チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

200401裏 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

2013年02月24日 17時18分23秒 | 郵便為替
200401裏 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

到着印
BANJALUKA 5 4 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのBANJALUKA 郵便局 1920年4月5日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及



Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AB#.E3.82.AA.E3.83.BC.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.AA.E3.82.A2.E6.99.82.E4.BB.A3

バニャ・ルカ(セルビア語:Бања Лука;ボスニア語:Banja Luka; クロアチア語:Banja Luka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの西北部にある同国で2番目に大きな都市である。また、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの共和国のうち、セルビア人主体のスルプスカ共和国の最大の都市で、事実上の首都となっている(法的な首都はサラエヴォに隣接するイストチノ・サラエヴォ)。ボサンスカ・クライナ地方の中心地。

オスマン帝国時代
フェルハトパシャモスク
オスマン帝国によって支配されていた期間のボスニアでは、バニャ・ルカはボスニアのパシャルクの中心都市で、現在町の主要な通りとなっている場所に領地が築かれた。もっとも著名なパシャは、1566年から1574年にかけて統治を行ったボスニア人のフェルハト・パシャ・ソコロヴィッチ(Ferhat-paša Sokolović)である[1]。フェルハト・パシャはオスマン期のバニャ・ルカ建都に深い役割を果たした人物の一人で、手工業、小麦の倉庫、浴場、モスク等200以上の建設計画を実行している。モスクの建設期間中水道施設が周辺の住宅地区に敷かれ、道路などのインフラの整備と共にバニャ・ルカの経済や都市化が進みボスニアでの政治、経済の中心地の一つとなった。

オーストリア時代
1688年、ハプスブルクの軍の侵攻によって破壊されるが、直ぐに再興する。後にオーストリアの軍はしばしば介入し軍事的にバニャ・ルカを開発し、戦略的に軍事的な中心的とした。正教の教会と修道院がバニャ・ルカ近郊に19世紀に築かれた。19世紀、初期の工業化が進み製粉所やビール醸造所、レンガ工場、織物工場など様々な重要な建築物が建てられた。
地域のあらゆる分野を率いる都市であったが、オーストリア=ハンガリー帝国支配期までは他のボスニアの地域同様、近代化はされておらず19世紀後半から鉄道、学校、工場等のインフラの出現と開発によって西欧化が進んだ。
近代化が進んだバニャ・ルカは第一次世界大戦後、ユーゴスラビア王国のヴルバス州の州都となる。

第二次世界大戦まで
ヴルバス州の州都として初代総督(バン)スヴェティスラヴ・ミロサヴリェヴィッチ(Svetislav Milosavljević)期に急速に発展した。この間、バンスキ・ドヴォル(総督公邸)や行政庁舎、セルビア正教の至聖三者教会、劇場、博物館などの建設、グラマースクールの刷新、教員養成校の拡大、橋の整備、公園の改修などが行われている。1930年当時、バニャ・ルカでは125の小学校が機能していた。その時期、革命的な考えである"Pelagić"が生み出され協会や生徒のクラブが組織され、バニャ・ルカは自然と地域の反ファシスト運動組織の中心地となっていった。
第二次世界大戦時、バニャ・ルカはクロアチアのウスタシャによって支配された。バニャ・ルカのほとんどの身分の高いセルビア人やセファルディムの家族などは追放され、周辺のウスタシャが設置した強制収容所であるヤセノヴァツ強制収容所やスタラ・グラディシュカ強制収容所へ送られた。1942年2月7日、クロアチアのフランシスコ会修道士ミロスラヴ・フィリィポヴッチ(Miroslav Filipović)率いるウスタシャ勢力は多くの子供を含むセルビア人をドラクリッチ(Drakulići)やモティケ(Motike)、シャルゴヴァツ(Šargovac)などのバニャ・ルカ近郊で虐殺を行っている。市内の正教教会はウスタシャによってすべて破壊された。バニャ・ルカが解放されたのは1945年4月22日である。

200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

2013年02月24日 17時17分28秒 | 郵便為替
200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
キリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.108, 60 vinar、3枚、2枚は縦ペアーで左耳紙付き
合計 180 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
送金金額の記載 1000 K
900 Kronenを越えて1000 Kronen以下-----140 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 150 vinar
郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付け30 vinar
(料金の計算間違いで、30 vinar余分に徴収した可能性もある)
総計 180 vinar

消印
PRIJEDOR 1. IV. 20 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPRIJEDOR郵便局 1920年4月1日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していた

200410裏ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRSKEM JEZERU 郵便局

2013年02月17日 11時39分01秒 | 郵便為替
200410裏ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRSKEM JEZERU 郵便局

到着印
LJUBLJANA 1 2c * 12 IV 20 VIII
スロヴェニアの首都LJUBLJANA 1郵便局、1920年4月12日8時、消印域別記号2c *
オーストリア時代のドイツ語・スロヴェニア語の2か国語表記の消印から、ドイツ語部分のLAIBACH 1を削除してユーゴ化した消印

200410消印拡大図

2013年02月17日 11時38分06秒 | 郵便為替
200410消印拡大図

消印拡大図
RIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU a * 10. IV. 20
ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局 1920年4月10日、消印識別記号a *
オーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局は1919年6月30日から1920年10月27日までユーゴ軍占領下で営業

200410ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局

2013年02月17日 11時37分05秒 | 郵便為替
200410ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアのスロヴェニアのスロヴェニア語のみで表記された新形式の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.102, 15 vinar凸版、ノコギリルレット目打ち
Mi.103, 20 vinar凸版
合計 35 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
郵便為替送金金額 15 K
25 Kronen以下-----25 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計35 vinar
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない

消印
RIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU a * 10. IV. 20
ユーゴ軍第2次占領下のオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局 1920年4月10日、消印識別記号a *
オーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局は1919年6月30日から1920年10月27日までユーゴ軍占領下で営業

為替記号
黒色の正方形の箱型の証示印XII 150
これはオーストリア・ケルンテン州のRIBNIZA ob VRBSKEM JEZERU 郵便局を表すと考えられます

200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書

2013年02月10日 17時21分13秒 | 郵便為替
200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、クロアチア語表記
この前に示した使用例と同じ1920年4月1日の使用例。同じ日にオーストリア時代のボスニアの郵便為替証書とユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書が使用されていたことがわかる。

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.107, 50 vinar、ノコギリルレット目打ち、2枚
Mi.108, 60 vinar
合計 160 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
送金金額の記載 1000 K
900 Kronenを越えて1000 Kronen以下-----140 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 150 vinar
郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付け10 vinar
(料金の計算間違いで、10 vinar余分に徴収した可能性もある)
総計 160 vinar

消印
PRIJEDOR 1. IV. 20 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPRIJEDOR郵便局 1920年4月1日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していた

経由地
黒鉛筆でSarajevo (ボスニアの首都)

宛先
黒色のスタンプでクロアチア北西部のVaraždin
Wikipedia日本語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
ヴァラジュディン (Varaždin 、ドイツ語: Warasdinヴァラシュディン, ハンガリー語: Varasd, ラテン語: Varasdinum)は、クロアチア北西の都市。首都ザグレブの北81kmにある。ヴァラジュディン郡の中心地で、ドラヴァ川に近い。バロック様式の建築物、織物、食品、IT企業で知られる。

ヴァラジュディンが初めてその名を現したのは1181年、ハンガリー王ベーラ3世が近郊にある温泉(現在のヴァラズディンスケ・トプリツェ)について公式の記録で言及した際である。
ヴァラジュディンは、1209年にアンドラーシュ2世によって自由王立都市の特権を授けられた。町はクロアチア北部の経済・軍事の中心となっていった。オスマン帝国のヨーロッパ侵攻のため、町は古い要塞周囲を守勢の構造に組み立て、典型的な中世の水城(Wasserburg)の外観となった。13世紀初頭、聖ヨハネ騎士団(クロアチア語:Ivanovci)がヴァラジュディンへやってきて、教会と修道院を建てた。
14世紀終わり、ヴァラジュディン要塞はツェリェ伯の手に渡った。その後の数世紀、ヴァラジュディンの所有権は転々とし、最も影響力を持ったクロアチア貴族ベアトリツェ・フランコパン、そしてブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクがタウンホールを建設した。最後の所有者であるイヴァン・ウングナド男爵は防衛設備を増強した。16世紀終わりにはトマ・バカツ・エルジョディ伯(en)が所有者となり、ヴァラジュディン地方を治める世襲の地位を我がものとした。要塞は1925年までエルジョディ家が所有権を保持した。
1756年、バンであるフランヨ・ナダスディはヴァラジュディンに自身の公邸を設け、ヴァラジュディンは全クロアチアの首都となった。クロアチア議会(Sabor)の開催地であり、女帝マリア・テレジアによって創設されたクロアチア王立会議の開催地であった。
宗教改革と反宗教改革の時代、ヴァラジュディンは大きな影響を受けた。イエズス会がヴァラジュディンへやってくると、学校と修道院がつくられ、教会と修道院がバロック様式で建てられた。18世紀、ヴァラジュディンは多くのクロアチア人貴族の本拠地となり、1756年にはクロアチアの行政上の中心となった。1776年の大火では町の大半が焼かれ、結果として行政機能がザグレブへ戻ることになった。
19世紀より、ヴァラジュディンは完全に再建され、拡張し、工芸と貿易が華開いた。後には絹とレンガの産業がそれに続いた。劇場、音楽学校、消防署が建てられた。
20世紀、ヴァラジュディンは北西クロアチアの産業中心地として成長した。織物の製造業者Tivarは1918年に創設された。1991年のクロアチア紛争では、ヴァラジュディンはわずか数日しか直接の被害を受けなかった。それは大規模なユーゴスラビア人民軍が素早く降伏し、そのために犠牲者の数が少なく済み、武器がクロアチア軍へ供給されたからだった

200321 60 vinarの水平及び垂直方向の大きな目打ちずれ

2013年02月03日 09時23分32秒 | 郵便為替
200321 60 vinarの水平及び垂直方向の大きな目打ちずれ

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、クロアチア語表記

切手
Mi.108, 60 vinar 縦ペアー
水平及び垂直方向の大きな目打ちずれ

消印
BIHAĆ 20 III 21
ボスニア・ヘルツェゴビナのBIHAĆ郵便局 1920年3月21日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していた


Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%81
ビハチ(ボスニア語:Bihać、クロアチア語:Bihać、セルビア語:Бихаћ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属し、ウナ=サナ県の県都である。

歴史
町が登場する最古の文献は、1260年のクロアチア・トプスコ(Topusko)の所領を示した、ハンガリー王国のベーラ4世のものであり、1262年に自由都市となった。ビハチは一時期、ハンガリーとの同君連合にあったクロアチア王国の首都であったことがある。14世紀に自由都市の地位を失い、フランコパン家(Frankopan)の所領となった。16世紀にオスマン帝国との戦いが始まると、王国の直轄領とされた。その後1592年にオスマン帝国によって陥落されるまで抵抗を続けた。
ビハチ要塞はその後オスマン帝国の北西端の守りとなった。正教徒のセルビア人ヴラフ(Vlah)から改宗したハサン・パシャ・プレドイェヴィッチ(Hasan-pasha Predojević)を宰相とする、ビハチ州(sanjak)の中心となったが、後の1699年、オーストリアとの抗争が続く中でにボスニア州に統合された。1865年、再びビハチ州の中心となったが、1878年にボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下となった。
その後平和な時代が続いたことは、1888年に町を取り巻いて辺縁から隔離していた城壁が取り払われたことからも分かる。新しい政府は学校や公共施設を建造し、町の発展は加速された。
ユーゴスラビア王国建国後も西ボスニアの中心地として繁栄したが、1930年代の世界恐慌によって経済発展が阻害された。
第二次世界大戦中は、枢軸国・ファシスト勢力と戦っていた、ユーゴスラビア共産党を主体としたヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンの拠点として機能した。1942年11月、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回会合がこの地で開かれ、反ファシスト闘争の中心地となった。そのため、枢軸勢力から標的とされ、1943年にドイツ軍に再占領され、1945年にドイツが敗退するまで占領が続いた。
ビハチを中心とする地域は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦地となった。この地域はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍が支配していた一方、その周囲はセルビア人武装勢力に包囲され、3年間にわたって孤立していた。1995年夏にクロアチア共和国が、将軍アティフ・ドゥダコヴィッチ(Atif Dudaković)率いるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍と共同で実施した嵐作戦によってクロアチアの勢力圏と結ばれ、長い包囲から解かれた。