チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

200401裏 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

2013年01月27日 17時13分31秒 | 郵便為替
200401裏 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

到着印
BANJALUKA 5 4 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのBANJALUKA 郵便局 1920年4月5日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していた

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AB#.E3.82.AA.E3.83.BC.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.AA.E3.82.A2.E6.99.82.E4.BB.A3

バニャ・ルカ(セルビア語:Бања Лука;ボスニア語:Banja Luka; クロアチア語:Banja Luka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの西北部にある同国で2番目に大きな都市である。また、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの共和国のうち、セルビア人主体のスルプスカ共和国の最大の都市で、事実上の首都となっている(法的な首都はサラエヴォに隣接するイストチノ・サラエヴォ)。ボサンスカ・クライナ地方の中心地。

オスマン帝国時代
フェルハトパシャモスク
オスマン帝国によって支配されていた期間のボスニアでは、バニャ・ルカはボスニアのパシャルクの中心都市で、現在町の主要な通りとなっている場所に領地が築かれた。もっとも著名なパシャは、1566年から1574年にかけて統治を行ったボスニア人のフェルハト・パシャ・ソコロヴィッチ(Ferhat-paša Sokolović)である[1]。フェルハト・パシャはオスマン期のバニャ・ルカ建都に深い役割を果たした人物の一人で、手工業、小麦の倉庫、浴場、モスク等200以上の建設計画を実行している。モスクの建設期間中水道施設が周辺の住宅地区に敷かれ、道路などのインフラの整備と共にバニャ・ルカの経済や都市化が進みボスニアでの政治、経済の中心地の一つとなった。

オーストリア時代
1688年、ハプスブルクの軍の侵攻によって破壊されるが、直ぐに再興する。後にオーストリアの軍はしばしば介入し軍事的にバニャ・ルカを開発し、戦略的に軍事的な中心的とした。正教の教会と修道院がバニャ・ルカ近郊に19世紀に築かれた。19世紀、初期の工業化が進み製粉所やビール醸造所、レンガ工場、織物工場など様々な重要な建築物が建てられた。
地域のあらゆる分野を率いる都市であったが、オーストリア=ハンガリー帝国支配期までは他のボスニアの地域同様、近代化はされておらず19世紀後半から鉄道、学校、工場等のインフラの出現と開発によって西欧化が進んだ。
近代化が進んだバニャ・ルカは第一次世界大戦後、ユーゴスラビア王国のヴルバス州の州都となる。

第二次世界大戦まで
ヴルバス州の州都として初代総督(バン)スヴェティスラヴ・ミロサヴリェヴィッチ(Svetislav Milosavljević)期に急速に発展した。この間、バンスキ・ドヴォル(総督公邸)や行政庁舎、セルビア正教の至聖三者教会、劇場、博物館などの建設、グラマースクールの刷新、教員養成校の拡大、橋の整備、公園の改修などが行われている。1930年当時、バニャ・ルカでは125の小学校が機能していた。その時期、革命的な考えである"Pelagić"が生み出され協会や生徒のクラブが組織され、バニャ・ルカは自然と地域の反ファシスト運動組織の中心地となっていった。
第二次世界大戦時、バニャ・ルカはクロアチアのウスタシャによって支配された。バニャ・ルカのほとんどの身分の高いセルビア人やセファルディムの家族などは追放され、周辺のウスタシャが設置した強制収容所であるヤセノヴァツ強制収容所やスタラ・グラディシュカ強制収容所へ送られた。1942年2月7日、クロアチアのフランシスコ会修道士ミロスラヴ・フィリィポヴッチ(Miroslav Filipović)率いるウスタシャ勢力は多くの子供を含むセルビア人をドラクリッチ(Drakulići)やモティケ(Motike)、シャルゴヴァツ(Šargovac)などのバニャ・ルカ近郊で虐殺を行っている。市内の正教教会はウスタシャによってすべて破壊された。バニャ・ルカが解放されたのは1945年4月22日である。

200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

2013年01月27日 17時12分53秒 | 郵便為替
200401表 ボスニアPRIJEDOR 1920年4月1日オーストリア時代のボスニアの郵便為替証書

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
ボスニア・ヘルツェゴビナに住むキリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.107, 50 vinar、ノコギリルレット目打ち、2枚
Mi.108, 60 vinar
合計 160 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
送金金額の記載 1000 K
900 Kronenを越えて1000 Kronen以下-----140 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 150 vinar
郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付け10 vinar
(料金の計算間違いで10 vinar余分に徴収した可能性もある)
総計 160 vinar

消印
PRIJEDOR 1. IV. 20 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのPRIJEDOR郵便局 1920年4月1日、消印識別記号a
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していた

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%89%E3%83%AB
プリイェドル(セルビア語: Приједор,ボスニア語: Prijedor,クロアチア語: Prijedor)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市および基礎自治体で、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。プリイェドルはスルプスカ共和国では2番目に大きな都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも6番目に大きな都市である。 経済的にも豊かな都市で、幅広い工業やサービス等の産業、教育機関などが立地している。地理的にも戦略的な地点に位置し、ザグレブやベオグラードの他、リュブリャナ、ウィーン、ブダペストなど欧州連合加盟の近隣国の首都へも近いことから工業や商業の成長にとってボスニア・ヘルツェゴビナにとっては重要な位置を占めている。2006年から2009年にかけ建物の修復が進められ町は刷新され、現代ヨーロッパの中規模都市のようになった。プリイェドルは様々な宗教的な場所が混在することで知られており、カトリック、正教、イスラーム等の文化遺産がある。歴史的なオスマン期やオーストリア時代の建物はプリイェドルの町の景観を表している。

オスマン・オーストリア時代
1878年までボスニアはオスマン帝国の支配下にあった。約200年前、この地域では、数多くの要塞が築かれオーストリアから絶えず国境を守っていた。大トルコ戦争期にオスマンが敗北を喫すと国境はオーストリア側が恩恵を受ける東側に移動する。プリイェドルが最初に言及されたのは1693年から1696年にかけて起こった戦いで、オーストリア側領域の司令官によりラテン語で書かれた要塞の居住地が焼けたことに関する報告書で、パランカ・プラエドル“Palanka Praedor”と言及されている。パランカ“Palanka”はサナ川に人工的に造られた島に築かれた木製の要塞を示している。それはあまりはっきりとしていないが、プリイェドルの地名はそこから得たものとされるが、現在は2つの説がある。一つはサナ川の浸透によってこの地域一帯が洪水になったことに関連しセルビア・クロアチア語等で浸透を意味する“prodor”と、二つ目に考えられているのは人と馬の間で競走が行われたことから来ている説である。馬は一般的に“Doro”として知られ、競走では人が勝ち馬の前にゴールに達したことから、前を意味する“Prije”と合わせて馬の前を意味する“Prije Dore”となったとも言われている。18世紀中頃、新たに石で築かれた要塞が現れ3つの塔と大砲からの2つの発射口が設けられていた。1745年のイスタンブルからの情報の公文書には、2つの町に新たに築かれたパランカ・プリドルスカ・アダ(Palanka Pridorska Ada)に渡る防護を指示している。これは、最初にサナ川に面した要塞に関して言及したもので町はその後開発された。

19世紀以降
要塞の出現と一緒に、城壁の外側での居住地の開発も同時期に始まった。居住者はおそらく付近に住んでいたキリスト教徒で、居住地と町は一緒になり北側へと広がっていった。町は航行可能なサナ川の恩恵によって急速に発展し、商業や手工業の開発が進められた。後に最初の鉄道建設が行われ、プリイェドルを通っている。1873年にドブルリィナ(Dobrljina)からバニャ・ルカへ至る鉄道が開業している。要塞は1851年まで軍事施設として存在したが、町の発展とともに地元住民の住宅建設に使われるため壁は壊されている。1882年、大火に見舞われ119戸の住宅と56の大規模な商店、学校、正教の教会等が被害を蒙り140世帯の家族が家を失った。翌年、オーストリア当局によって巨大な製材所がコザラ山の麓に開業し、プリイェドルの歴史では初の工業的な施設であった。
大火の後、町の開発は集中的に進められ私有や国有の建物が増えた。木造の建築物は近代的な材質の建物に置き換えられ、都市計画が作られ通り等が整備されている。新たにセルビア系の小学校や正教の教会、ホテルなどが建てられた。町には初めて文化的な団体が現れ、同様に図書館や閲覧所、印刷所なども出現している。
第一次世界大戦後、あらたにユーゴスラビア王国が成立しボスニア・ヘルツェゴビナはその一部となった。プリイェドルは貿易や手工業の中心地として地域にとって重要な場所であった。鉄鉱石の鉱山がプリイェドル近くのリュビヤ(Ljubija)に開かれ、約4,000人の労働者が雇われ、町の経済は強いものとなった。鉱山は当時のヨーロッパではもっとも規模が大きく、近代的なものとされていた。

200306裏 40 vinar凸版バイセクト

2013年01月20日 16時04分15秒 | バイセクト
200306裏 40 vinar凸版バイセクト

到着印
ZAGREB 920 MAR -9 N? V1V
クロアチアの首都ZAGREB 1郵便局 1920年3月9日 消印識別記号V
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

為替金の支払い印
ZAGREB 920 - MAR 22 – E7 V1V
クロアチアの首都ZAGREB 1郵便局 1920年3月22日夜間7時 消印識別記号V
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印
ZAGREBに到着から支払いまで13日経過しています

右下にBudapest 1917と印刷されており、この郵便為替証書が1917年にハンガリー王国の首都ブダペストで印刷されたことを示しています。


200306表 40 vinar凸版バイセクト

2013年01月20日 16時03分30秒 | バイセクト
200306表 40 vinar凸版バイセクト
郵便為替証書
オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリー語とクロアチア語表記
額面印紙 2 fillér が印刷されている郵便為替証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.104, 25 vinar石版、ペアー
Mi.106, 40 vinar凸版、バイセクト右上
合計 70 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
左上の黒インクの記載 60 Kは、為替金額60 Kroneを意味している
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 70 vinar
右上角の為替料金記載欄の黒インクの記載70 fと一致
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない。

為替番号
長方形の枠の中に9385の暗青色の証示印
この番号はRASINJA郵便局を示すと考えられます

消印
RASINJA 6 MAR 920
E欄の記号は空欄
クロアチア北部のRASINJA郵便局1920年3月6日
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印
年月日の配列は、ハンガリー型の「年月日」ではなく、ユーゴ化されて「日月年」とされている。
しかし、イシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠は削除されておらず、部分的にユーゴ化されている。

200201裏 ハンガリー切手との混貼り

2013年01月13日 17時00分34秒 | 郵便為替
200201裏 ハンガリー切手との混貼り

切手
裏側 ハンガリー王国切手
Mi216. 25 filler 国王カール4世
1920年に入ってハンガリー王国の切手が使用された例は稀と考えられる。

到着印
ZOMBOR

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB
ソンボル(セルビア語: Sombor /Сомбор,ハンガリー語: Zombor))はセルビア北西部、ヴォイヴォディナ自治州の都市および基礎自治体である。2002年の国勢調査による人口はソンボル市街で51,471人、基礎自治体全域では97,263人であった。ソンボルは西バチュカ郡の行政的な中心都市である。

19世紀から20世紀まで
1843年の統計によれば、ソンボルの人口は21,086人でそのうち11,897人は正教に属し、9,082人はカトリックで、ユダヤ教徒が56人、プロテスタントは51人であった。この当時の町の主要な言語はセルビア語でその次を占めていたのはドイツ語であった。1848年と1849年にソンボルはオーストリア帝国内のセルビア人自治による地域であるセルビア・ヴォイボディナに属していた。1849年から1860年にかけてはオーストリアからは分離されたセルビアヴォイヴォディシップ・タミシュバナト(Woiwodschaft Serbien und Temescher Banat,Војводство Србија и Тамишки Банат)に属していた。後に廃止されると再びソンボルはバチュ・ボドログ郡の郡都に戻っている。
1910年の統計によればソンボルの人口は30,593人で11,881人がセルビア語、10,078人がハンガリー語、6,289人はブニェヴァツ方言、2,181人はドイツ語やその他の言語の話者であったとされる。
1918年からソンボルは後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国となる。 1918年から1922年にかけてはバチュカ郡の一部で、1922年から1929年にかけてはバチュカ・オブラスト、1929年から1941年にかけてはドナウ自治州(Danube Banovina)の一部であった。
1941年には枢軸国によって占領されハンガリーに併合されている。
1944年、ユーゴスラビアのパルチザンとソビエトの赤軍はソンボルから枢軸国の軍を撤退させた。1944年よりソンボルは新たにユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビア社会主義共和国のヴォイヴォディナ自治州の一部となった。今日では西バチュカ郡の郡都となっている。

200201表 ハンガリー切手との混貼り

2013年01月13日 16時59分54秒 | 郵便為替
200201表 ハンガリー切手との混貼り

郵便為替証書
オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリー語表記
額面印紙 2 fillér が印刷されている郵便為替証書

切手
表側 スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.101, 10 vinar凸版
裏側 ハンガリー王国切手
Mi216. 25 filler 国王カール4世
合計 35 vinar
1920年に入ってハンガリー王国の切手が使用された例は稀と考えられる。

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
25 Kronen以下-----25 vinar
300 Kronenを越えて400 Kronen以下-----90 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 35 vinar
右上角の為替料金記載欄の黒インクの記載35 fと一致
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない。

消印
SZOND 920 FEB 1 A
ハンガリー国境に近い北部ヴォイヴォディナのSZOND郵便局1920年2月1日、消印識別記号A
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印
この村の名前はハンガリー語でSZOND、セルビア語でSONTA
Wikipediaのアドレス
http://en.wikipedia.org/wiki/Sonta

200131表 60 vinarバイセクト

2013年01月06日 16時50分25秒 | 郵便為替
200131表 60 vinarバイセクト

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、クロアチア語表記

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.108, 60 vinar、ノコギリルレット目打ち
Mi.108, 60 vinar、ノコギリルレット目打ち、対角線バイセクト
合計 90 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

為替料金計算
200 Kronenを越えて300 Kronen以下-----80 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 90 vinar
郵便為替証書の販売価格引き上げ分の切手による追加貼り付けは行われていない

消印
DELNICE 920 – JAN. 31 █8
クロアチアのDELNICE郵便局1920年1月311日、昼間8時
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印

為替記号
長方形の枠の中に9072
クロアチアのDELNICE郵便局を表わす為替記号