日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

最期の希望を記録する

2016年03月19日 09時28分32秒 | 日々雑感
 老衰と思われる高齢者にも容赦ない延命治療が普通になされる。しかもこのような延命治療を望む家族が結構居るそうだ。人命尊重の考えを徹底させる自己満足の為か、またそれを免罪符と考えるのか。それはそれで結構なことかも知れないが、老人病院で点滴を受けながら、口を開け、身動き一つせず横たわっている老人の列を見ると、自分はああはなりたくないと思う。それは、関係者に迷惑をかけたくない心からでもあるが、自分の尊厳でもある。

 そのため、終末期を迎え、自分の意思を伝えられなくなったときの為に、元気な内から家族等の間でよく話し合っておくこと、また自分の希望を記録として残しておくことを誰もが薦める。京都大学大学院の田村恵子教授は、日本人は人生の最後を考えることを忌避し過ぎると言う。考えずにいて、いざその時が訪れると「どうしたらよいか」とおろおろする。早い段階で自分の最後を直視していたら、人生の最終段階を有意義に過ごせる。命に関わる病気や怪我をしたとき、自分の最後とこれからの人生を考えるチャンスだと捉えて欲しい、と言う。

 これは十分に納得力のある話である。しかし、問題が一つある。それは、死は誰もが始めての経験であるので、死を迎えたときに自分の心がどのように変わるか分からない、という点である。家族等関係者に面倒かけたくないとの思いは理性からであろう。人間の本能は生である。死に直面した時、変わらないと断定できるのであろうか。また認知症を患った場合、本能が全面に出るのではなかろうか。

 死に直面したときの希望が元気な時の希望から変化しても、元気な時の記録を盾にそのまま実行することは、善であろうか。本能を大切にするのか、理性を大切にするのか、答えは簡単に出ないであろうが、やはり希望くらいは記録に残すべきであろう。

 筆者に限らず誰もが尊厳ある安らかな死を迎えたいとの希望があるだろう。老いて衰え、最後の時期が近づくと、徐々に食べられなくなり、眠る時間が長くなる。そして肉体的にも精神的にも苦痛がなく、穏やかに亡くなる。このような死を特別養護老人ホームの常勤医の石飛幸三氏はこれを「平穏死」と名付けている。理想的な死であろうが、病気や認知症にならず老衰で死ねれば、何も記録に残すことはない。

 現在日本の男の平均寿命は80歳位だ。80歳位の死は、何らかの病気によるものであろう。老衰で死ぬためには恐らく100歳位まで生きる必要があろう。平均寿命までまだ5年以上ある筆者にとって、80歳に老衰で死ぬためには、今から貧困生活をする必要があろうが、貧しい食事に耐えられそうもない。

そこで、何らかの病気に罹った場合を前提に希望を記録する必要がある。現時点では延命治療はもっての他と考えるが、認知症になった場合、自分がどう変わるか確信がない。本能が強くなり、少しでも長生きしたいと言い出すかもしれない。そんな時でも元気な時の希望を重視し安楽死させてもらいたい。しかし、安楽死は現在の法律では違法である。医者も法を犯したくないだろう。

 最近、在宅で療養する末期のがん患者に、「終末期鎮静」という新たな医療が静かに広がっているとのことだ。鎮静剤で静かに寝むらせ、その間栄養補給等は何もしないで自然死を待つと言うことである。安楽死との関係はよく分からないが、私の終末期ノートには、「終末期鎮静」を希望すると記録しておこう。
2016.03.19(犬賀 大好-217)