チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

190105オーストリア不足切手10 heller 2枚貼り

2008年06月29日 08時42分29秒 | 葉書
190105オーストリア不足切手10 heller 2枚貼り
絵葉書 Krško – Gurkfeld
切手貼付なし
手書き: Znamk ni dibiti ! 「翻訳: 切手を受け取っていない」
(備考: この文字は、葉書の本文と同じ鉛筆により書かれていますから、葉書を書いた人により書かれたと思われます。恐らく絵葉書の交換か商売をしていて、この絵葉書に関して、あらかじめこの絵葉書を出すための切手を送ってもらうことを受取人と約束していたのに、その切手を受け取っていなかったため、上記のように「Znamk ni dibiti ! 切手を受け取っていない」と書いて、料金不足になることを承知の上で相手に送ったと推定しています。)

消印: 二重丸型 GURKFELD 5/1 19 KRŠKO(スロヴェニア)
GURKFELD (KRŠKO)郵便局1919年1月5日、上がドイツ語、下がスロヴェニア語の二ヶ国語表記のオーストリアの消印
チェインブレーカー10 vinar発売(1月3日)の3日後
宛先: LJUBLJANA (スロヴェニア)
国内葉書料金: 10 heller
料金不足: 10 heller
不足切手: オーストリア 10 heller (Mi.48) 2枚、合計20 heller (不足額の2倍)
消印: LAIBACH 1 2b -6 I 19 LJUBLJANA 1(スロヴェニア)
LAIBACH 1(LJUBLJANA 1)郵便局1919年1月6日、消印識別記号2b、上がドイツ語、下がスロヴェニア語の二ヶ国語表記のオーストリアの消印

独立当時のクロアチアとザクレブの様子 2

2008年06月28日 14時41分15秒 | 葉書
1918年12月初めにクロアチアの首都ザグレブのイェラチッチ広場に到着するセルビア軍とそれを見守るザグレブ市民。
この数日後の12月5日に、クロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対して、セルビア軍が虐殺を行ないました。
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987


1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。

1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。

このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。


このような建国当時の混乱状況の中で、1918年10月29日の「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言の1ヵ月後の1918年11月29日にクロアチアの独立記念切手4種が発行されました。
この初日カバーがOSIJEK2郵便局で11月29日に消印をされて、宛先のクロアチアの首都ザグレブに配達された頃の12月5日に、ザグレブでは、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊がセルビア軍により虐殺されました。
この初日カバーは、セルビア軍によるクロアチア占領が進行する血なまぐさい最中に配達されたものです。
このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。


参考文献
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(4)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(5)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(6)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(7)Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS ザグレブの数千年
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987


独立当時のクロアチアとザクレブの様子 1

2008年06月28日 14時40分10秒 | 葉書
1918年10月29日、クロアチアの首都ザグレブのマロク広場での民族会議による「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言とそれに集まった群衆
写真出典: Dr Ivan Kampuš, Dr Igor Karaman
ZAGREB TGROUGH A THOUSAND YEARS
ŠKOLSKA KNJIGA, ZAGREB, 1987

独立当時のクロアチアとザクレブの様子

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国、ドナウ帝国)が崩壊し、南スラヴ地域に対するハプスブルク家の支配力が失われました。

1918年10月6日、ハプスブルク帝国内の南スラヴの政治指導者は、クロアチアのザグレブで、南スラヴ統一を目的として「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」(以下、民族会議と記載)を創設しました。

1918年10月29日、民族会議は、ハプスブルク帝国内の全ての南スラヴ地域から構成される「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設を宣言しました。
この民族会議の影響力は、セルビア王国と山国の小国であるモンテネグロ王国には及んでいませんでした。
あの当時のこの地域の大きな勢力は、南スラヴの盟主とみなされ南スラヴ全体の統一をもくろむ「大セルビア主義」をかかげていたセルビア王国、ザグレブの民族会議、そしてスロヴェニア・イストリア半島・ダルマチアの占領を狙うイタリア王国でした。

この10月29日の宣言の際にクロアチア議会は、非常に意味深な行動を取っています。
ダルマチア出身のクロアチア人議員を巻き込んで、中世以来のクロアチアの悲願であった、クロアチアとスラヴォニアとダルマチアを合わせた「三位一体王国」の創設をいったん宣言したのです。これは、明白なクロアチアの独立宣言でした。
(備考: スロヴェニアとスラヴォニアは異なる地域ですので混同なさらないで下さい。)
ここに「大クロアチア主義」と呼ばれるクロアチアの本音を見ることができます。
しかし、彼らは自分たちだけでクロアチアを狙うイタリア王国やセルビア王国に対抗する力を持っていませんでした。
このためクロアチアはやむを得ず、この「クロアチア三位一体王国」の独立宣言をした後に、この国をスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴビナを含む「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の中に入れ込む形にしてセルビア王国やイタリア王国に政治的に対抗しようとしたのです。

あの当時のザグレブの民族会議を取り巻く政治状況は以下のように危機的でした:
①ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による社会的混乱
②スロヴェニアの首都リュブリャナに向けてイタリア軍が侵攻を開始しましたが、スロヴェニア人の将校グループが進軍を阻止
③決定的になったのは、ロンドン秘密条約に基づいてイタリア王国がローマ帝国の領土であったアドリア海沿岸のダルマチア地方に艦隊を派遣し軍事占領を開始したことであり、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」はイタリア王国の軍事力により国土の一部を占領されてしまいました。ザグレブの民族会議がこのことを知ったのは11月24日でした。

イタリア王国に対する軍事的対抗力を持たなかったザグレブの民族会議は、セルビア王国の軍事的保護下に入るしか選択肢がなくなったため、1918年11月27日にセルビア王国との統一を進めるためにセルビア王国の首都ベオグラードに向かいました。
あの当時の新国家の構想としては、「コルフ宣言」と「ジュネーブ宣言」の二つが存在していました。
実際に採用されたのは、セルビア王国のカラジョルジェヴィッチ王朝のもとでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が居住する全ての領域からなる立憲君主国を建国する「コルフ宣言」でした。この宣言では、新国家を連邦制にするか中央集権制にするかは触れられていませんでした。
ザグレブの民族会議にとり不幸なことに、憲法制定議会により統一国家の形態を決めるまでセルビア王国政府と民族会議が共存して統治する連邦的構想であった「ジュネーブ宣言」は採用されませんでした。これは、主としてセルビア側が大セルビア主義による南スラブ全体の中央集権的支配をもくろんでいたことによると思われます。

181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 裏

2008年06月28日 14時23分40秒 | 葉書
181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 裏

裏側に1918年11月29日発行のクロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー
10 filir (Mi.51, 発行数3万枚)、耳紙に9.00
20 filir (Mi.52, 発行数3万枚)、耳紙に16.00
25 filir (Mi.53, 発行数2.5万枚)、耳紙に2.50
45 filir (Mi.54, 発行数1.5万枚)、耳紙に13.50
消印: OSIJEK 918 NOV. 29 N5 A2A (ハンガリー型消印) (クロアチア)
OSIJEK 2郵便局、1918年11月29日、昼間5時、消印識別記号A
宛先: ZAGREB (クロアチア)


独立記念切手の発行枚数とカバー
このクロアチアの独立記念切手は、発行数が45 filir 1.5万枚、25 filir 2.5万枚、10 filirと20 filir が3万枚と非常に少なく、カバーの入手は容易ではありませんし、切手の入手もそう簡単ではありません。
発行数が3万枚、2.5万枚、1.5万枚と言っただけではとピンと来ないのですが、日本の戦前の記念切手の発行数と比較すると、その少なさの感覚はつかめると思います:
1916年の裕仁立太子記念10銭8.6万枚、
1919年の飛行郵便試験記念1.5銭5万枚、3銭3万枚、
1921年の郵便創始50周年記念10銭10万枚。
これらの日本切手のカバーがどれほど希少なものかは良くご存知のことと思います。
ここでご紹介している初日カバーに貼られている4種の独立記念切手は、1919年の飛行郵便試験記念3銭3万枚と同じか、それよりも発行枚数が5千枚少ない、あるいは3万枚の半分の1万5千枚しか発行されていない切手です。
ほぼ同時代の日本のこれらの戦前の記念切手と、クロアチアの独立記念切手の直接比較は社会的・経済的状況が異なりますので困難ですが、日本人が良く知っている日本切手と比較した方がカバーの価値の類推には役立つと思われますのでご紹介いたしました。

このクロアチアの独立記念切手は、ほとんどがクロアチアの首都ザグレブZAGREBで使用されたそうです。その他には、この初日カバーにも見られるようにオシイェクOSIJEKでの使用例が知られていますが、この2都市以外の使用例はほとんどありません。
もしこの2都市以外の使用例を見かけたら(私は2例見たことがあるだけです)、郵便史的には貴重な使用例ですから無理してでも入手されることをお勧めしますが、非常に高価になることは避けられません。

尚、オーストリアやハンガリー切手を貼ってSHS創設記念日の1918年10月29日の消印の押されたカバー(小包送票、郵便為替、封書などの実逓便)が稀にオークションに登場することがあります。これらの人気は非常に高く、落札価格は状態にもよりますが、私の知る限りでは3万円を下回ることはなく、5万円を越えることもあります。

181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 表

2008年06月28日 14時22分56秒 | 葉書
181129クロアチア独立記念切手4種を貼った初日カバー 表

ハンガリー官製葉書8 fillér、左下にBudapest, 1918の印刷有り

表側のクロアチア語の文章の翻訳はできていませんので、内容の把握はできません。左下に1918年10月29日の書き込みがあり、この日は、クロアチアの首都ザグレブで民族会議による「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設宣言が行われた日です。
恐らく、SHS創設の祝いに関する記載であろうと推定しています。
表側の葉書の印面の8 fillérには消印は押されていません。
裏側に貼られている独立記念切手4種の額面総額1 Krunaから考えれば、書留・速達扱いにすることが十分可能ですが、そのような指定はされていません。
書留便であれば配達先のザグレブの到着印が押されるはずですから(ただし書留便でも到着印が押されていない使用例も多くあります)、実際に郵便で配達されたことを証明できますが、この場合は普通便ですから到着印はありません。

H. 郵便小切手

2008年06月25日 19時48分30秒 | 郵便料金
H. 郵便小切手
郵便小切手は、スロヴェニアのリュブリャナ郵政局管内で見られ、1922年初め頃まで実施されて消滅した制度であると言われています。なおその後、第二次世界大戦中のイタリア占領下で一時的に復活しています。
郵便小切手の発行はリュブリャナ郵政局により行なわれ、郵便小切手の受取人への支払いの際に配達料金が受取人から徴収され、不足切手で領収されました。
不足切手は、通常は郵便小切手の裏面に貼られて消印されました。しかし、稀に表側に貼られている場合もあります。
この制度は、ユーゴスラヴィア軍により占領されリュブリャナ郵政局管内に置かれたオーストリアのケルンテン州とシュタイヤーマルク州の鉄道路線Luttenberg-Spielfeld沿いの地域でも実施されました。


1.1918年9月1日~1919年6月30日まで
受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
10 Kronen以下 5 vinar
10 Kronenを越えて1000 Kronen以下 20 vinar
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 vinar


2. 1919年7月1日~
受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
10 Kronen以下 5 vinar
10 Kronenを越えて1000 Kronen以下 20 vinar
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 vinar

3a. 1919年9月/10月~
受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
金額によらず各取り扱いに 10 vinar

この時期の料金徴収の混乱に関しては、参考文献(1)でProf. Dr.-Ing. Klaus Wielandは次のように書いています:
『郵便小切手の受取人の支払うべき配達料金に関しては、部分的にはっきりしない点がある。時期(2)の細分化された料金は、1919年8月24日の命令No.35816/II-19により固定され、統一的に10 vinarに固定された(時期3a)。
しかしながら、1919年9月になってもなお、しばしば高い料金が誤って請求された。
これに関するこれ以外の告示は、1919年12月26日の命令No.60.169 IIa-19に再び、叱責無しに施行期日に関して述べられている。
それにもかかわらず、私は1920年1月にもなお、10 vinar不足切手の代わりに20 vinarの高すぎる料金が徴収された多くの郵便小切手を確認できた。
郵便小切手配達料金は、恐らく非常に頻繁に命令された額が徴収されなかったと思われる。1920年5月16日の後の最初の週と月では、低すぎる額の受取人が支払うべき配達料金が徴収された郵便小切手を持っている。』


4. 1920年5月16日~
受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
50 Dinar (200 Kronen)以下-----10 para (40 vinar)
50 Dinar (200 Kronen)を越えた場合-----20 para (80 vinar)


5. 1921年5月1日~1922年頃
受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
50 Dinar (200 Kronen)以下-----20 para (80 vinar)
50 Dinar (200 Kronen)を越えた場合-----50 para (2.00 Kronen)

参考文献
(1)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 47/93, p.732-735 (1993)
Prof. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Ausgewählte Postgebühren in Slowenien 1918 bis 1921
スロヴェニアにおける1918年~1921年までの郵便料金選集

(2)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 64/98, p.1144-1147 (1998)
Prof. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Ausgewählte Postgebühren im Königreich SHS 1918/19
SHS王国1918/1919の郵便料金選集

(3)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 67/99, p.1206-1207 (1999)
Prof. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Die Erhöhung der Postgebühren in Bosnien und der Herzegowina
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける郵便料金の値上げ

G. 全国統一料金: 国内保険付き(価格表記)封書料金

2008年06月22日 10時51分21秒 | 郵便料金
G. 全国統一料金: 国内保険付き(価格表記)封書料金

全ての料金は国内保険付き(価格表記)封書の発送者から徴収する。

1. 1919年7月1日~10月30日
書留書状料金、重量料金に保険(価格表記)料金を加算した。
100 Kronen以下-----25 vinar
100 Kronenを越えて500 Kronen以下-----50 vinar
500 Kronenを越えて1000 Kronen以下-----1.00 Krone
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に-----20 vinarを加算

通知料金-----10 vinar
配達料金
1000 Kronen以下-----20 vinar
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に-----10 vinarを加算


2. 1919年11月1日~1920年5月15日
書留書状料金、重量料金に保険(価格表記)料金を加算した。
300 Kronen以下-----75 vinar
300 Kronenを越えて1500 Kronen以下-----1.50 Kronen
1500 Kronenを越えて3000 Kronen以下-----3.00 Kronen
3000 Kronenを越えて3000 Kronen毎に-----1.50 Kronenを加算
最低料金は1.50 Kronen

通知料金-----15 vinar
配達料金-----60 vinar


3. 1920年5月16日~1921年4月30日
書留書状料金、重量料金に保険(価格表記)料金を加算した。
300 Dinar以下-----30 para
300 Dinarを越えて300 Dinar毎に-----30 paraを加算
最低料金は1.20 Dinar

通知料金-----10 para
配達料金-----30 para


4. 1921年5月1日~1922年9月24日
書留書状料金、重量料金に保険(価格表記)料金を加算した。
100 Dinar以下-----50 para
100 Dinarを越えて500 Dinar以下-----1.00 Dinar
500 Dinarを越えて1000 Dinar以下-----2.00 Dinar
1000 Dinarを越えて1000 Dinar毎に-----1.00 Dinarを加算

通知料金-----20 para
配達料金-----1.00 Dinar


F. 全国統一料金: 国内郵便為替料金

2008年06月21日 08時47分37秒 | 郵便料金
F. 全国統一料金: 国内郵便為替料金

全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。

1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----25 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算

支払い(払い出し)料金
全ての為替金額に対して-----10 vinar


2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para


3. 1921年5月1日~
(この料金の適用期限は文献に未記載です。1922年9月25日から有効の料金改定表には国内郵便為替料金は含まれていません。1925年6月1日から有効の料金改定表には国内郵便為替料金が含まれているため、1925年5月30日まで有効であった可能性もありますが、この点は不明確です。)

25 Dinar以下-----50 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----60 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----1.00 Dinar
100 Dinarを越えて300 Dinar以下-----1.50 Dinar
300 Dinarを越えて500 Dinar以下-----2.00 Dinar
500 Dinarを越えて1000 Dinar以下-----3.00 Dinar

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----20 para
50 Dinarを越えて-----50 para


E. 全国統一料金: 外国 封書、葉書、印刷物

2008年06月18日 20時05分12秒 | 郵便料金
E. 全国統一料金: 外国 封書、葉書、印刷物

1. 1919年8月30日~1920年5月21日
書状: 20gまで75 vinar、20gを越えると20g毎に45 vinar
葉書: 30 vinar
印刷物: 50g毎に15 vinar
書留: 75 vinar
速達: 1 Kronen

注意: 以下の国に対しては国内料金が適用された:
国内料金が、1921年1月31日まで、オーストリア(1)、ハンガリー、ブルガリアに対して適用され、1919年8月からチェコスロバキアとルーマニア(1)に対して適用された。
注: (1)1919年8月~11月まで、印刷物は50g毎に15 vinar、12月から100g以下10 vinar、100gを越えると100g毎に10 vinar。


2. 1920年5月22日~1921年3月30日
書状: 20gまで50 para、20gを越えると20g毎に30 para
葉書: 20 para
印刷物: 50g毎に10 para
書留: 50 para
速達: 60 para
注意: 以下の国に対しては国内料金が適用された:
国内料金が、1921年1月31日まで、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアに対して適用され、1919年8月からチェコスロバキアとルーマニアに対して適用された。


3. 1921年4月1日~1922年9月24日
書状: 20gまで1.00 Dinar、20gを越えると20g毎に50 para
葉書: 50 para
印刷物: 50g毎に20 para
書留: 1.00 Dinar
速達: 2.00 Dinar


D. 全国統一料金: 国内 封書、葉書、印刷物

2008年06月15日 09時07分06秒 | 郵便料金
D. 全国統一料金: 国内 封書、葉書、印刷物

1. 1919年7月1日~1920年5月15日
書状: 20gまで30 vinar、20gを越えると20g毎に30 vinar
葉書: 15 vinar
印刷物: 50gまで10 vinar、50gを越えると50g毎に5 vinar
(重量によらず速達は2 vinar)
書留: 60 vinar
速達: 1 Kronen
代金引換: 20 vinar
不足料金: 不足した料金の2倍

備考
1919年7月1日~1920年5月15日の期間では、セルビア、モンテネグロ及び外国との郵便送達に際しては、KroneからDinarへの換算を、3 Kronen = 1 Dinar の相場に決定された。(参考文献(1))
例えば、セルビアの10 para切手は、30 vinarとして計算された。


2. 1920年5月16日~1921年4月30日
書状: 20gまで25 para、20gを越えると20g毎に15 para
葉書: 15 para
印刷物: 50gまで5 para、50gを越えると50g毎に5 para
書留: 20 para
速達: 60 para
代金引換: 20 para
不足料金: 不足した料金の2倍

3. 1921年5月1日~1922年9月24日
書状: 20gまで50 para、20gを越えると20g毎に25 para
葉書: 25 para
印刷物: 50gまで10 para、50gを越えると50g毎に10 para
書留: 1.00 Dinar
速達: 1.00 Dinar
代金引換: 20 para
不足料金: 不足した料金の2倍


C.不統一期: ボスニア・ヘルツェゴビナ

2008年06月14日 13時00分16秒 | 郵便料金
C.不統一期: ボスニア・ヘルツェゴビナ

1.封書、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年6月30日まで
国内、オーストリア、ハンガリー、帝国及び王国野戦郵便局、占領地域、ドイツ宛て
封書: 20g以下20 heller、20gを越えると20g毎に5 heller
葉書: 10 heller
印刷物: 50g以下5 heller、50gを越え100g以下11 heller、100gを越え50g毎に3 heller
印刷物の速達料金: 2 heller (ドイツ宛ては除く)

書留: 25 heller
速達(価格表記封書も同様): 60 heller
代金引換(価格表記封書と小包も同様): 10 heller
配達証明(価格表記封書と小包も同様): 25 heller
未納・不足料金: 不足した料金の2倍


2.外国封書、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年8月29日まで
書状: 20g以下25 heller、20gを越えると20g毎に15 heller
葉書: 10 heller
印刷物: 50g毎に5 heller
書留: 25 heller
速達: 30 heller


3.保険付き(価格表記)書状1918年9月1日~1919年6月30日まで

国内
価格表記料金300 Kronen以下 10 heller
300 Kronenを越えて300 Kronen毎に 5 heller

オーストリア、ハンガリー、帝国及び王国野戦郵便局、占領地域、ドイツ宛て
価格表記料金300 Kronen以下 15 heller
300 Kronenを越えて300 Kronen毎に 10 heller

価格表記封書の総料金の最低料金 60 heller
(同一重量の書留封書料金+価格表記料金)

「開封状態で」郵便局に提出された価格表記封書は価格表記料金を半分に減じる(その後郵便局で封をする)。

引渡し/配達時の料金(受取人から徴収)
通知料金 5 heller
配達料金
1000 Kronen以下 10 heller
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 heller


4. 郵便為替料金1918年9月1日~1919年6月30日まで
国内、オーストリア、ハンガリー、帝国及び王国野戦郵便局、占領地域宛て
50 Kronen以下 25 heller
50 Kronenを越えて50 Kronen毎に 5 heller

ドイツ宛て
50 Kronen以下 25 heller
50 Kronenを越えて50 Kronen毎に 25 heller

郵便為替/小切手支払指図書の引渡し/配達時の料金(受取人から徴収)
支払料金
10 Kronen以下 5 heller
10 Kronenを越えて1000 Kronen以下 10 heller
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 heller


B.不統一期:クロアチア(旧ハンガリー王国)

2008年06月11日 20時15分35秒 | 郵便料金
B.不統一期:クロアチア(旧ハンガリー王国)

1.国内書状、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年6月30日まで
オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ドイツ宛ても国内料金。

書状: 20g以下の市外便20 fillér、市内便15 fillér。
20gを越えると20g毎に5 fillér

葉書: 10 fillér

印刷物: 50g以下5 fillér、50gを越え100g以下11 fillér、100gを越え50g毎に3 fillér
印刷物の速達料金: 2 fillér
ドイツ宛ての印刷物の速達は取り扱わない。

書留: 25 fillér
速達: 60 fillér
代金引換: 10 fillér
配達証明: 25 fillér
未納・不足料金: 不足した料金の2倍


2.外国書状、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年8月29日まで
書状: 20gまで25 fillér、20gを越えると20g毎に15 fillér
葉書: 10 fillér
印刷物: 50g毎に5 fillér
書留: 25 fillér
速達: 文献未記載
代金引換: 文献未記載


3.国内保険付き(価格表記)書状1918年9月1日~1919年6月30日まで
オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ドイツ宛ても国内料金。
料金は下記の料金の総和:
同一重量レベルの書留封書料金 +5 fillér
+価格表記料金300 Kronen毎に 10 fillér
しかしながら最低料金は70 fillér
通知料金 5 fillér
配達料金 1000 Kronen毎に10 fillér


4.国内郵便為替料金1918年9月1日~1919年6月30日まで
10 Kronen以下20 fillér
10 Kronenを越えた時の基本料金20 fillér
50 Kronen毎に5 fillér

支払い料金
10 Kronen以下 5 fillér
10 Kronenを越えた時 10 fillér

印紙額面が印刷されていない郵便為替証書に対する追加料金 2 fillér
(1919年7月1日以降は3 fillérの使用例が知られている)

オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ宛ては国内料金。
郵便為替の支払い料金は発送者から徴収しない。

ドイツ宛て
50 Kronen毎に 25 fillér
郵便為替の支払い料金は発送者から徴収しない。


A.不統一期: スロヴェニア及びダルマチア(旧オーストリア帝国)

2008年06月08日 19時53分24秒 | 郵便料金
A.不統一期: スロヴェニア及びダルマチア(旧オーストリア帝国)

1.国内書状、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年6月30日まで
書状: 20gまで20 vinar、20gを越えると20g毎に5 vinar
葉書: 10 vinar
印刷物: 100gまで3 vinar、100gを越えると50g毎に3 vinar
書留: 25 vinar
速達: 60 vinar、ただし遠隔地料金は2 Kronen
代金引換: 10 vinar
不足料金: 不足した料金の2倍


2.外国書状、葉書、印刷物1918年9月1日~1919年8月29日まで
書状: 20gまで25 vinar、20gを越えると20g毎に15 vinar
葉書: 10 vinar
印刷物: 50g毎に5 vinar
書留: 25 vinar
速達: 文献未記載
代金引換: 文献未記載

注意: 以下の国に対しては国内料金が適用された:
国内料金が、1921年1月31日まで、オーストリア(1)、ハンガリー、ブルガリアに対して適用され、1919年8月からチェコスロバキアとルーマニア(1)に対して適用された。
注: (1)1919年8月~11月まで、印刷物は50g毎に15 vinar、12月から100g以下10 vinar、100gを越えると100g毎に10 vinar。


3.国内郵便為替料金1918年9月1日~1919年6月30日まで
基本料金 20 vinar
50 Kronen毎の金額料金の加算 5 vinar

受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
郵便為替または郵便小切手
10 Kronen以下 5 vinar
10 Kronenを越えて1000 Kronen以下 20 vinar
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 vinar


4.国内保険付き(価格表記)書状1918年9月1日~1919年6月30日まで
書留書状料金、重量料金に保険(価格表記)料金を加算した。
300 Kronen毎に10 vinar
最低料金 60 vinar
対抗保証押印(Gegensiegelung)の場合は、価格表記料金の50%増し。

受取人により支払われる配達料金(不足切手により徴収)
国内保険付き(価格表記)書状
1000 Kronenまでの保険(価格表記) 10 vinar
1000 Kronenを越えて1000 Kronen毎に 20 vinar

受取人により支払われる通知料金(不足切手により徴収)
国内保険付き(価格表記)書状
通知状による通知 5 vinar

10, 15, 20 Krona印刷版

2008年06月07日 09時27分46秒 | スロヴェニア切手
10 Krona印刷版
1つの印刷版のみ
1920年4月1日、凸版、ウィーン、A. Reisser Nachfolgern印刷所
平滑白色あるいは黄色紙、粗雑紙、厚紙、非常に厚い紙(いわゆるダンボール紙)、灰色海綿紙
ultramarine群青色(紺青色)(めだたない濃淡)
目打ち11 1/2
40万枚(D. Novakによる)


15 Krona印刷版
1つの印刷版のみ
1920年5月15日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
光沢紙(チョーク紙)
grün緑色(hell明るい~dunkel暗い)
rötlichlila赤味がかった淡紫色(藤色)の波状の下地
目打ち11 1/2
D. Novakによると2万8800枚。
S. Veselićによると4月27日に144枚/シートを257シート(3万7008枚)印刷し、5月11日に100, 20, 24枚の小さいシート部分200枚を郵便経済局に納入した。


20 Krona印刷版
1つの印刷版のみ
1920年5月15日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
光沢紙(チョーク紙)
dunkellila暗い淡紫色(藤色)(濃淡あり)
braun茶色の波状の下地
目打ち11 1/2
6万8688枚
S. Veselićによると5月11日に144枚/シートを580シート印刷し、そして同日477枚の小さいシート(100, 20, 24枚/シート)を郵便経済局に納入した。