよう求めていた。さらに、どんな援助も、ベオグラードの中央政府ではなく、直接個々の共和国に対してなされると規定された。要するに、ブッシュ政権は、ユーゴスラビア連邦の自滅を要求したのである。新たなバルカン戦争の導火線に、わざと火をつけたのである。

 ソロス財団やNEDなどを経由したワシントンの資金援助は、確実にユーゴスラビアの分断につながるよう、過激な民族主義者や元ファシスト組織に向けられることが多かった。IMFのショック療法とワシントン直々の不安定化工作のミックスに対抗し、ユーゴスラビア大統領(セルビアの民族主義者スロボダン・ミロシェビッチ)は、一九九〇年十一月に新しい共産党を組織した。そして、ユーゴスラビア連邦の分断を阻止する役に専念することになった。十年におよび二十万人以上の死者を出した、陰惨な民族間の殺し合いの舞台は整ったのである。

 規模は小さいが戦略的に重要なバルカンの地に、経済圧力が加えられようとしていた。ブッシュ政権がスイッチを押そうと身構えていた。一九九二年、ワシントンはユーゴスラビアに全面的な経済制裁を課し、全ての貿易を凍結した。その結果、経済は、ハイパーインフレと失業率70%という破滅を迎えた。西側の一般市民、特に米国民は、支配層のマスコミから、悪いのは全てベオグラードの腐敗した独裁者だと聞かされていた。アメリカのマスコミが、ワシントンの挑発行為やIMFの政策がバルカンにもたらした惨状を伝えることは、あったとしても極めて稀だった。
(20)

一九九五年のデイトン合意で、ボスニアの戦争は終結した。この時期と場所は、クリントン政権がカスピ海油田の戦略的重要性を認識した時期、そしでEUがカスピ海の石油をバルカン経由のパイプラインで欧州に引き込み利用しようと努力していた場所と、符合していた。ワシントンは、カスピ海から欧州への石油ルートを開発するには、この地域の平和が必要だと判断していたようである。だが、それは、ワシントンに都合の良い 「平和」でなければならなかった。

 デイトン合意の後、かつて多民族的だったボスニアは、事実上、イスラム国家となり、実質的にはIMFとNATOの属国になった。クリントン政権は、ボスニアのイスラム軍の武装に多額の資金支援をしていた。国際メディアは、アメリカの介入なくしては、自らの国境を接する地域の紛争の解決もできないと、EUの無力さを印象づけるように報道した。そうした中、ワシントンの意図するNATOの東方拡大を正当化する議論が大きく前進した。五年前には考えられなかったことだが、ハンガリー、ポーランド、チェコが、NATO加盟の候補にあがるようになっていた。

 間もなくクリントン政権は次の段階に移行し、バルカン諸国に残留している民族主義者を排除する作業に入った。ワシントンの計画に合致しない政策を掲げる可能性があるからだ。英米石油会社は、カスピ海(バクー沖と中央アジアのカザフスタン側)の地下にあると思われる膨大な石油資源の開発に大急ぎで乗り出した。地質学者は、カスピ海には「新しいクウェートかサウジアラビア」があると話していた。それが本当であれば、二千億バレルを超える石油埋蔵量があり、過去数十年で最大の油田発見になるかもしれないと米国政府は見積もっていた。高収入のワシントンの政治屋ズビグニュー・ブレジンスキー(補足: 外交問題評議会CFRの大物政治家、ロックフェラーの腹心の部下、日米欧三極委員会の発案者)は、カスピ海の石油地帯に大きな権利を持つ英米系巨大石油企業BPの利益を代表していた。



210217裏 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

2014年03月30日 09時30分14秒 | 郵便為替
210217裏 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

到着印: オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」
POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNG
19. II. 21
TRAVNIK
ボスニア・ヘルツェゴビナのTRAVNIK郵便局 1921年2月19日
「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」は、ドイツ語表記であり、「郵便為替支払い」という意味です。
この消印は、オーストリア帝国時代のドイツ語表記の消印をそのまま使用しており、珍しいものと考えられ、特にTRAVNIKのものは数が少ないと考えられます。

青色の箱型スタンプ
これは郵便関係の証示印ではなく、受取人が受け取りの際に使用するスタンプです
RAVNATELJSTVO NADB. 校長 大司教
OJEČ. SJEMENIŠTA 少年神学校
20. II. 1921 1921年2月20日
TRAVNIK (BOSNA) トラヴニク (ボスニア)

210217表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

2014年03月30日 09時29分00秒 | 郵便為替
210217表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
キリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー2次
Mi.121 10 para
ユーゴスラビア全国共通切手
Mi.150 25 para
合計35 para (140 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額の記載 30 K (7.5 Dinar)
25 Dinar以下-----25 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinar以下-----10 para
合計 35 para
貼り付けた切手と一致

消印
PROZOR 17. II. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR郵便局 1921年2月17日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました。

拡大図: ユーゴ化したDUBROVNIK郵便局の消印

2014年02月02日 16時26分58秒 | 郵便為替
拡大図: ユーゴ化したDUBROVNIK郵便局の消印

DUBROVNIK 18 2 21
ダルマチアのDUBROVNIK郵便局 1921年2月18日
オーストリア型の消印からイタリア語表記のRAGUSAを除去してユーゴ化した消印
DUBROVNIK郵便局のこのタイプの消印は、比較的珍しいもの。

210216裏チェインブレーカー2次と全国共通切手

2014年02月02日 16時26分25秒 | 郵便為替
210216裏チェインブレーカー2次と全国共通切手

到着印
DUBROVNIK 18 2 21
ダルマチアのDUBROVNIK郵便局 1921年2月18日
オーストリア型の消印からイタリア語表記のRAGUSAを除去してユーゴ化した消印
DUBROVNIK郵便局のこのタイプの消印は、比較的珍しいもの。

210216表チェインブレーカー2次と全国共通切手

2014年02月02日 16時25分14秒 | 郵便為替
210216表チェインブレーカー2次と全国共通切手

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
キリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー2次
Mi.126 45 para
ユーゴスラビア全国共通切手
Mi. 148 15 para
合計60 para (240 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額の記載 120 K (30 Dinar)
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinar以下-----10 para
合計 60 para
貼り付けた切手と一致

消印
PROZOR 16. II. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR郵便局 1921年2月16日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました。

多忙のため1月末まで更新できません

2014年01月12日 19時01分37秒 | その他
しばらく更新できていませんが、現在多忙のため1月末まで更新できません。
ご了承ください。

拡大図: オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」

2013年11月24日 18時55分42秒 | 郵便為替
拡大図: オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」

オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」
POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNG
16. II. 21
TRAVNIK
ボスニア・ヘルツェゴビナのTRAVNIK郵便局 1921年2月16日
「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」は、ドイツ語表記であり、「郵便為替支払い」という意味です。
この消印は、オーストリア帝国時代のドイツ語表記の消印をそのまま使用しており、珍しいものと考えられ、特にTRAVNIKのものは数が少ないと考えられます。

210214裏 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

2013年11月24日 18時55分04秒 | 郵便為替
210214裏 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」
POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNG
16. II. 21
TRAVNIK
ボスニア・ヘルツェゴビナのTRAVNIK郵便局 1921年2月16日
「POSTANWEISUNGS – AUSZAHLUNGI」は、ドイツ語表記であり、「郵便為替支払い」という意味です。
この消印は、オーストリア帝国時代のドイツ語表記の消印をそのまま使用しており、珍しいものと考えられ、特にTRAVNIKのものは数が少ないと考えられます。

210214表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

2013年11月24日 18時23分10秒 | 郵便為替
210214表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
キリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー2次
Mi.121 10 para
ユーゴスラビア全国共通切手
Mi.150 25 para、2枚
合計60 para (240 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinar以下-----10 para
合計 60 para
貼り付けた切手と一致

消印
PROZOR 14. II. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR郵便局 1921年2月14日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました。

拡大図: ザグレブ郵便小切手局会計部の証示印

2013年11月03日 17時08分58秒 | 郵便為替
拡大図: ザグレブ郵便小切手局会計部の証示印

Rač. Odsjek 会計部
Pošt. Ček. Ureda 郵便小切手局
u Zagrebu ザグレブ
ザグレブ郵便小切手局会計部

210213裏 ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR

2013年11月03日 17時08分07秒 | 郵便為替
210213裏 ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR

青色証示印
Rač. Odsjek 会計部
Pošt. Ček. Ureda 郵便小切手局
u Zagrebu ザグレブ
ザグレブ郵便小切手局会計部

210213表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

2013年11月03日 17時07分09秒 | 郵便為替
210213表 チェインブレーカー2次とユーゴスラビア全国共通切手の混貼り

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの郵便為替証書、クロアチア語表記、額面印紙は印刷されていない

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー2次
Mi.121 10 para
ユーゴスラビア全国共通切手
Mi.150 25 para
合計35 para (140 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額の記載 78 K 60 f (19.65 Dinar)
25 Dinar以下-----25 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinar以下-----10 para
合計 35 para
貼り付けた切手と一致

消印
PROZOR 13. II. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR郵便局 1921年2月13日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました。

拡大図: オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「GELDANWEISUNG – ANKUNFT」

2013年10月20日 18時56分05秒 | 郵便為替
拡大図: オーストリア帝国時代のドイツ語表記の「GELDANWEISUNG – ANKUNFT」

GELDANWEISUNG – ANKUNFT
10. II. 21
SARAJEVO
ボスニア・ヘルツェゴビナのSARAJEVO1郵便局 1921年2月10日
「GELDANWEISUNG – ANKUNFT 」は、ドイツ語表記であり、「現金為替到着」という意味です。
この消印は、オーストリア帝国時代のドイツ語表記の消印をそのまま使用しており、珍しいものと考えられます

210207表 ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR

2013年10月20日 18時55分25秒 | 郵便為替
210207表 ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
キリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー2次
Mi.126 45 para、2枚
合計90 para (360 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額の記載 700 K (175 Dinar)
100 Dinarを越えて200 Dinar以下-----70 para
支払い(払い出し)料金50 Dinarを越えて-----20 para
合計 90 para
貼り付けた切手と一致

消印
PROZOR 7. II. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPROZOR郵便局 1921年2月7日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました。