チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

210111 ボスニアGRADAČAC 1次チェインブレーカー

2013年07月28日 17時43分10秒 | 郵便為替
210111 ボスニアGRADAČAC 1次チェインブレーカー

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの郵便為替証書、クロアチア語表記、額面印紙は印刷されていない

切手
チェインブレーカー1次
Mi.110, 2 Krona, 2枚
合計100para (400 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
200 Dinarを越えて300 Dinar以下-----80 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinarを越えて-----20 para
合計 100 para
貼り付けた切手100paraと一致

黒鉛筆の記載Sarajevo
証書の下の方に黒鉛筆でSarajevoと書かれています。これは恐らく、送金の中継地または宛先のSarajevo(ボスニアの首都)を記載したものと考えられます。

消印
GRADAČAC 11. 1. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのGRADAČAC郵便局 1921年1月11日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました

210111 ボスニアGRADAČAC 1次と2次の混貼り

2013年07月21日 10時55分28秒 | 郵便為替
210111 ボスニアGRADAČAC 1次と2次の混貼り

郵便為替証書
ユーゴスラヴィアの郵便為替証書、クロアチア語表記、額面印紙は印刷されていない

切手
チェインブレーカー1次
Mi.110, 2 Krona
チェインブレーカー2次
Mi.121, 10 para, 4枚
合計80para (320 vinar)

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
支払い(払い出し)料金 50 Dinarを越えて-----20 para
合計 80 para
貼り付けた切手は80paraと一致

黒鉛筆の記載Sarajevo
証書の下の方に黒鉛筆でSarajevoと書かれています。これは恐らく、送金の中継地または宛先のSarajevo(ボスニアの首都)を記載したものと考えられます。

消印
GRADAČAC 11. 1. 21 a
ボスニア・ヘルツェゴビナのGRADAČAC郵便局 1921年1月11日
オーストリア型消印から、ドイツ語のK. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)を削除してユーゴ化した消印。
オーストリア帝国は、正式にはオーストリア帝国とハンガリー王国の連合王国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナはこの二重帝国に占領された占領地であったため、郵便局の運営は全て軍隊が行う軍事郵便局であり、K. UND K. MILIT. POST(帝国及び王国の軍事郵便局)と上部に表示していました

Wikipediaの記載
グラダチャツ(ボスニア語: Gradačac、セルビア語: Градачац、クロアチア語: Gradačac)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する町およびそれを中心とした基礎自治体である。サヴァ川からは約40km南にあり、トゥズラ県に位置する。近隣の町にはボサンスキ・シャマツやモドリチャがある。

歴史
グラダチャツ・ジュパが最初に言及されたのは1302年のことで、町が最初に文書でグラダチャツとして言及されたのは1465年のことである。1512年にオスマン帝国の一部となりナヒヤ(nahija,自治体)として最初に記録されたのは1533年で、カディルク(kadiluk,郡)としての記録は1634年である。1701年になると集落はパランカ(palanka,都市)としての地位を得て1710年には軍将の拠点の地位を得ている。町はグラダシュチェヴィッチ家により開発が進み、 フセイン・キャプテン・グラダシュチェヴィッチ(Husein Gradaščević)またはズマイ・オド・ボスネ(Zmaj od Bosne)(ボスニアのドラゴン)は1831年にボスニアの指揮官の力を集めて反乱を起こしたことで知られる。町には高さ18mの壁が1765年から1821年にかけフセイン・キャプテン・グラダシュチェヴィッチにより建てられたが、もとの壁はローマのものに遡る。フセイニアモスクは1826年に建てられ、1992-95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の爆撃でも生き残った。グラダチャツはスルプスカ共和国の領域同士をつなぐ北側の狭い回廊に位置し、ブルチコに近い。グラダチャツは紛争終結後、ボスニア・ヘルツェゴビナ連合の領域になっている。

経済
グラダチャツの重要な産業は化学、機械、食品産業である。グラダチャツでは従来から国際的なプラムのフェアが行われる。

人口動態
1971
合計 - 48,384人
ムスリム – 26,905人 (55.60%)
セルビア人 – 12,455人 (25.74%)
クロアチア人 – 8,447人 (17.45%)
ユーゴスラビア人 – 321人 (0.66%)
その他 – 256人 (0.55%)

1991
1991年の国勢調査によるグラダチャツ自治体の人口は56,378人であった。
60.2% ボシュニャク人
19.8% セルビア人
15.1% クロアチア人
4.9% その他

2005
2005年現在では住民の96%はボシュニャク人で占められる。

その他
1882年にグラダチャツでは最初の温泉療養施設であるイリジャ・スパが造られた。水温は29-30℃である。グラダチャツ近郊にはハザナやヴィダラの2つの湖もある。

200724不足切手10 vinarにFRANCOハンドスタンプ押印

2013年07月14日 14時01分39秒 | 郵便為替
200724不足切手10 vinarにFRANCOハンドスタンプ押印

この10 vinarは、郵便為替証書の代金支払いに使用したものと考えられ、不足切手Mi. 38II, 10 vinar ウィーン印刷に黒色でFRANCOとハンドスタンプで押印して、収入印紙として使用していると考えられます。

消印
BLED 1 27 VII 20 b
スロヴェニアのBLED 1 郵便局1920年7月27日、消印識別記号b
オーストリア帝国時代のドイツ語・スロヴェニア語の二ヶ国語表示の消印から、ドイツ語名VELDESを削除してユーゴ化した消印

200724表 不足切手10 vinarにFRANCOハンドスタンプ押印

2013年07月14日 13時59分36秒 | 郵便為替
200724表 不足切手10 vinarにFRANCOハンドスタンプ押印

郵便為替証書
オーストリア・ハンガリー帝国時代のドイツ語・スロヴェニア語表記
額面印紙の印刷されていない郵便為替証書

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
不足切手
Mi. 38II, 10 vinar ウィーン印刷、黒色でFRANCOとハンドスタンプで押印
2次チェインブレーカー
Mi.120, 5 para, 2枚
Mi.124, 25 para
合計 37.5 para (150 vinar)

備考
1920年5月16日から通貨改革と郵便料金値上げが行われた。
通貨は、4 vinar = 1 para, 4 Kronen = 1 Dinarとセルビアにとり有利に設定された。
れにより、旧オーストリア・ハンガリー帝国領とボスニア・ヘルツェゴビナ占領地の住民の資産価値は4分の1に下落した。
この措置により、この地域の郵便料金は4倍に上がったことになる。

郵便為替料金
全国統一料金: 国内郵便為替料金
全ての料金は郵便為替の発送者から徴収する。
2. 1920年5月16日~1921年4月30日
25 Dinar以下-----25 para
25 Dinarを越えて50 Dinar以下-----50 para
50 Dinarを越えて100 Dinar以下-----60 para
100 Dinarを越えて100 Dinar毎に-----10 paraを加算

支払い(払い出し)料金
50 Dinar以下-----10 para
50 Dinarを越えて-----20 para

料金計算
送金金額 13k (3.25 Dinar)
25 Dinar以下-----25 para
支払い(払い出し)料金、50 Dinar以下-----10 para
合計 35 para (140 vinar)
料金は35 para (140 vinar)であるはずなのに、貼りつけられた切手は150 vinar (37.5 para)であり、10 vinar (2.5 para)過剰に徴収しています。
この10 vinarは、郵便為替証書の代金支払いに使用したものと考えられ、不足切手Mi. 38II, 10 vinar ウィーン印刷に黒色でFRANCOとハンドスタンプで押印して、収入印紙として使用していると考えられます。

消印
BLED 1 24 VII 20 b
スロヴェニアのBLED 1 郵便局1920年7月24日、消印識別記号b
オーストリア帝国時代のドイツ語・スロヴェニア語の二ヶ国語表示の消印から、ドイツ語名VELDESを削除してユーゴ化した消印

為替記号
黒色の正方形の箱型の証示印V 450
これはBLED 1郵便局を表すと考えられます

WikipediaのBLEDの記載
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89
ブレッド(Bled, ドイツ語:Veldes)は、スロベニアのゴレンスカ地方に位置する市である。ブレッドは、ドイツ王ハインリヒ2世が司教・ブリクセンのアルブイン Albuin of Brixen へブレッドを授与したときに(1004年4月10日)初めて記述された。

ブレッドは、スロベニアを代表する観光地にもなっている、氷河により出来たブレッド湖で有名である。湖のそばには、岩で出来たブレッド城がある。また、ドイツのクリームケーキ(Cremeschnitte)が元となった、kremna rezinaやkremšnitaと呼ばれるケーキでも有名である。
ブレッドは温暖な気候のため、ヨーロッパ中の貴族が訪れていた。今日では、ブレッドは幅広いスポーツ活動(ゴルフ、釣り、乗馬)を享受する観光客の中心地となっており、そして、近隣の山を登山する人達の出発地にもなっている。また、重要な会議が開催されることもある。

ブレッド島と聖マリア教会
ブレッド湖の中にはブレッド島があり、pletanaと呼ばれるボート、カヌーなどで行く。ブレッド島には聖マリア教会がある。聖マリア教会を訪れた人は、「鳴らすと願いが叶う」という伝説がある鐘を鳴らそうとする。しかし鐘を鳴らすためには、鐘とつながっている紐をかなり強い力で引っ張らないといけないので、全員が鳴らせるわけではない。先史時代の人間の痕跡が島に見られて、教会より前には愛と繁殖のスラブ人の女神であるŽivaの聖地があった。ブレッド島は、教会への98段の階段があり、伝統的な結婚式では新郎は新婦を担いで98段を昇ることになっている。その間、新婦はずっと沈黙しなければならない

200711裏 代金引換便の徴収票

2013年07月07日 15時18分08秒 | 通知状
200711裏 代金引換便の徴収票

クロアチア語表記の代金引換などに使用する料金徴収票

1921年5月1日~1922年9月24日の国内郵便の代金引換料金は20 para (80 vinar, 80 filler)でした。
この場合は、代金引換の金額が90K 72 f、代金引換料金が80 f、合計91K 52fと記載されています。
この徴収票には、80 vinar分の切手が貼られており、これはこの時期の代金引換料金 20 para (80 vinar, 80 filler)と一致しています。

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.100, 5 vinar凸版、2枚、裏面
Mi.102, 15 vinar石版、2枚
Mi.106, 40 vinar凸版
合計20 para (80 vinar, 80 filler)

消印
ZAGREB U 1 U 920 JUL 11 N10
クロアチアのZAGREB 1郵便局1920年7月11日、昼間10時、消印識別記号U
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印


200711表 代金引換便の徴収票

2013年07月07日 15時17分04秒 | 通知状
200711表 代金引換便の徴収票

クロアチア語表記の代金引換などに使用する料金徴収票

1921年5月1日~1922年9月24日の国内郵便の代金引換料金は20 para (80 vinar, 80 filler)でした。
この場合は、代金引換の金額が90K 72 f、代金引換料金が80 f、合計91K 52fと記載されています。
この徴収票には、80 vinar分の切手が貼られており、これはこの時期の代金引換料金 20 para (80 vinar, 80 filler)と一致しています。

切手
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.100, 5 vinar凸版、2枚、裏面
Mi.102, 15 vinar石版、2枚
Mi.106, 40 vinar凸版
合計20 para (80 vinar, 80 filler)

消印
ZAGREB U 1 U 920 JUL 11 N10
クロアチアのZAGREB 1郵便局1920年7月11日、昼間10時、消印識別記号U
D欄にイシュトヴァン・クラウンと呼ばれるハンガリー王冠の入ったハンガリー型の消印