チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

ユーゴラヴィア崩壊 本当の原因

2017年06月11日 15時35分25秒 | 歴史・社会的状況
スロヴェニア独立戦争(10日戦争)中のカバー
スロヴェニア独立戦争4日目の1991年6月29日に、MARIBOR(マリボール)市の南約5kmに位置する町HOČE(ホチェ)からマリボール市宛ての書留・速達便。スロヴェニア独立記念切手とユーゴスラヴィア普通切手の混貼り。
マリボール市に到着したのは7月1日(裏に到着印)です。たった5kmの距離しかなく、しかも速達便であるにも関わらず2日間もかかっています。これは、6月27日にユーゴスラヴィア連邦軍の戦車部隊がマリボール市内に突入して占拠していたためです。


私がユーゴスラヴィア(意味は「南スラヴ人の土地(国)」)の郵便史研究のための調査を始めた1991年3月から約3カ月経過した6月末のある日(6月28日頃だったと記憶しています)、NHKの夜7時のニュースの冒頭で、ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共和国の高速道路に止められた数台のバスのバリケードを砲撃するユーゴ連邦軍の戦車の映像が映し出され、ユーゴ内戦が始まりました(スロヴェニア独立戦争(10日戦争とも呼ばれる))。

その後あっという間に戦火がユーゴ全体に広がり、クロアチア内戦(東スラヴォニアと南西部のクライナ地方)、ボスニア内戦、マケドニア独立、コソボ紛争、ユーゴ空爆と戦乱が続き、終には2006年にセルビアとモンテネグロが分裂してユーゴスラヴィアは完全に消滅しました。
この様子は、このブログをご覧の皆様もマスコミ報道でご覧になったはずです。
このようなユーゴスラヴィアの崩壊を見ながら、それと同時並行でその国の建国当時の郵便史の収集と研究を進めるという、何とも言えない皮肉なことになったことは予想外でした。

多民族・多宗教国家ユーゴスラヴィアが崩壊したのは、歴史的に積み重なった民族と宗教の対立の怨念が原因であると一般には報道され、学者もこのように解説しています。

しかし、崩壊前の状態を調べてみると、民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人など)、宗教(ローマカトリック、セルビア正教、イスラム教)の枠組みを越えた、「ユーゴスラヴィア人」という認識がかなり広まっており、チトー大統領の元で独自の社会主義の自主独立路線を引いていたこの国は、比較的豊かで自由で幸福な国であったことが報告されています。

このため、ユーゴスラヴィアがなぜ崩壊したのか、はっきりとした理由が分からない状態でした。

ところが最近、次の本を読むに至って、ユーゴスラヴィアの崩壊は、アメリカが計画的に仕掛けた秘密工作が原因であったことが明らかになりましたのでご紹介します。
マスコミ報道や学者の言うことは、全くの嘘であり、支配構造の強制的変化をもくろんだアメリカの地政学的な世界戦略が原因であったことが証明されています。

ロックフェラーの完全支配 ジオポリティックス(石油・戦争)編
ウィリアム・イングドール (著), 為清勝彦 (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2010/9/30)

著者略歴イングドール,F.ウィリアム
1944年8月9日、米国ミネソタ州ミネアポリス生まれ。プリンストン大学政治学科卒業、ストックホルム大学・大学院で比較経済学を研究。70年代の石油・穀物危機を契機に以来30年余り、エネルギー、農業、貿易、金融など極めて広範な分野をカバーし、石油ピーク説・地球温暖化論の虚偽を暴くなど、稀有の分析力で世界支配の構図を鋭く解明している。独ラインマイン大学経済学講師、北京化工大学客員教授。現在、妻とドイツに在住 (以上はアマゾンの情報)


p.423~
ワシントンと相棒1M Fが決めた 民族主義的経済優等生は危険につき
ポスト冷戦、緩衝地帯はもう不要とユーゴスラビア処分

 米国製の経済「ショック療法」がソ連に処方されるずっと前に、バルカン半島諸国が米国の干渉の標的になっていた。ワシントンが早い段階でユーゴスラビアに注目するようになったのは、ユーゴスラビアの経済モデルの破壊が重要だと認識していたからである。中央アジアの潜在的な石油資源という意味で、一九九〇年代中盤に向け、ワシントンにとってユーゴスラビアの戦略的位置づけは、ますます重要になっていた。一九九〇年代後半を通じ、ワシントンのバルカン政策では、石油とドルが決定的に重要な意味を持っていた。だが、それは西側の評論家が想像したような単純な内容ではなかった。(17)

 ベルリンの壁が崩壊するずっと前に、ワシントンはいつもの相棒(IMF)と一緒に、当時ユーゴスラビアだった地域で忙しく働いていた。ユーラシアの地図を第一次世界大戦以前の状態(英国他の利権がオスマン帝国を解体し、ドイツのバグダード鉄道の夢を砕こうとして介入したときの状態)に戻すため、バルカンの民族主義は外部から操られていた。

 その狙いは明らかだった。
ユーゴスラビアを、自立できないほど小さな国に細分化し、西欧と中央アジアの交差点に、NATOと米国の足場を築きたかったのである。石油と地政学は、再びワシントンの最大関心事になっていた。

 皮肉にもー九九〇年代初期に、まさにNATOの存続理由だったワルシャワ条約機構が解体され、NATOの意義は消滅したかに思えていた。どんな脅威があれば、一九四九年の冷戦同盟(西欧全域への米国の軍事展開)を継続させる理由になるというのだろうか? ましてNATOを東へとさらに拡張させる理由がないことは言うまでもない。多くの人は、ソ連の脅威が確実に消滅したのであれば、NATOも解体になると期待しでいた。だが、ソ連の崩壊を待たずしで、既にワシントンの戦略家はNATOの新しい任務を考え始めていた。

新たに提案されたNATOの任務は、「NATOの域外配備」と名付けられ、NATO加盟国の国境をはるかに超えた活動を意味していた。さらにこの新任務は、1994年、「平和のためのパートナーシップ(PfP)」と結合した。PfPは、旧ワルシャワ条約機構の軍事力を、順次、米国が率いるNATOに統合していくというワシントンの計画である。

共和党のリチャード・ルーガ上院議員は、冷戦が終わっても米国が支配するNATOというジレンマを「NATOの選択、域外派兵か、それとも失業か」という名言で表現している。実に都合の良いことに、バルカンの戦争(ユーゴスラビア紛争)は、ワシントンにとってNATOを延長する絶好の理由になったのである。この紛争は十年以上続くことになった。

ワシントンは、四十年間以上、ソ連に対抗する緩衝地帯として、ユーゴスラビアとチトーの独自社会主義モデルを目立たないように支持していた。だが、ソ連がバラバラになると、緩衝地帯の価値はなくなっていた。むしろワシントンにとっては、経済的にうまく機能していた民族主義の部分は、近隣の東欧諸国に対し、極端なIMFショック療法ではなく中道的な経済形態もあり得ると気付かせる可能性があったため、危険だった。ワシントン上層部の戦略家にとっては、この理由だけでも、ユーゴスラビア型の経済は解体しておく必要があった。ユーゴスラビアが中央アジアの潜在的な石油資源への最短経路に位置する事実は、補強理由になっただけである。ユーゴスラビアは、必要とあらば、絶叫させ、くたばらせてでも、IMF流の自由市場改革に組み込まなければならなかった。そのケリはNATOがつけることになった。

 ソ連の体制が末期状態にあることが明白になっていた一九八八年には既に、ワシントンはユーゴスラビアにアドバイザーを送り込んでいる。その人々は、ワシントンの仲間たちが、NED(米国民主主義基金)と呼んでいた、大仰な名前を持つ奇怪な私的・非営利組織だった。この「民間」組織が、ユーゴスラビアのあちこちで気前よくドルをばら撒いて、反体制グループに資金を提供し、空腹を抱えて新しい暮らしを夢見る若いジャーナリストを買収した。また、反体制の労働組合、IMFに好意的な反体制派経済学者、人権擁護のNGOに資金を与える活動を始めた。

 それから十年後の1998年(NATOがベオグラードを爆撃し始める一年前)、NEDの責任者ポール・マッカーシーは、「ソロス財団とヨーロッパ系の財団も若干いたが、NEDは、ユーゴスラビア連邦共和国で補助金を支給し、地元NGOや独立系メディアと一緒に行動した数少ない西側の組織だった」と、ワシントンで自慢気に話している(19)。冷戦の時代であれば、そんな外国への内部干渉は、CIAの不安定化工作と言われた類のものであるが、ワシントンの新言語では「民主主義の促進」と翻訳された。結果的に、セルビア人、コソボ人、ボスニア人、クロアチア人たちの生活水準は、壊滅状態になった。

1990年以降にユーゴスラビアで起こったことの意味を理解したのは、わずかな内部関係者のみだった。ワシントンは、NED、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ財団」、IMFを使い、地政学の政策を進める道具としてユーゴスラビアの経済混乱を発生させたのだ。一九八九年、IMFはアンテ・マルコピッチ首相に、経済構造改革を強行するよう要求した。理由はともあれ、彼は実行した。


**注:
当時NEDの代表だったマッカーシーは、1988年以来、旧ユーゴスラビアのさまぎまな反体制組織、ジャーナリスト、マスコミ、労働組合への資金掟供でNEDが果たした役割を詳しく説明している。NEDは1983年のレーガン政権のときに設立され、ワシントン内部で「諜報機関の民営化」と言われていたものの一環だった。1960~70年代にCIAが前線組織に資金提供していたことが明るみになり痛手を被ったが、議会はNEDのような「民間」組織を設立・資金援助することに同意した。やることは同じだが、公然とすることになった。1991年9月21日の「ワシントン・ポスト」 のインタビューで、N E Dの立案者Allen Weinsteinは、「今我々がやっでいることの大半は、25年前にはCIAが極秘でやっていたことだ」と述べている。ある邪悪なCIAのエージェントは、NEDの人道的「運動家」に変身している。主権国家の不安定化工作で非難されるどころか、NEDの運動家は、セルビアやブルガリア等で彼らの敵を「腐敗した民族主義者」と非難している。2003年後半にはフセイン後のイラクを「民主化」する主役を務めるよう、ブッシュ政権がNEDを教育していた。**


 IMFの政策により、ユーゴスラビアのGDPは、一九九〇年には7・5%低下し、一九九一年にはさらに15%低下した。工業生産は、21%も急減した。IMFは、国営企業の大量売却=民営化を要求した。その結果、一九九〇年までに、千百社以上が倒産し、20%以上が失業した。国の各地域にかかった経済圧力は、爆発性のカクテルとなった。予想できでいたことだが、経済混乱が進む過程で、各地域は生き残りをかけて近隣の地域と争うようになったのだ。完膚なきまでに破滅させるため、IMFは、あらゆる賃金を一九八九年の水準で凍結するように命令した。激しいインフレが進行する中、一九九〇年上半期で実質賃金は41%低下した。一九九一年には、インフレ率は140%を超えていた。そして、この状況で、IMFは、通貨ディナールの完全兌換性と金利の自由化を命じたのである。ユーゴスラビア政府が、自らの中央銀行から借り入れるのを阻止し、社会政策等に必要な資金を調達する能力を麻痺させようとしたIMFの意図は明白である。こうした凍死状態の経済により、一九九一年六月にクロアチアとスロベニアが正式に分離独立宣言するまでもなく、既に経済的には事実上の分離状態になっていた。
  

違法な内政干渉 狙いはカスピ海油 連邦解体、ボスニア戦争、コソボ戦争
IMFショック療法は図に当たりバルカンは流血と憎悪の渦に

一九九〇年十一月、ブッシュ政権の圧力で、米国議会は「海外活動予算法」を可決した。
この新法には、所定の六カ月以内にユーゴスラビアからの独立を宣言することができない地域は、全ての米国の資金援助を失うことになるとの条項があった。また、この法律は、ユーゴスラビアの六つの共和国が、アメリカ国務省の監督の下、それぞれ個別に選挙を実施するよう求めていた。さらに、どんな援助も、ベオグラードの中央政府ではなく、直接個々の共和国に対してなされると規定された。要するに、ブッシュ政権は、ユーゴスラビア連邦の自滅を要求したのである。新たなバルカン戦争の導火線に、わざと火をつけたのである。

 ソロス財団やNEDなどを経由したワシントンの資金援助は、確実にユーゴスラビアの分断につながるよう、過激な民族主義者や元ファシスト組織に向けられることが多かった。IMFのショック療法とワシントン直々の不安定化工作のミックスに対抗し、ユーゴスラビア大統領(セルビアの民族主義者スロボダン・ミロシェビッチ)は、一九九〇年十一月に新しい共産党を組織した。そして、ユーゴスラビア連邦の分断を阻止する役に専念することになった。十年におよび二十万人以上の死者を出した、陰惨な民族間の殺し合いの舞台は整ったのである。

 規模は小さいが戦略的に重要なバルカンの地に、経済圧力が加えられようとしていた。ブッシュ政権がスイッチを押そうと身構えていた。一九九二年、ワシントンはユーゴスラビアに全面的な経済制裁を課し、全ての貿易を凍結した。その結果、経済は、ハイパーインフレと失業率70%という破滅を迎えた。西側の一般市民、特に米国民は、支配層のマスコミから、悪いのは全てベオグラードの腐敗した独裁者だと聞かされていた。アメリカのマスコミが、ワシントンの挑発行為やIMFの政策がバルカンにもたらした惨状を伝えることは、あったとしても極めて稀だった。
(20)

一九九五年のデイトン合意で、ボスニアの戦争は終結した。この時期と場所は、クリントン政権がカスピ海油田の戦略的重要性を認識した時期、そしでEUがカスピ海の石油をバルカン経由のパイプラインで欧州に引き込み利用しようと努力していた場所と、符合していた。ワシントンは、カスピ海から欧州への石油ルートを開発するには、この地域の平和が必要だと判断していたようである。だが、それは、ワシントンに都合の良い 「平和」でなければならなかった。

 デイトン合意の後、かつて多民族的だったボスニアは、事実上、イスラム国家となり、実質的にはIMFとNATOの属国になった。クリントン政権は、ボスニアのイスラム軍の武装に多額の資金支援をしていた。国際メディアは、アメリカの介入なくしては、自らの国境を接する地域の紛争の解決もできないと、EUの無力さを印象づけるように報道した。そうした中、ワシントンの意図するNATOの東方拡大を正当化する議論が大きく前進した。五年前には考えられなかったことだが、ハンガリー、ポーランド、チェコが、NATO加盟の候補にあがるようになっていた。

 間もなくクリントン政権は次の段階に移行し、バルカン諸国に残留している民族主義者を排除する作業に入った。ワシントンの計画に合致しない政策を掲げる可能性があるからだ。英米石油会社は、カスピ海(バクー沖と中央アジアのカザフスタン側)の地下にあると思われる膨大な石油資源の開発に大急ぎで乗り出した。地質学者は、カスピ海には「新しいクウェートかサウジアラビア」があると話していた。それが本当であれば、二千億バレルを超える石油埋蔵量があり、過去数十年で最大の油田発見になるかもしれないと米国政府は見積もっていた。高収入のワシントンの政治屋ズビグニュー・ブレジンスキー(補足: 外交問題評議会CFRの大物政治家、ロックフェラーの腹心の部下、日米欧三極委員会の発案者)は、カスピ海の石油地帯に大きな権利を持つ英米系巨大石油企業BPの利益を代表していた。



170628フランツ・フェルディナント大公夫妻の追悼記念切手初日印

2008年08月03日 10時05分39秒 | 歴史・社会的状況
170628フランツ・フェルディナント大公夫妻の追悼記念切手初日印

1914年6月28日にサラエボで暗殺された、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の追悼記念寄付金付き切手が、暗殺3年後の1917年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナで発行され、各額面に2 hellerの寄付金を上乗せして販売されました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ
Mi. 121, 10 heller (+ 2 heller): サラエボの追悼教会の草案
Mi. 122, 15 heller (+ 2 heller): フランツ・フェルディナント大公
Mi. 123, 40 heller (+ 2 heller): フランツ・フェルディナント大公夫妻

初日印
K. UND K. MILIT. POST
SARAJEVO 6 28. VI. 17 b
SARAJEVO 6郵便局1917年6月28日、消印識別記号b

建国当時のユーゴスラビアの軍事検閲

2008年07月27日 11時15分45秒 | 歴史・社会的状況
建国当時のユーゴスラビアの軍事検閲

建国当時のユーゴスラビアは、まだ国境が確定していませんでした:
①オーストリア国境
ユーゴ軍がスロヴェニア人の多く住むオーストリアのケルンテン州とシュタイヤーマルク州の鉄道路線Luttenberg-Spielfeld沿いの地域を占領し、オーストリア軍とにらみ合っていました。
また、スロヴェニア北部のMaribor市近辺にはドイツ人が多く居住していたため、オーストリアはこの地域の領有を主張し、この地域の一部のドイツ人がオーストリアへの帰属を求めて政治活動をしました。
②イタリア国境
ソチャ側流域、トリエステ、イストリア半島、北ダルマチア地方をイタリアが占領し対立していました。フィウメは、当初は連合軍が占領し、その後にイタリアの詩人ダンヌンツィオの私設軍隊が占領しました。
③ハンガリー国境
プレコムリエ、メジュムリエ、バラーニャ地方をユーゴ軍が占領し対立していました。
④ルーマニア国境
テメスヴァル地方のユーゴ軍による占領と、その近隣地域の帰属で対立していました。

このように周囲の4カ国と軍事的に対立していたことに加えて、国内では
⑤ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による国内の社会的混乱がありました。
⑥1918年12月からセルビア軍がクロアチアの軍事占領を開始し、1918年12月5日に、クロアチアのザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊がセルビア軍により虐殺されたことに見られるように、特にクロアチアとセルビアの対立は当初から深刻でした。
⑦セルビアがモンテネグロ王国を軍事力を使って強制的に併合したため、モンテネグロでは蜂起した国王派との内戦が続いていました。

このような理由のため、数多くの葉書や封書が軍事検閲され、多くの種類の検閲印が知られています。

ユーゴスラヴィア建国当時の通貨単位のまとめ

2007年12月28日 20時16分50秒 | 歴史・社会的状況
ユーゴスラヴィア建国当時の通貨単位のまとめ

1.オーストリア・ハンガリー帝国
①オーストリア帝国、占領下のボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Krone
②ハンガリー王国: fillér, Korona

2.SHS王国建国後、1920年5月15日まで
③スロヴェニア: vinar, Krona
④クロアチア: filir, Kruna
⑤ボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Kruna

小包第1期の郵便料金は旧オーストリア・ハンガリー帝国の料金であるため、この両国の通貨を使って記載します。
SHS王国建国後の各地域で発行された切手の額面は、各地域の通貨単位で記載します。
小額の通貨単位は小文字で記載し、大きい単位は大文字で書き始めます。
尚、1920年5月16日からセルビアとの通貨統合がおこなわれるまでは、上記の①~⑤の通貨の価値は同等でしたので以下の交換レートが成り立ちます:
100 heller = 100 fillér = 100 vinar = 100 filir = 1 Krone = 1 Korona = 1 Krona = 1 Kruna

3. 1920年5月16日からの通貨統一
旧オーストリア・ハンガリー帝国地域の通貨は、価値が4分の1に落とされて、セルビアの通貨に統一されました。
4 heller = 4 fillér = 4 vinar = 4 filir = 1 para
4 Krone = 4 Korona = 4 Krona = 4 Kruna = 1 Dinar
100 para = 1 Dinar

参考文献
(1)MICHEL ÖSTERREICH-SPEZIAL 1990
(2)MICHEL Europa-Katalog Ost 1988/89
(3)MICHEL 1952年版のユーゴスラヴィア (国立国会図書館研究員・田中邦夫氏にご提供いただいたものです)
(4)Stanley Gibbons Stamp Catalogue Part 3 Balkans, 3rd edition, 1987

1920年5月16日からの通貨統一

2007年12月28日 20時14分39秒 | 歴史・社会的状況
1920年5月16日からの通貨統一

旧オーストリア・ハンガリー帝国地域の通貨は、価値が4分の1に落とされて、セルビア王国の通貨に統一されました。
4 heller = 4 fillér = 4 vinar = 4 filir = 1 para
4 Krone = 4 Korona = 4 Krona = 4 Kruna = 1 Dinar
100 para = 1 Dinar
通貨統一以降も、小包料金が旧通貨の単位で小包送票に記載されているものが数多くあります。

新通貨の切手はスロヴェニアのリュブリャナで印刷され、通貨統一より約1ヶ月遅れて1920年6月24日に発行されました(2次チェインブレーカー)。
これらは、旧オーストリア・ハンガリー帝国領とボスニア・ヘルツェゴビナで使用されました。

備考:
クロアチアのザグレブ、及びボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォでは、新通貨による切手は発行されず、スロヴェニアのリュブリャナで印刷された新通貨の切手が使用されました。
セルビアとモンテネグロでは、セルビア王国の切手がそのまま使用されていました。
アメリカで印刷された全国共通の普通切手が発行されたのは、1921年1月16日でした。

ユーゴスラヴィア建国当時の通貨単位

2007年09月30日 12時43分30秒 | 歴史・社会的状況
ユーゴスラヴィア建国当時の通貨単位

1.オーストリア・ハンガリー帝国
①オーストリア帝国、占領下のボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Krone
②ハンガリー王国: fillér, Korona

2.SHS王国建国後
③スロヴェニア: vinar, Krona
④クロアチア: filir, Kruna
⑤ボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Kruna

小包第1期の郵便料金は旧オーストリア・ハンガリー帝国の料金であるため、この両国の通貨を使って記載します。
SHS王国建国後の各地域で発行された切手の額面は、各地域の通貨単位で記載します。
小額の通貨単位は小文字で記載し、大きい単位は大文字で書き始めます。
尚、1920年5月16日からセルビアとの通貨統合がおこなわれるまでは、上記の①~⑤の通貨の価値は同等でしたので以下の交換レートが成り立ちます:
100 heller = 100 fillér = 100 vinar = 100 filir = 1 Krone = 1 Korona = 1 Krona = 1 Kruna

参考文献
(1)MICHEL ÖSTERREICH-SPEZIAL 1990
(2)MICHEL Europa-Katalog Ost 1988/89
(3)MICHEL 1952年版のユーゴスラヴィア (国立国会図書館研究員・田中邦夫氏にご提供いただいたものです)
(4)Stanley Gibbons Stamp Catalogue Part 3 Balkans, 3rd edition, 1987

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 6

2007年09月20日 19時32分17秒 | 歴史・社会的状況
6.ブログへの掲載

私の手元にある使用例は、今後このブログでご紹介するつもりですが、私自身まだ不満足で不完全なコレクションであることはあらかじめお断りしておきます。
これらは切手展で展示したことはまだ一度もありませんし、日本国内の誰にも見せたことはありません。
郵便史的に価値の高い一部のものは、イギリスのユーゴスラヴィア郵便史研究団体「Jugoslavia Study Group」の機関誌「Jugopšta」に投稿しています。
国内の切手展への出品はこれから行うかもしれません。ただし、リーフ上で説明できる量は非常に限られていますので、詳しい状況説明はブログの方が好ましいと思います。
また、切手展の会場に行くことのできる少数の人に非常に短時間見ていただくよりは、ネットで公開して多くの人にじっくり見てもらえる機会を提供した方が、この地域の特殊性を理解していただくのに好都合だと考え、ネットのブログという形で最初に公開することにしました。
ブログに掲載する画像は原則として私の収集品です。
ただし、私の収集品だけで郵便史とその背景を語ることは困難ですから、文献やカタログ類から引用する場合もあります。その場合は、その出典を記載いたします。
ブログ作成に際して使用した参考文献は記載いたしますので、関心がおありでしたらお読み下さい。

私が会員になっている研究団体は以下の通りです:
スイス Arge der Balkanländer (ドイツ語) (ただし2007年12月末から活動を一時休止の予定)
ドイツ Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten(ドイツ語)
イギリス Jugoslavia Study Group (英語)
これらの研究会の機関誌やモノグラフ類から抜粋した情報も提供できると思われます。

このブログの記載内容には著作権を主張いたします。記載内容を文献として引用されることは構いませんが、引用の際にはマナーとして、参考文献として「ブログのアドレス、ブログのタイトル、goo ID」の明記をお願いいたします。これらの記載のない引用はお断りいたします。

備考:
①外国語では複数形が厳密に適用されますので、スロヴェニアで発行された切手は「Chainbreakersチェインブレーカーズ」と呼ばれています。しかし、日本語では複数形があいまいに使用されますので「チェインブレーカー」と呼ぶことにします。
②建国当時の正式国名は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」と非常に長いため、文章を書くのに不便ですので、南スラヴを意味するユーゴスラヴィアを使用します。
ユーゴスラヴィアも長くてわずらわしい場合には、単にユーゴと表記します。
尚、この国は欧米では1929年以前は単にSHSと呼ばれていたそうです。

謝辞:
郵便史の資料やマティーリアルの入手に際しては、多くの方々にお世話になりました。
特に、国立国会図書館研究員・田中邦夫氏、アメリカのRobert S. Tomlinson氏、カナダのA. H. Stokes博士、スイスのThomas Artel氏(スロヴェニア生まれ、スロヴェニア郵便史の大家)、私が会員になっている上記3つの研究会の皆さんから、多くの情報をご提供いただきましたことを、この場を借りましてお礼申し上げます。

参考文献:
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)KATALOG POŠTANSKIH MARAKA JUGOSLOVENSKIH ZEMALJA 1968,
翻訳: ユーゴスラヴィア郵便切手カタログ1968年版
BIRO ZA POŠTANSKE MARKE BEOGRAD 翻訳:ベオグラード郵便切手局
備考:アメリカのRobert S. Tomlinson氏から入手したもので、セルボ・クロアート語で書かれています。
(4)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(5)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(6)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(7)Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.4, 5, 6, 7, 1945-47, Zagreb (Croatia)
翻訳:ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第4, 5, 6, 7巻
備考:アメリカのRobert S. Tomlinson氏から入手したものです。これらはスロヴェニアで発行された切手のハンドブックであり、ドイツ語とセルボ・クロアート語の2ヶ国語で記載され、第二次世界大戦末期から戦後間もない混乱期にクロアチアの首都ザグレブで発行されました。私はドイツ語部分のほとんどを日本語に翻訳しています。
(8)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(9)1987年10月8日付け、クロアチア・ザグレブのエルツェゴビッチ博士(ユーゴスラヴィア郵便史の大家・鑑定家)から国立国会図書館研究員・田中邦夫氏宛て私信(田中氏から御提供していただいたユーゴスラヴィア郵便史の解説です)

備考: 文献(7)(8)は、時々、イギリスの郵趣文献専門のh h Salesのオークションに出品されますので入手するチャンスはあると思われます。
h h Sales のアドレスhttp://www.hhphilit.com/hhindex.htm
e-Bayのアドレスhttp://stores.ebay.co.uk/HH-Sales

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 5

2007年09月19日 21時57分44秒 | 歴史・社会的状況
5. チェインブレーカーの使用

スロヴェニアのチェインブレーカーは、当初はスロヴェニア地域だけで使用されることを目的として発行されました。
しかし、第一次世界大戦により中央ヨーロッパの広大な領土を支配したハプスブルク帝国が崩壊して経済システムが麻痺してしまい、経済的混乱による物資不足が発生し王国内で切手が不足したため、最終的にはセルビアとモンテネグロ(この2地域ではチェインブレーカーは無効)を除く旧ハプスブルク帝国領域内全域でチェインブレーカーが使用されました。
ただし私の手元には、セルビアの首都ベオグラードでの使用例もあります。

旧宗主国の切手、ユーゴスラヴィアの各郵政局の加刷切手及び正刷切手とチェインブレーカーの混貼りも行われました。

郵便料金は、当初は旧宗主国の料金体系と制度がそのまま使用され、その後ユーゴスラヴィア独自の料金体系と制度に変更されました。

小包送票、郵便振替などの各種書式や用紙も当初は旧宗主国のものがそのまま使用され、後に一部には加刷を行ない、その後ユーゴスラヴィア独自の形式のものが使用されました。

消印も当初は旧宗主国のものがそのまま使用されましたが、次第にドイツ語(スロヴェニア地域)、イタリア語(ダルマチア地域)、ハンガリー語(正確にはマジャル語)(旧ハンガリー王国領域)の名称が削除されました。
ハンガリー王国領域では、国王の王権を象徴する「イシュトヴァーン・クラウン」と呼ばれる王冠も消印から削除されました。
ハンガリー式消印の年月日表示順序は、左から右あるいは上から下に「年・月・日」ですが、これは次第にユーゴスラヴィア式の左から右あるいは上から下に「日・月・年」に変更されました。
消印の形式もユーゴスラヴィア独自のものへと変更されて、セルビア人が使用するキリル文字とローマ字の二文字表示へと変えられていき、いわゆる「国風化」「ユーゴ化」が行われました。

ただし、不思議なことにクロアチアでは、地方の小さな郵便局では早くから「イシュトヴァーン・クラウン」と呼ばれる王冠の削除や日付けのユーゴ化が行われましたが、セルビア軍によるクロアチア郷土防衛隊に対する虐殺が行われた首都ザグレブのような大きな郵便局では、かなり遅くまで王冠が残されたままで、また日付けもハンガリー式のままになっていました(ただしセルビア国王のザグレブ訪問の記念消印は除く)。
これは、セルビア軍による敵国扱い同然の軍事占領と虐殺を目の当たりに見せつけられて、「ある程度の自治権を与えてくれていたハンガリー王国の方がセルビアよりも良かったぞ」、という思いが根底にあり、その意思表示のための無言の抵抗ではないかと思われます。郵便が政治的プロパガンダに使用されることは良くあることですから、この例もその一つである可能性もあります。

経済的混乱による慢性的な切手不足が発生したことによる臨時措置としては、①バイセクト、②普通切手にハンドスタンプまたは手書きで加刷して不足切手として使用したもの、③普通切手を収入印紙として使用したもの、④不足切手を普通切手や収入印紙として使用したもの、⑤郵便料金の現金支払い、⑥現金支払いと切手の混貼り、などの使用例も私の手元にあります。

バイセクトが公式に認められたのは、二次チェインブレーカーの10 para切手を対角線状に2分の1に切って、国内印刷物料金5 paraとして使用する場合だけです。ただし、実際には外国宛て印刷物、郵便振替、郵便小切手にも使用された使用例が私の手元にはあります。
その他の切手のバイセクトは、何度も通達が出されて禁止されましたが、現実に切手不足が頻繁に起こったため、多くの郵便局でバイセクトが行われました。
これに対して、セルビアのベオグラード郵政局は、バイセクトを使用した郵便物の到着便に対して不足料を課した場合もあり、その使用例は私の手元にもあります。

また、ユーゴスラヴィア軍(その主体はセルビア軍)は、①オーストリアのケルンテンとシュタイアーマルク、②ハンガリーのバラーニャ、③ルーマニアのテメスヴァル(ティミショアラ)を占領し、これらの地域でチェインブレーカーを使用したり加刷切手を発行しています。

中央ヨーロッパの広大な地域を支配し1つの経済システムと産業の分業構造を持っていたハプスブルク帝国が崩壊して数多くの国に分裂し、しかも1920年代前半まで各地域で内戦や国境紛争が続いたため、地域内の経済は混乱し停滞しました。
ユーゴスラヴィアでは1921年になっても経済活動は停滞を続け、1922年頃からやっと動き出したと言われています。このため、建国当初の1922年頃までの郵便物の量は少なく、郵便史の研究対象としては難しくなっていると私には思われます。


ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 4

2007年09月18日 22時17分06秒 | 歴史・社会的状況
4. ユーゴスラヴィア建国当時の旧ハプスブルク帝国領内の郵便切手

ユーゴスラヴィアの旧オーストリア帝国領域ではオーストリア切手、旧ハンガリー王国領域ではハンガリー切手、ハプスブルク帝国の占領下にあった旧ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領域ではボスニア・ヘルツェゴヴィナ切手が、そのまま使い尽くされるまで使用されました。

新しい郵便切手は、スロヴェニアのリュブリャナ、クロアチアのザグレブ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォの各郵政局で発行されました。
クロアチアのザグレブではハンガリー切手に加刷を行い、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォではボスニア・ヘルツェゴヴィナ切手に加刷を行なうと同時に、これら2つの郵政局管内では正刷切手の発行も行いました。
その他に投機目的の私的加刷なども知られています。

スロヴェニアで発行された切手は、低額面のものは奴隷が鎖を切る図案であったため「チェインブレーカー」と呼ばれました。これは、南スラヴ人がハプスブルク家の支配から解放される象徴的な図案で、大衆受けする図案でした。

この切手は王国成立以前から準備していたため、最初は40 vinar以下の額面の普通切手などで「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」を意味するDRŽAVA SHSと表示したものを王国成立後の1919年1月3日以降に発行しました。DRŽAVAは「国」を意味しています。

SHSは、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の頭文字を取ったもので、クロアチアはセルボ・クロアート語でHrvatskaと呼ばれ頭文字はHとなるため、SHSと略して記載されました。このSHSという略号は、この当時にこの地域を呼ぶ一般名として欧米で使用されました。
国名はローマ字以外にセルビア人の使用するキリル文字でも記載されており、民族問題に配慮された表示になっています。

その後、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」を意味するKRALJEVINA SHSと表示したものが50 vinar以上の額面の普通切手で発行されました。
このKRALJEVINAは、セルビアで使用される言葉で「王国」を意味しています。

オーストリア・ハンガリー帝国通貨の価値が4分の1に下落する交換比率で流通通貨がセルビアの通貨に切り替えられた後に発行された二次チェインブレーカーの表示は、KRALJEVSTVO SHSと変えられています。
KRALJEVSTVOは、ユーゴスラヴィア西部で使用される言葉で「王国」を意味しています。
同じスロヴェニアで発行された切手でありながら、王国を意味する言葉が、セルビア系になったりスロヴェニア・クロアチア系になったりして混乱が見られます。
このように、切手の国名表示の変遷を見ても、通貨の交換比率を見ても、セルビア王国の支配力が顕著になっていることが分かります。

備考: 通貨統一政策
旧オーストリア・ハンガリー帝国の通貨の価値を、セルビア王国の通貨の4分の1に落とすという乱暴なやり方で通貨統一が行われました。
例えば、100万円が一気に25万円の価値しか持たなくなったのです。郵便料金の実例としては、国内葉書が15 vinarから一気に60 vinar (15 para)に4倍に値上げになりました。
これは、あまりにひどい交換比率であり、旧オーストリア・ハンガリー帝国の人々は、財産を一気に4分の1に減らされてしまい、経済力を奪われてしまいました。
恐らくこの政策は、セルビア人の支配力を圧倒的優位にすることを狙ったものだと思われます。
セルビア側が本心から南スラブの各民族の融和を考えていたならば、1対1に近い交換比率にしておくべきでした。このような強圧的政策がセルビアに対する反感を強め、後々の政治的対立に発展していきました。

オーストリアのケルンテン州にはスロヴェニア人が多く住み、当時はユーゴスラヴィア軍の占領下にありました。この地域の帰属は、1920年10月10日の住民投票でオーストリアかユーゴスラヴィアのどちらかを選ぶことが決定されました。
しかし、
①セルビア軍によるクロアチアの敵国扱いの軍事占領
②ザグレブにおける郷土防衛隊の虐殺
③旧オーストリア・ハンガリー帝国の通貨の価値をセルビア王国の通貨の4分の1に落とす
というセルビアによる乱暴な圧制を見せつけられたケルンテン州のスロヴェニア人は、住民投票でユーゴスラヴィアへの編入を拒否し、オーストリアへの残存を決定しました。
このようにセルビアの圧制は、建国当初から南スラヴ人に拒絶されていったのです。
尚、ケルンテンの住民投票に関しては、オーストリアとスロヴェニアの双方から切手が発行されていますので、いずれご紹介いたします。

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 3

2007年09月17日 11時43分15秒 | 歴史・社会的状況
オーストリア・ハンガリー帝国の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)の在位60周年記念公式葉書
王権神授説を最後まで信じ、この皇帝の老害とともにこの帝国は滅びると言われ、実際その通りに滅亡しました。


3.南スラヴ人の国「ユーゴスラヴィア」の建国

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国、ドナウ帝国)が崩壊し、南スラヴ地域に対するハプスブルク家の支配力が失われました。

1918年10月6日、ハプスブルク帝国内の南スラヴの政治指導者は、クロアチアのザグレブで、南スラヴ統一を目的として「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」(以下、民族会議と記載)を創設しました。

1918年10月29日、民族会議は、ハプスブルク帝国内の全ての南スラヴ地域から構成される「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設を宣言しました。
この民族会議の影響力は、セルビア王国と山国の小国であるモンテネグロ王国には及んでいませんでした。
あの当時のこの地域の大きな勢力は、南スラヴの盟主とみなされ南スラヴ全体の統一をもくろむ「大セルビア主義」をかかげていたセルビア王国、ザグレブの民族会議、そしてスロヴェニア・イストリア半島・ダルマチアの占領を狙うイタリア王国でした。

この10月29日の宣言の際にクロアチア議会は、非常に意味深な行動を取っています。
ダルマチア出身のクロアチア人議員を巻き込んで、中世以来のクロアチアの悲願であった、クロアチアとスラヴォニアとダルマチアを合わせた「三位一体王国」の創設をいったん宣言したのです。これは、明白なクロアチアの独立宣言でした。
(備考: スロヴェニアとスラヴォニアは異なる地域ですので混同なさらないで下さい。)
ここに「大クロアチア主義」と呼ばれるクロアチアの本音を見ることができます。
しかし、彼らは自分たちだけでクロアチアを狙うイタリア王国やセルビア王国に対抗する力を持っていませんでした。
このためクロアチアはやむを得ず、この「クロアチア三位一体王国」の独立宣言をした後に、この国をスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴビナを含む「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の中に入れ込む形にしてセルビア王国やイタリア王国に政治的に対抗しようとしたのです。

あの当時のザグレブの民族会議を取り巻く政治状況は以下のように危機的でした:
①ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による社会的混乱
②スロヴェニアの首都リュブリャナに向けてイタリア軍が侵攻を開始しましたが、スロヴェニア人の将校グループが進軍を阻止しました。
③決定的になったのは、ロンドン秘密条約に基づいてイタリア王国がローマ帝国の領土であったアドリア海沿岸のダルマチア地方に艦隊を派遣し軍事占領を開始したことであり、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」はイタリア王国の軍事力により国土の一部を占領されてしまいました。ザグレブの民族会議がこのことを知ったのは11月24日でした。

イタリア王国に対する軍事的対抗力を持たなかったザグレブの民族会議は、セルビア王国の軍事的保護下に入るしか選択肢がなくなったため、1918年11月27日にセルビア王国との統一を進めるためにセルビア王国の首都ベオグラードに向かいました。
あの当時の新国家の構想としては、「コルフ宣言」と「ジュネーブ宣言」の二つが存在していました。
実際に採用されたのは、セルビア王国のカラジョルジェヴィッチ王朝のもとでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が居住する全ての領域からなる立憲君主国を建国する「コルフ宣言」でした。この宣言では、新国家を連邦制にするか中央集権制にするかは触れられていませんでした。
ザグレブの民族会議にとり不幸なことに、憲法制定議会により統一国家の形態を決めるまでセルビア王国政府と民族会議が共存して統治する連邦的構想であった「ジュネーブ宣言」は採用されませんでした。これは、主としてセルビア側が大セルビア主義による南スラブ全体の中央集権的支配をもくろんでいたことによると思われます。

1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。

1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。

このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。

このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 2

2007年09月16日 21時00分05秒 | 歴史・社会的状況
図の出典:(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944、 p.149、Fig.41

2.「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」、後のユーゴスラヴィアの地域構成

後で述べるユーゴスラヴィアの成立過程を理解するために、最初に地域構成を理解しておく必要がありますのでまとめておきます。

新しく建国された国は、オーストリア帝国、ハンガリー王国、セルビア王国、モンテネグロ王国という4つの国に属していた地域(それぞれ通貨も法律も社会制度も異なります)と、オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地であったボスニア・ヘルツェゴビナが1つの国にまとまろうというのですから、並たいていのことではありません。
しかも、オーストリア・ハンガリー帝国側と、セルビア・モンテネグロ王国側は、つい先日まで同盟軍や連合軍として激しい戦闘を繰りひろげて、互いに多大な死者を出していたのですから、敵意や感情的なしこりを乗り越えて一つの国家にまとまるのは常識的には無理であったはずです。

第2時世界大戦勃発前までのユーゴスラヴィアは、以下の地域から構成されていました。

Slovenia: スロヴェニア。
旧オーストリア帝国領のクラインと、シュタイアーマルク、キュステンラントそれぞれの一部。大部分はスロヴェニア人で、主として北部にドイツ人も居住。

P.: Prekomurjeプレコムリエ。旧ハンガリー王国領、スロヴェニア人居住地域。

M.: Medjumurjeメジュムリエ。旧ハンガリー王国領、クロアチア人居住地域。

Crotia-Slavonia: クロアチア-スラヴォニア。
旧ハンガリー王国領、西部がクロアチア、東部がスラヴォニア。クロアチア人とセルビア人が居住。ハンガリー王国支配下である程度の「地方自治権」を与えられていた。

Vojvodina: ヴォイヴォディナ。
旧ハンガリー王国領。セルビア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ドイツ人が居住。

Bosnia: ボスニア。オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地。
Herce.: Hercegovina: ヘルツェゴヴィナ。オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地。
ボスニアとヘルツェゴヴィナには、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人が居住。

Dalmatia: ダルマチア。旧オーストリア帝国領。
クロアチア人とセルビア人がほとんどで、イタリア人はほとんとがザダル(ザーラ)(当時はイタリア王国領)に居住。

Serbia: 旧セルビア王国。
セルビア人、アルバニア人、マケドニア人、ブルガリア人が居住。

Mont.: Montenegro: 旧モンテネグロ王国。
モンテネグロ人(民族的にはセルビア人と同一)とアルバニア人が居住。

備考:
ソチャ川流域(ジューリア・アルプスの流域)、イストリア半島、リエカ(フィウメ)及びフィウメ湾の幾つかの島、ザダル(ザーラ)、ラストボ島(ラゴスタ島)は、イタリア領になりました。
イタリア領に残されたスロヴェニア人とクロアチア人は、ムッソリーニによるファシズムの到来とともに、学校・文化施設・経済施設・教会でのスロヴェニア語とクロアチア語の使用を抑圧されました。

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 1

2007年09月15日 19時15分25秒 | 歴史・社会的状況
スロヴェニア独立戦争(10日戦争)中のカバー
スロヴェニア独立戦争4日目の1991年6月29日に、MARIBOR(マリボール)市の南約5kmに位置する町HOČE(ホチェ)からマリボール市宛ての書留・速達便。スロヴェニア独立記念切手とユーゴスラヴィア普通切手の混貼り。
マリボール市に到着したのは7月1日(裏に到着印)です。たった5kmの距離しかなく、しかも速達便であるにも関わらず2日間もかかっています。これは、6月27日にユーゴスラヴィア連邦軍の戦車部隊がマリボール市内に突入して占拠していたためです。

1.序
私がユーゴスラヴィア(意味は「南スラヴ」)の郵便史研究のための調査を始めた1991年3月から約3カ月経過した6月末のある日(6月28日頃だったと記憶しています)、NHKの夜7時のニュースの冒頭で、ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共和国の高速道路に止められた数台のバスのバリケードを砲撃するユーゴ連邦軍の戦車の映像が映し出され、ユーゴ内戦が始まりました(スロヴェニア独立戦争(10日戦争とも呼ばれる))。

その後あっという間に戦火がユーゴ全体に広がり、クロアチア内戦(東スラヴォニアと南西部のクライナ地方)、ボスニア内戦、マケドニア独立、コソボ紛争、ユーゴ空爆と戦乱が続き、終には2006年にセルビアとモンテネグロが分裂してユーゴスラヴィアは完全に消滅しました。
この様子は、このブログをご覧の皆様もマスコミ報道でご覧になったはずです。
このようなユーゴスラヴィアの崩壊を見ながら、それと同時並行でその国の建国当時の郵便史の収集と研究を進めるという、何とも言えない皮肉なことになったことは予想外でした。

現在、世界中で多発している民族と宗教が原因となった紛争や戦争のことは、皆さん良くご存知のことと思います。ユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であり、ここで起きたことは「世界の縮図」です。
このブログをご覧になる方々が、ユーゴスラヴィアの事例をご覧なって、民族と宗教の違いによる争いが如何に無益で悲惨かをご理解いただければ幸いです。
世界の人々が多様性を互いに尊重し、人類という一つの家族の価値を認める時代がやってくれば、ユーゴスラヴィアで起きたような悲劇は避けられることでしょう。

余談ですが、宮崎駿監督のアニメ映画「紅の豚」の舞台設定として使用されたのは、1929年の世界大恐慌の後の時代のユーゴスラヴィアのアドリア海沿岸地域のダルマチアからリエカ(フィウメ)(当時はイタリア王国領)にかけての一帯です。
その中でも中心となったのは、世界遺産のドゥブロヴニク(ラグーザ)からザダル(ザーラ)(当時はイタリア王国領)にかけての地域のはずです。ただし実際には「空賊」は存在しませんし海賊がいたという記録も私は見たことはありません。