チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

200502裏 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

2013年04月28日 11時25分00秒 | 郵便為替
200502裏 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 2 V 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年5月2日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

到着印
SARAJEVO GELDANWEISUNG – ANKUNFT -4. VI. 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのSARAJEVO 1920年6月4日
郵便局名のSARAJEVOと、ドイツ語の「GELDANWEISUNG ANKUNFT」(郵便為替到着)を表示した、珍しい郵便為替金の到着専用のオーストリア型の消印
備考: MOSTARの受付が5月2日であるため、同じボスニア・ヘルツェゴビナ地域へのSARAJEVOへの到着が1か月後の6月4日と33日もかかっているというのは時間がかかりすぎている。恐らく月の活字を誤植したものと推定される。

200502表 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

2013年04月28日 11時24分00秒 | 郵便為替
200502表 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語はローマ字で記載され、その下にキリル文字で表記されている
ボスニア・ヘルツェゴビナに住むキリル文字を使用するセルビア人を考慮した証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.108, 60 vinar、5枚
合計 300 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
2400 Kronenを越えて2500 Kronen以下-----290 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 300 vinar

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 2 V 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年5月2日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

200502裏 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

2013年04月21日 22時01分50秒 | 郵便為替
200502裏 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.103, 20 vinar凸版
Mi.107, 50 vinar、6枚
合計 320 vinar

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 2 V 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年5月2日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

到着印
ボスニア・ヘルツェゴビナのSARAJEVO

200502表 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

2013年04月21日 21時59分37秒 | 郵便為替
200502表 ボスニアMOSTAR郵便為替払込み印

郵便為替証書
オーストリア帝国の郵便為替証書、額面印紙は印刷されていない、
ドイツ語、ボスニア語がローマ字で記載された証書、キリル文字による表記はない

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.103, 20 vinar凸版
Mi.107, 50 vinar、6枚
合計 320 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
2600 Kronenを越えて2700 Kronen以下-----310 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 320 vinar

消印
*MOSTAR*1 POSTANWEISUNG - EINZAHLUNG 2 V 20
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR 1郵便局 1920年5月2日
郵便局名のMOSTAR 1と、ドイツ語の「POSTANWEISUNG EINZAHLUNG」(郵便為替払込み)を表示した、珍しい郵便為替金の払込み専用のオーストリア型の消印

Wikipediaの記載
モスタル(ボスニア語: Mostar、クロアチア語: Mostar、セルビア語: Мостар) は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する。また、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都[2]でヘルツェゴビナ地方[3]の最大の中心都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市である。市内をネレトヴァ川が流れている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期には事実上独立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都と定められていた(ただし政治情勢によって、事実上の首都はモスタル近郊のグルデであった)。

歴史
今日、モスタルには新石器時代、青銅器時代、鉄器時代など先史時代より広く人が生活していた跡が確認されている。もっとも古い集落はブナ川上の泉の洞窟であった。鉄器時代には農業や牧畜も発展し、周辺地域との交易が行われていた。また、ローマ化以前のイリュリア人の生活の跡も残されており、墓地や要塞の跡も見つかっている。ローマ以前の人が住んでいた洞窟や、貨幣、武器なども残されていた。ローマ時代この地域は属州ダルマチアに含まれていた。モスタル周辺では初期キリスト教のバシリカが3つ発見されている。その中でも5世紀から6世紀に遡るシムバシリカ (en) はボスニア・ヘルツェゴビナの文化財となっておりこの地域にキリスト教が広がっていたことを示している。ローマ帝国崩壊後は、スラヴ人がやって来るようになる。[4]

中世
中世初期、モスタル周辺はザクルミア (en) またはザフムリェと呼ばれる公国の領域に含まれていた。ザフムリェは自治に関しフランク王国の影響を強く受けていたが、ザフムリェ公ミハイロ・ヴィシェヴィッチ (en) (Michael Višević 910 - 950)の時期には確実な自治を得ていた。13世紀になるとザフムリェは一時的にネマニッチ朝 (en) に吸収される。14世紀に入り1320年代になると、ザフムリェはボスニア王国の一部となる。14世紀から15世紀にかけフムの君主は力があった。その中のスチェパン・ヴクチッチ公 (en) がモスタル近郊のブラガイに居住し、1448年にヘルツェグの称号を得ている。ヘルツェグの称号は聖サヴァ公国 (en) や聖サヴァに関連したものとされ、今日のヘルツェゴビナ、ヘルツェグ・ノヴィなどの地名とも関連する。モスタルの成立に関連して、おそらくスチェパン公時代の1440年代に2つの塔と要塞が築かれた。右岸に築かれた要塞はタラ(Tara)と呼ばれ、左岸はヘレビヤ(Helebija)と呼ばれていた。ヘレツグサ塔はタラ塔の隣に築かれた。塔は防御のために築かれ、以前からある木製の吊り橋も引き続いて使われた。これも、スチェパン公の時代に築かれている。アルファンソ5世の特許状にも間接的に言及されていた。居住地としてモスタルが最初に文書に記録されたのは1452年4月3日からで、ドゥブロヴニク出身者がジョルジェ・ブランコビッチ(Đorđe Branković)に仕えていた同郷者に手紙を記した時、ヴラディスラヴ・ヘルツェゴヴィッチ(Vladislav Hercegović)が彼の父親であるスティパン公に抵抗し、ブラガイ(Blagaj)の町や2つの要塞、ネレトヴァの橋(“Duo Castelli al ponte de Neretua.”)を含む他の場所を占領したと述べている。[5]

オスマン支配期
モスタルの名称が最初に表れたのはオスマントルコによる1468年から1469年の調査で、ネレトヴァ川河畔にあった村の2つの塔を言及したもので、ラグーサ共和国議会の文書により1474年明らかになった。モスタルの地名は実在した市場から左岸に向けて架かっていた木製の橋を守る「橋の番人」を意味するモスタリ(mostari)から来ているとされている。オスマン帝国がモスタルを支配し始めたのは1468年頃とされ、35人のオスマン兵が滞在し土地は分割され住民は農奴にされた。モスタルはオスマン帝国の支配下に入ると[5] 居住地の都市化が始まるが、最初はカディルク(カーディー)と呼ばれる法・行政管区の中心として整備された。この時以来、モスタルは鉱物資源が豊富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレトヴァ川右岸の居住地の広がりをみせた。[4]オリエンタル支配については記されていないが、町は市場であるチャルシア(čaršija)や手工業、商業中心地とマハラ(近隣住区)や住宅地区の2つの異なった地区に組織された。1468年、モスタルはトルコ語で橋のそばの要塞を意味するキョプリュヒサール(Köprühisar)の名を得ており、当時中心部には15軒の住居があった。[6]16世紀、ネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァサンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域の行政の中心都市となった。現在に至るまでモスタルの象徴的な存在であるスタリ・モストは1566年には木製の橋から石橋に代わり、建築家ミマール・スィナンの門下生であったミマール・ハイルッディンにより造られオスマン時代の重要な建築物の一つとなっている。スタリ・モストは全長28m、高さ20mを誇り当時直ぐに驚嘆する物となった。著名なオスマンの旅行家エヴリヤ・チェレビは17世紀に「橋は一方の崖から他の崖へ延び、空まで舞い上がる虹のようだ・・・。私はアッラーの一人の貧しく惨めな従属者に過ぎず、16カ国も巡ったが今までこのような高い橋は見たことがない。橋は空と同じような高さを岩から岩へ架けられている。」と記している。[7]
16世紀から17世紀にかけ急速に町は発展し、この間モスタルの人口は10,000人に達した。町は典型的なオスマン帝国の町として通りや近隣が開発された。旧市街は一番古くモスタルを表す橋に次いで最も重要な物で、ネレトヴァ川の両側に広がる。興味深い記録として17世紀から18世紀初期にはモスタルには24のモスクと22のマハラがあった。オスマン様式の町の発展は17世紀後半から18世紀初期にはピークを迎え、オスマンの支配力も19世紀半ばには衰えていき、これに代わってキリスト教が主要な役割を担うようになってきた。宗教の寛容から町でのキリスト教の宗教施設やコミュニティの建設が受け入れられた。もっとも古い正教の教会は1834年に町の東側の山の斜面に建てられている。その後、カトリックも自らのスペースを確保している。

近世・近現代
1878年から第一次世界大戦後の1918年までモスタルはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった。1881年にはモスタル・ドゥヴノ司教管轄区の中心地となり、1939年にはユーゴスラビア王国のクロアチア自治州の一部となっている。第二次世界大戦時、モスタルはナチスの傀儡政権であるクロアチア独立国の重要都市でもあった。第二次世界大戦後、モスタルはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の下、工業都市として開発が進められプラスティック、タバコ、ボーキサイト、ワイン、飛行機、アルミニュウム製品が製造されグラボヴィツァ(Grabovica)、サラコヴァツ(Salakovac)、モスタルなどのダムがネレトヴァ川に建設され水力発電が行われている。モスタルはこの間ユーゴスラビアの著名な工業、観光の中心都市であった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言後の1992年から1993年にかけ18ヶ月間、包囲下にあった。ユーゴスラビア人民軍(JNA)が最初にモスタルを爆撃したのは1992年4月3日で続いて徐々に町を支配下に置いていった。1992年6月12日、クロアチア防衛評議会(HVO)はJNAをモスタルから追いやる十分な力を集めた。JNAは報復として砲撃を行い、フランシスコ会修道院やカトリックの大聖堂、5万冊の蔵書がある図書館を含む司教宮殿、カラドジョズ・ベイモスク(Karadžoz-bey)や他の13のモスクを破壊している。1992年6月半ばには戦線は東側に移動し、HVOはセルビア正教会のジトミスリッツ修道院や1863年から1873年にかけ建てられた正教の至聖三者大聖堂(Саборна црква Св. Тројице、通称「正教の古い大聖堂」)、生神女誕生聖堂(Црква Рођења Пресвете Богородице/Crkva Rođenja Presvete Bogorodice、通称「正教の新しい聖堂」)など19世紀中頃以来の建物を破壊している。[8][9] ボスニア・ヘルツェゴビナ閣僚理事会の議長であるニコラ・シュピリッチ(Nikola Špirić)によれば2008年春に大聖堂は再建を開始するとされ、チャールズ皇太子も資金を拠出している。[10] 1991年11月18日、クロアチア民主同盟(HDZ)のボスニア・ヘルツェゴビナの姉妹政党であるHDZ BiHはヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の存在を宣言し、政治、文化、経済、領土のすべてをボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言している。モスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配することになった。1993年11月9日には両勢力の対峙により、クロアチア勢力側によりスタリ・モストは破壊されている。紛争後、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICYT)はヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の指導者を人道に反する罪やスタリ・モストの破壊を含め他の戦時中の犯罪に対して訴追している。

紛争終結後
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の1995年以降、モスタルの復興は急速に進むこととなった。紛争で廃墟となった場所には新たに住宅やショッピングセンターなどが整備されている。モスタルは欧州連合の監視団による直接的な監視の下、各選挙が行われ民族間の調停や都市の政治的な統制が考えられた。また、復興には1,500万ドル以上が使われている。破壊されたスタリ・モストや周辺の歴史的な建物の再建も1999年には開始され、2004年にはほとんど完成している。復興にはスペイン、アメリカ、トルコ、オランダ、クロアチアが資金援助を行っている。グランドオープンは2004年7月23日に厳重な警戒の下執り行われた。 スタリ・モストの再建と並行してアガ・ハーン文化財団(AKTC)とワールド・モニュメント財団(WFMN)は5年間で歴史的なモスタルを再建、復興する努力を引き受けている。[11] モスタル旧市街の復興がない限り、橋の復興だけでは意味が欠けることが早い段階から理解され、歴史的なモスタル特にスタリ・モスト周辺の再建を助ける為の旧市街の保存スキームや個々の再建計画が形作られた。プロジェクトの結果、計画に基づき復興された旧市街の建築物群の運営や維持、文化、観光地としてのモスタルの広報を行うなど重要な役割を担うスタリ・グラードエージェンシー(Stari Grad Agency)が設立された。公式にはスタリグラードエージェンシーは橋の開業式典と同時に業務を開始している。[12] 2005年7月、ユネスコはスタリ・モストとその周辺の旧市街を世界文化遺産に登録している。


200428裏 20 vianr凸版バイセクト

2013年04月07日 18時04分41秒 | 郵便為替
200428裏 20 vianr凸版バイセクト

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.103, 20 vinar凸版、バイセクト、裏面に貼りつけ

切手の消印
ILOK 28 APR 920
クロアチアILOK郵便局1920年4月28日
楕円型のハンガリー式の消印

到着印
LJUBLJANA 1 -3 V. 20. - 10 2c *
スロヴェニアのLJUBLJANA 1郵便局1920年5月3日10時、消印識別記号2c *
オーストリア型のドイツ語-スロヴェニア語の2か国表記の消印からドイツ語表記のLAIBACH 1を削除してユーゴ化した消印

支払い印
LJUBLJANA 6 5 20
スロヴェニアのLJUBLJANA 郵便局1920年5月6日
オーストリア型のドイツ語-スロヴェニア語の2か国表記の消印からドイツ語表記のLAIBACHを削除してユーゴ化した消印

右下角にZagreb 1919と印刷されているため、1919年にクロアチアの首都のZagrebで印刷されたと考えられる。


200428表 20 vianr凸版バイセクト

2013年04月07日 18時02分03秒 | 郵便為替
200428表 20 vianr凸版バイセクト

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの新形式の郵便為替証書
1919年中頃に、郵便為替の価格が3 filirに値上げされ、額面印紙「Pošta Kraljevstva SHS 3 fil」と印刷された新しい郵便為替が登場した。この新郵便為替証書の早期使用は1919年7月7日(ZAGREB 6)、後期使用は1920年9月。

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.103, 20 vinar凸版、バイセクト、裏面に貼りつけ
Mi.104, 25 vinar石版
合計 35 vinar

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
1. 1919年7月1日~1920年5月15日
25 Kronen以下-----25 vinar
25 Kronenを越えて50 Kronen以下-----50 vinar
50 Kronenを越えて100 Kronen以下-----60 vinar
100 Kronenを越えて100 Kronen毎に-----10 vinarを加算
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar

料金計算
送金額の記載25 Kronen
25 Kronen以下-----25 vinar
支払い(払い出し)料金、全ての為替金額に対して-----10 vinar
合計 35 vinar
この使用例では、郵便為替証書の販売価格引き上げ分を切手で追加貼り付けする措置は行われていない。

消印
ILOK 28 APR 920
クロアチアILOK郵便局1920年4月28日
楕円型のハンガリー式の消印

長方形の証示印: 9160
為替管理用のものでILOK郵便局を示すと考えられる。

ILOKに関するWikipediaの記載
イロク(クロアチア語: Ilok,ハンガリー語: Újlak,ドイツ語: Illok,トルコ語: Uyluk)はクロアチア東部ヴコヴァル=スリイェム郡の都市およびそれを中心とした基礎自治体である。セルビアのヴォイヴォディナとはドナウ川を挟み国境を接している。ハンガリー語での呼称であるウーイラク(Újlak)は新しい場所を意味している。

人口・民族構成

2001年の国勢調査によればイロクの人口は市街で5,897人、基礎自治体全体では8,350人[1] であった。基礎自治体内にはバプスカ(Bapska)、シャレングラド(Šarengrad)、モホヴォ(Mohovo)などの村が含まれる。イロクはクロアチアでは最大のスロバキア人マイノリティーが住む自治体である。
2001年現在の民族構成
クロアチア人 - 76.94%
スロバキア人 - 12.50%
セルビア人 - 6.78%
ハンガリー人 - 1.17%

歴史
今日のイロク周辺地域は新石器時代より人が住み始めたとされている。1世紀から2世紀にかけてのローマ時代には集落や最初のドナウ川の要塞があった。スラヴ人が住み始めたのは6世紀のことで、おそらくアヴァールが居なくなった後のこととされる。その後、中世ハンガリー王国になるまでこの地はブルガリア帝国によって支配されるようになる。
12世紀、13世紀イロクは交易都市として文書には様々な名称(Iwnlak, Vilak, Vylok, Wyhok, Wylak)で言及されている。13世紀終わりにはハンガリー王がヴィラク・カストルムを有力な貴族であるチャーク家(Csák)に与えている。13世紀、14世紀、イロクは半独立国であるチャーク・ウグリンが領有する中世の国・上スレムの首都であった。1354年以後イロクはガライ家のミクローシュ(Garay Miklós)およびパール(Garay Pál)、そしてコント・ミクローシュ(Kont Miklós)の支配下にあった。その後、ウーイラキ家の強力な支配者であったミクローシュ(Újlaki Miklós)やレーリンツ(Újlaki Lőrinc)が支配する。ウーイラキ・ミクローシュは1457年から1463年まで「全スラヴォニア」のバンで、1477年から1524年まで彼の息子であるレーリンツはスレムの君主であった。
1526年から町はオスマン帝国支配下に入る。オスマン支配下時期にはムスリムが多数を占めるようになる。1566年から1569年にはイロクには238戸のムスリムの家と27戸のキリスト教徒の家があったとされる。1669年のイロクには1,160戸があり2つのモスクがあった。1697年、ハプスブルク君主国の軍隊が町を占領した時にはオスマンやムスリム住民は町から逃れた。ハプスブルク支配時、イロクはクロアチア王国やハンガリー王国とともにハプスブルクの国として、スラヴォニア王国に属していた。1849年から1868年の間、スラヴォニア王国はハプスブルクからは完全に分離されていたが、1868年にクロアチア王国と統合されクロアチア・スラヴォニア王国となっている。
1918年、イロクはスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の領域となり、その後ユーゴスラビア王国となる。1939年から1941年の間はユーゴスラビア王国のクロアチア自治州(Banovina Hrvatska)に属し、1941年から1944年にはナチスの傀儡国家クロアチア独立国に属していた。第二次世界大戦後の1945年からは新らたにユーゴスラビア社会主義連邦共和国のクロアチア社会主義共和国となる。
1991年10月7日からのクロアチア紛争時にはセルビア人の準軍事組織が率いるユーゴスラビア国軍からの占領からクロアチア人や非セルビア人たちはイロクの町から逃れているが、周辺の急速な占領からの破壊は免れている。1991年から1995年までイロクはクライナ・セルビア人共和国の支配地域となる。この地域がクロアチアに平和的に再統合されるのは1998年で、ドナウ川に浮かぶシャレングラド島(Šarengrad)は未だセルビアに実効支配されている。

みどころ
イロクはドナウ川の国境や河港の町として通過地点であり、クロアチア最東端の地である。重要な文化的、歴史的な遺産も多くありゴシック教会やオスマン時代のイスラム様式の建物の跡など、東西の芸術の違いがはっきりと現れている町としてクロアチアでは興味深い町の一つである。また豊富なワインの生産地でもあり、毎年9月下旬から10月上旬にかけ、イロクを象徴する伝統的な行事であるぶどうの収穫が行われる。イロクの地元料理やイロクワインであるトラミネル(Traminer)、ブルグンディ(Burgundy)、グラセビナ(Grasevina)はクロアチア国外でも知られている。