菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

骨が飛び出しそうな震え

2010年03月06日 00時00分33秒 | ブロぐ。
これは、2010年の3月5日の朝書いた日記。

 

昨日の雨で、空気が洗い流されて、今朝、空は晴れ渡っている。
雲ひとつなく、空は透き通り、空色をしている。
いわゆる日本晴れだ。

今日は、撮影が出来たかもしれない日だ。
晴れた空が必要な撮影だ。

一昨日、3/3にも撮影をした。
スケジュールには今日の撮影も組んでいたが、いろいろな事情で、3/5は予備にならず、撮影が出来ない日となった。
しかたないといわざるを得ない事情だ。


しかし、そういうのをどうにか超えて、より上に上げてくれるものをどうにか残す。
そのために、最善を尽くす。
動かぬものはいくつもあるからだ。
その心で、山も動く。


『剱岳 点の記』が巣晴らしいのは、それを捕まえる覚悟で挑んで成し遂げているからだ。
あそこには、失われつつある、映画を作るということの基本がある。


ああ、映画を撮りたい。


映画には、圧倒的な映像が必要だ。
それには天の機嫌、場所、人間、機材、被写体、技術が必要だ。
なにより、凄いものを残してやるぞ、コノヤロー!という気概と覚悟と備えが必要だ。
毎日という引き伸ばされた時間の麻痺に負けぬ、緊張が必要だ。

今日みたいな日を迎えるたび、あれを写せたであろう可能性、あの素晴らしい瞬間を思って、震えがくる。
いくども、その瞬間を逃し、自ら作品に傷を残してしまった。
それは、復習するかのように、突然、脳にたち現れ、蘇り、うなされ、体を小刻みさせ、筋肉を硬直させる。
その振動は骨を肉から飛び出させそうだ。
動けなくなるこのムズ痒さのおまけまでつけて。
この震えには、きっといつか対処法を持たねばならない。
そうしなければ、いつか、コレが元で死んでしまうだろうから。
そうしなければ、いつか、慣れてしまい、心を失くしてしまうだろうから。 

あの物語が、そういう日に撮影出来ていれば、何倍にも輝いたかもしれない。
そう思うから。

技術とはそういう、一駿で消え去るもの、失ってしまうものを、どうにか留める力なのではないか、それを留めたモノが心に残るのではないのか。

もちろん、その瞬間ばかりを狙えないからこそ、技術で近いものを、もしくはまったく違うものを写しこむのもプロだ。
割り切りや妥協もまたプロの技だ。
計算だ。

だが、計算ではたどり着けない境地があるのもまた真実なのだ。


一枚の写真が人間を動かす。
数秒の映像が人間を動かす。
数分の映画が人間を動かす。
それらを写すためには、その何百倍も動かねばならない。
留まらねばならない。
徒労、疲弊、あきらめとがっぷりよつとなって、力比べをせねばならない。
自然、時間を捕らえるためには、脳ミソをフル振る活動させ、それを体に伝え、動かす。
それでしか果たせないのではないか?
 
くたくたへとへとになるまで、粘り、ねばり、ネバリ、粘る。
人事を尽くして天命を待つのだ。
奇跡と偶然を区別するのは、使い果たされた労力の差だ。
人がそこにいて、奇跡が起こるのだ。
その意思の力の差だ。

面白さなんて簡単に風化し、変化するが、その情熱の記録は何度でもそれを蘇らせるはずだ。
コンピューターで生み出したものだって、その労力はそうそうへたりはしない。

そうやって残されたものに、幾度も心を震わされてきたからこそ、この職を選んだのだ。
選ぶまでは知らなかったしても、その立場に身を置いたからには、自らに命じなければならぬのだ。


狂おしいまでの、この震えを、このムズ痒さを忘れない。


いてもたってもいられず、飛び出しても、この手には何もなく、この眼前には、ただそれが悠然と広がっているだけだ。
今は、胸に焼きつけるしかない。

チクショー。
この悔しさ、口惜しさ、苦しさを忘れられようものか。
コノヤロー。
いつか自分の映画にそれを刻みこむために。


必ず、動かす映画を作ってやる。



これは廃残の記録である。
いつか、この動かすために、これをここに残す。


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