最近、犬の大量放棄が話題になった。栃木県内の河原と山で小型犬計七十匹以上の死骸が連続して見つかり、全国で320頭以上になるとのことである。繁殖で使えなくなった用済みの犬を捨てたのではないかと思われる。ペット犬は人間に頼ってしか生きられない。犬にとって人間は神様である。その神様が、自分の利益のため適当に利用し、用済みとなれば塵芥同様に安易に破棄するとは、神様にあるまじき行為である。
キリスト教においては、人間と犬は明確に区別されると言う。犬の品種改良が積極的に行われ、意に沿わない品種は随意に破棄されるが、認められた犬は大切に飼育しないと動物虐待で訴えられるとのことである。仏教的には生きとし生けるものは分け隔てなく大切に扱わなくてはならない。仏教徒としては、キリスト教のこの二面性が理解できない。
また、日本における鯨、イルカの捕獲がキリスト教圏の国々からよく非難される。豚や牛とどう違うのか理解に苦しむところがあるが、要は心のつながりの問題ではなかろうか。知能の高いイルカ等の動物は人によく懐くようである。そこに人間との心のつながりを見出して、殺傷まかりならんとなるのであろうが、それならば食用の牛等に対してはどうかと反論したくなる。牛は人間の食用として役に立って初めて生まれてきた価値が有ると、都合の良い理屈をつけて納得する人もいるが、まさに人間本位の勝手な解釈である。牛も人間に危害を加える訳でもなく、子供の頃より飼育すれば、お互いに感情を理解し合える仲となるはずでる。豚をペットとして飼う人もいるようであるが、生育した暁には食用とする人はまずいないであろう。
人間は動物の頂点に君臨し、生殺与奪権を行使する。しかし、人間は神様のように権利を行使するが、義務を果たさない。しかも人間は、人間以外の動物ばかりでなく、人間そのものにも差別や虐待を繰り返す。民族や宗教に対する虐待のみならず、自分の生んだ赤ちゃんに対する虐待もしばしば報道される。すべての生き物を分け隔てなく大切にしなくてはならない義務があるはずだが。(犬賀 大好-78)
キリスト教においては、人間と犬は明確に区別されると言う。犬の品種改良が積極的に行われ、意に沿わない品種は随意に破棄されるが、認められた犬は大切に飼育しないと動物虐待で訴えられるとのことである。仏教的には生きとし生けるものは分け隔てなく大切に扱わなくてはならない。仏教徒としては、キリスト教のこの二面性が理解できない。
また、日本における鯨、イルカの捕獲がキリスト教圏の国々からよく非難される。豚や牛とどう違うのか理解に苦しむところがあるが、要は心のつながりの問題ではなかろうか。知能の高いイルカ等の動物は人によく懐くようである。そこに人間との心のつながりを見出して、殺傷まかりならんとなるのであろうが、それならば食用の牛等に対してはどうかと反論したくなる。牛は人間の食用として役に立って初めて生まれてきた価値が有ると、都合の良い理屈をつけて納得する人もいるが、まさに人間本位の勝手な解釈である。牛も人間に危害を加える訳でもなく、子供の頃より飼育すれば、お互いに感情を理解し合える仲となるはずでる。豚をペットとして飼う人もいるようであるが、生育した暁には食用とする人はまずいないであろう。
人間は動物の頂点に君臨し、生殺与奪権を行使する。しかし、人間は神様のように権利を行使するが、義務を果たさない。しかも人間は、人間以外の動物ばかりでなく、人間そのものにも差別や虐待を繰り返す。民族や宗教に対する虐待のみならず、自分の生んだ赤ちゃんに対する虐待もしばしば報道される。すべての生き物を分け隔てなく大切にしなくてはならない義務があるはずだが。(犬賀 大好-78)
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