菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

耳に聞こえても、目の前に囚われる。 『関心領域』(追記あり)

2024年05月26日 00時20分53秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2364回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 

 

『関心領域』

 

 

 

ホロコーストや強制労働によりユダヤ人を中心に多くの人びとを死に至らしめたアウシュビッツ強制収容所の隣で平和な生活を送る一家の日々の営みを描く。

イギリスの作家マーティン・エイミスの小説を原案に脚色し、実写映画化。

2023年の第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でグランプリ、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞。

 

関心領域 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

 

 

原題は、『THE ZONE OF INTEREST』。
『関心のもてる領域』。

「The Zone of Interest」は、第2次世界大戦中、ナチスドイツが、ポーランドのオシフィエンチム郊外の農村などを接収してつくったアウシュビッツ強制収容所群のあった40平方キロメートルぐらいの地域を指し、の地域を表した用語を英語化したもの。
原作とした小説のタイトルである。

 


製作年:2023
製作国:アメリカ / イギリス / ポーランド
上映時間:106分
映倫:G

 

配給:ハピネットファントム・スタジオ  

 

 

物語。

1940年代ポーランド、収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、ナチスドイツから、その手腕を高く評価されていた。
仕事にも辣腕を振るい、効率向上を果たし、さらなる出世を目指す。
収容所の隣に立派な庭のある邸宅を建て、妻ヘートヴィヒと子供たちと輝かしい暮らしを送っている。
隣から聞こえてくる悲鳴、銃声、エンジン音を聞き流し、焼却炉の煙を横目にしながら。

 

監督・脚本は、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』のジョナサン・グレイザー。

カンヌ国際映画祭ではパルムドールに次ぐグランプリに輝き、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞、音響賞の5部門にノミネートされ、国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した。

主演は、『白いリボン』『ヒトラー暗殺、13分の誤算』のクリスティアン・フリーデル、『落下の解剖学』『レクイエム~ミカエラの肖像』のザンドラ・ヒュラー。

 

 

スタッフ。

監督:ジョナサン・グレイザー
製作:ジェームズ・ウィルソン、エバ・プシュチンスカ
製作総指揮:レノ・アントニアデス、レン・ブラバトニック、ダニー・コーエン、テッサ・ロス、オリー・マッデン
原作:マーティン・エイミス 小説『関心領域』(『THE ZONE OF INTEREST』)
脚本:ジョナサン・グレイザー
撮影:ウカシュ・ジャル
プロダクションデザイナー:クリス・オッディ
衣装:マウゴザータ・カルピウク
編集:ポール・ワッツ
音楽:ミカ・レビ

 

 

出演。

クリスティアン・フリーデル (ルドルフ・フェルディナント・ヘス)
ザンドラ・ヒュラー (ヘートヴィヒ・ヘス)

イモージェン・コッゲ (リンナ・ヘンゼル/ヘートヴィヒの母)
ヨハン・カーサウス (クラウス・ヘス)
ルイス・ノア・ウィット (ハンス・ヘス)
ネル・アーレンスメイラー (インゲ=ブリジット・ヘス)
リル・フォーク (ヘイデラウド・ヘス)
アナスタシア・ドロブニアック (アナグレット・ヘス/赤子)
セシリア・ペカラ (アナグレット・ヘス/赤子)
カルマン・ウィルソン (アナグレット・ヘス/赤子)

メデューサ・ノプフ (エルフリーダ)
マックス・ベック (シュワルツァー)
アンドレイ・イサーヴ (ブロニック)
ジュリア・バビアーズ (若きポーランド家政婦)
ステファニー・ペトロウィッツ (ソフィー)
マリティナ・ポズナンスキー (マルタ)
スサンナ・コビーラ (アニエラ)
ラルフ・ハーフォース (オズワルド・ポール)
ライナー・ハウステン (リヒャルド・グリュックス)
ベンジャミン・ウッツァーラス (フィッツ・サンダー/トップフ・ウント・ゼーネ社員)
トーマス・ナウマン (クルト・プリューファー/トップフ・ウント・ゼーネ社員/焼却炉開発者)

ジュリア・ポラツェク (ポーランド少女/アレクサンドリア・バイストロン=コロヅェツェク)
スラヴァ (ディラ/犬)

 

 

 

『関心領域』を観賞。
1940年代ポーランド、アウシュビッツ強制収容所の隣の邸宅で暮らす収容所所長ヘスの一家が日常を過ごす戦中ホームドラマ。
英国のマーティン・エイミスの小説『関心領域』を原案に脚色し、実写映画化。ルドルフ・フェルディナント・ヘスとその妻ヘートヴィヒは、実際にアウシュビッツの収容所所長とその妻で、ルドルフが戦後に裁判で有罪になり収監された後で書かれた手記を基に小説は書かれ、今作もそれらを基に脚色を加えているとのこと。
第76回カンヌ国際映画祭でグランプリ、アカデミー賞で国際長編映画賞と音響賞を受賞。
監督・脚本のジョナサン・グレイザーの10年ぶりの長編映画。
小説と今作の原題である『The Zone of Interest』は、第2次世界大戦中、ナチスドイツが、ポーランドのオシフィエンチム郊外の農村などを接収してつくったアウシュビッツ強制収容所群のあった40平方キロメートルぐらいの地域を指した用語を英語化したもの。ドイツ語だと「Interessengebiet(インテレセンゲビート)」で意味を丸ごと翻訳するのが難しい言葉らしいが、直訳すると「関心をもてる範囲」。
秀逸なタイトルで、人々の関心のもつ範囲について問いかけているようにテーマを支援すが、今作のテーマはそこにはとどまらない。
映画は、戦中のホームドラマの様相。スケッチ的でドラマは非常に薄い。だが、見る側の関心と想像力によって、そこには濃密な物語が現れてくる。
見る者は、ホロコーストとアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のことを知っているかどうかで見えるものがまるで変わる。まぁ、先進国で義務教育を受けていれば常識ではある。
では、あなたはホロコーストのことを説明できる?
<ホロコースト>は、1933年頃から行われたナチスドイツとその同盟国および協力者による、ユダヤ人への政策により組織的な迫害および虐殺のこと。約600万人(当時の関連国に住むユダヤ人の人口の三分の二に当たり、現在の東京の人口の約半分)が殺された。ヘブライ語で「大惨事」を意味する「ショーア」と呼ばれることもあります。
でも、この映画ではユダヤ人は数名しか出てきません。
近いタイプの映画では、『ヒトラーのための虐殺会議』がある。
おいらとしては、それらの情報を知らずに見たかったとも思った。もうそこに関心を持って見ているから、見えるものがすでにわかってしまっていたので。
この映画のタイトルは秀逸で、見る人の関心領域だけでなく、感覚領域が露になるからだ。
それを特徴的にしているのは画と音。
画は、特徴的な引きの映像で構成されており、バストショットでさえ数度しか出てこない。デジタル撮影のパキっとした画調が現代的で現代とシームレスにする効果をもたらしている。
実際、メインの撮影は邸宅に配置した数台の無人カメラで行ったそうでリアリティ番組などの感触がある。体温が低い観察的カットの触感そのものが映画の意図を伝えてくる。台本はそれぞれのキャストにしか渡されず、それぞれが何をしているか知らなかったそう。それにより、時折挿入される意図を込められたカットやカメラワークによって、見えてくる感情がこちらに熱を上げ、体の芯に重いものを込み上げさせる。
撮影は、『イーダ』『もう終わりにしよう。』のウカシュ・ジャル。絵画的構図ながら現実味のある画面作りで、そのセンスがいかんなく発揮されている。
『悪は存在しない』『ゴッドランド/GODLAND』やロイ・アンダーソン作品(これは絵画的なので意図が違うが)とも通じる客観性により、それを見ているであろう誰か、傍観者の視点が強化される。だが、それらと似ているようで、こちらはさらに現実味を求めたことにより表現であることが伝わってくる。すなわち、今の問題だという強烈なつきつけ。
撮影された邸宅のセットは、現在も残るアウシュビッツ強制収容所の隣、実際の邸宅の場所にレプリカを建てたもの。
音は、見ている映像の意味をごろりと変えてしまう響いてくる。その聞かせ方は映画の音響の極北に到達している。
見せないだけでなく、ただ聞かせるのだ。
見ている者には聞こえているが、登場人物の多くがその音をどう聞いているかをも意識させる。
そして、それはあなたの感覚領域を刺激する。
これもまたあなたの感覚の鋭さ次第では、体調に影響するだろう。
しれにより、今作はあなたごとにする。理性での理解を起点に、同時に感覚を刺激し、映画でしか味わえない反応、つまり映画反応を引き起こす。
だから、当然ながらスクリーンの大きさ、音響の設備、観客の数でも観賞感は変わる。
映画館で見ることの価値、見た後の変化をぶつけてくる。
しかも、今作は、冒頭に映画の見方を伝えるガイドがある。(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はそこに字幕が載せられていた。この冒頭に字幕ではなく映像や物語的に、<この映画の観方ガイド>やオリジナリティあふれる導入を入れる作品が目立ってきている。(『ター』『悪は存在しない』『パスト・ライヴス/再会』『ネクスト・ゴール・ウィンズ』など) 以前からあったものだが、映画館で見ることの価値としての体験の強調にも感じる。これは、配信で映画を見るのが当たり前の時代の空気を作家たちが感じ取って映画館の価値を強めているのではないか。多くのコンテンツに埋もれている観客を映画を見る体勢に導く方法なのかもしれない。
同時代の作家のシンクロは他にもある。『オッペンハイマー』もあえて見せなかったものがあり、それは特に日本時jの関心領域を刺激した。『胸騒ぎ』では同様にいなくなるシーンがある。あえて、反対に固定された想像を映像にするシーンが『落下の解剖学』にはあり、イメージの力と情報を受け取る力と向き合った作品が増えている。
映像を見るのではなく、映画を見るという行為の意味、映画の持つ見る前と見た後であなたを変えてしまいたいという思い。
もちろん、だからこそ、娯楽作であえて、見たそばから中身はさっぱり溶けてしまうもの(気分は残しても)を目指すという志向もありになる。
今作は、絶対に見たことを刻みつけ、残すぞ、という意識にあふれ出ている。
それにより、ドラマが薄いようで、非常に計算された内容にしているものだということも見えてくる。
もうね、送り手が、見る側の想像力や知性を信じている。いや、持て!と突きつけてきている。
直接的なことを見せずに聞かせることで、見ているあなたの中に生まれるものにかけている。
主演は、『白いリボン』のクリスティアン・フリーデル、『落下の解剖学』『ありがとう、トニ・エルドマン』のザンドラ・ヒュラー。ザンドラ・ヒュラーは『落下の解剖学』は同年にカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、アカデミー賞でも両作品がノミネートされている。
その細やかな演技は、映画演技の歴史の抽出でもある。
ささやかな動きや体の位置や反応だけでその状況と人物を見せてくる。説明的な演技はほぼないだが、誤読を許さない丁寧なセリフやシーン構成がある。
前半のドレスについての会話、中盤の出世についての会話、後半の体調についてのシーン構成など徹底している。ある藩王は何かに原因(フリ)があり、起結がきちんと順番に並べて見せる。すべてのシーンで行われているといえるので、見える人にとっては、二コマ漫画のようで、『サザエさん』とも通じるものと受け取れる。カヌーが贈られれば、カヌーに乗って遊んでいるシーンがある。そして、そのほかのあるシーンがその後のカヌーのシーンに反応として描かれる。そして、そのシーンはまた別のシーンのふりとなって、また反応を起こす。
気づけば、見えてくるものがまるで変わる。
人は自分が目の前のことに囚われる。見ないと決めたものは排除してしまう。生活の中で麻痺するのだ。
だが、無視できる人もいれば、無視できない人、無視しても残ってしまう人がいる。
戦争は終結しても、終わらない。
徹底してつくりこまれたことで、つくり手がこれをどう届けたいかの真意にも想像を働かせさせる。
あなたに届けたいからあなたに見やすいようにはつくらない。
知らないことは正当な理由になるのか。知らないように見ないように自分を仕向けてはいないか。
少しでも、気づく人が増えてほしい。
塀の向こうで、隣で、隣の国で、隣の大陸で、今起きていることに。
声を上げる、上げられた声に耳を傾ける、立ち止まって見る、そこから始まる。
「こんなひどいことはあっちゃいけない」と歴史を見ながら身に沁みつかせるあなたはその歴史の真っただ中にいる。
まずは、今作のような映画を本をニュースを見ることからでいい。
わたしのものだけではなく、あなたのものにしてほしいのだ。
あなたの関心領域に入り込ませよ。
今現在、隣に生きる、あなたに響かせようとする一本。

 

 

The Zone Of Interest | “ A landmark movie.” (@TheTimes) Get tickets for  Jonathan Glazer's breath-stopping masterpiece THE ZONE OF INTEREST,... |  Instagram

The Zone of Interest (film) - Wikipedia

The Zone of Interest – VORHANG AUF

The Zone of Interest - Google Play の映画

 

関心領域 | マーティン・エイミス, 北田 絵里子 |本 | 通販 | Amazon

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

冒頭の黒い画面が音楽とともに2分15秒間。黒い画面が映され、その後、20秒間、赤い画面が映される。
これは観客を耳にするし、見るという行為に意識を向けさせもする。
『悪は存在しない』は森を下から見上げて移動する映像が音楽が流れて4分映される。

 

今作は、ルドルフが焼却炉の建築を開始してベルリンまで行き、そこで戻れる話をするので、1941~44年が舞台のようです。

 

アウシュヴィッツ第一強制収容所、ビルケナウ第二強制収容所を合わせて、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とも呼ぶ。

 

 

サーマル(温度感知)カメラ映像のシーンは、収容所のそばに住んでいた13歳の少女アレクサンドリアの実話の再現。
強制労働で働いている場所に実際にリンゴなどを埋めて食べてもらおうとした実話から。
彼女は関心は大変な人々の飢えであるともいえる。
このアレクサンドリアさんは、今作の撮影が始まったときに、90歳で、まだこの場所に住んでおり、この話をスタッフに語ったそう。
映画に出てくる服や自転車は彼女の物も使用している。
映画が完成する前に、逝去されてしまったそうです。黙祷。

当時のあの付近では、抵抗運動をしていたAKという組織があり、それらの情報が残してあったそうで、組織には子供たちも多くいた。アレクサンドリアさんもその一人。

あのシーンがサーマルカメラで撮影された理由。
この映画は自然光のみ撮影する方向だったので、実施あの真夜中の活動を撮るための方法は、サーマルカメラしかないと試行錯誤の末、決定したそう。
通常の映像も、なるべくグレーディングもほとんど行わないで、素の感触を残すようにしたそう。
アレクサンドリアが光ってる映像は、人間の善の部分を象徴しているのだろう。

アレクサンドリアのシーンは、ちょうどルドルフが子供に童話を聞かせている(ここでも聞く行為がピックアップされる)ところに入るので、イメージのシーンのようにも感じるが、想像力を行動に変えているともいえる。

その実話を知らなくても、あるのに見ないヘス家と対応して、見えないのに行動する姿としてそこにある。
ルドルフが子供らに語る童話のように。

 

マーティン・エイミスは、2023年5月19日に亡くなった。それは奇しくも、この映画がカンヌ映画祭で世界初公開された日であった。

 

屋外のシーンで遠くから何度も聞こえる響くような低音は、バイクのエンジン音。
これは、実際に、ルドルフ・フェルディナント・ヘスが収容所からの音をかき消すために、エンジン鳴らすためだけにバイクを設置し、そのためだけの担当を置きて、鳴らせ続けていた。

 

音の台本だけで、600ページほどあったらしい。
実際の記録上のデータをすべて、描き出し、それがどれぐらいの距離で聞こえるかと指示が書き込まれていたそう。

 

ユダヤ人がアクションをされるシーンはない。
あなたの想像に働きかけるシーンだけだ。

 

撮影は、照明も無く、機材も最小限でカメラだけを設置し、操作も地下室やトレーラー中からリモートで行ったそう。
カメラは最大で10台設置されたが、マイクは30台以上を設置した。

 

ヘートヴィヒは友人たちに、カナダからコートをもらったと語るが、カナダというのは、アウシュヴィッツ強制収容所で囚人から没収された膨大な品物の倉庫の名前。

劇中でユダヤ人を「荷物」と富豪で呼ぶのも、どこかで意識を反らそうとしているのがわかる。
日本だと「丸太」なんかがそれにあたる。

 

次男が太鼓を叩くのは、『ブリキの太鼓』の引用。

『ソフィーの選択』でアウシュビッツに収容されたソフィー(架空の人物)が働いているのもルドルフ・フェルディナント・ヘスの家だったりする。
今作にもソフィーと呼ばれるユダヤ人家政婦が出てくる。偶然か、オマージュか。

 

当時のヘスの家や家族を写した写真は、かなりの数が残されているが、収容所の塀が映ってる写真はほとんどない。

リアルでは、収容所から少し離れた位置にヘス家はあったが、収容所に入っていく線路のすぐそばに建っていた。

 

ディラを演じた犬のスラヴァは、ザンドラ・ヒュラーの愛犬を起用している。

 

クリスティアン・フリーデルとザンドラ・ヒュラーは、東ドイツ出身。
ザンドラ・ヒュラーはナチスの役は演じないと決めていたそうだが、ジョナサン・グレイザーに説得されたのと脚本の内容と役柄から、出演を承諾したそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

編集に入る時点で、800時間程度の映像素材があった。

 

原作の小説『関心領域』は、家族、特に夫婦二人の生活とナチスドイツ軍人たちのドラマをホームドラマ・m、メロドラマ的に、収容されたユダヤ人についても描いているそう。
あらすじ紹介を引用。
「おのれを「正常」だと信じ続ける強制収容所のナチ司令官、司令官の妻との不倫をもくろむ将校、死体処理の仕事をしながら生き延びるユダヤ人。おぞましい殺戮を前に露わになる人間の狂気、欲望、そして──。諷刺と皮肉を得意とする作家エイミスが描きだす、ホロコーストという「鏡」に映し出された人間の本質。」
名前も架空であったり、ユダヤ人も主人公におり、丁寧に、収容所内の仕事や処理の仕方なども描かれているそう。
メロドラマチックでもあり、それにより、この状況下で、というおぞましさが増すつくりになっている。
所長が処刑されたあとの戦後も描かれているとのこと。

 

 

今作からは、匂いがしてくる。
実際、妻の母は、匂いについて言及している。
妻は、花を育てているが、鼻はまさに匂いを感じるもの。
ルドルフは、葉巻を吸うシーンがあり、匂いを感じさせる。

あの母は、なぜ突然姿を消したのか。
それは、庭で寝ているシーンの反応とつながっている。
母は、びくっと目を覚ます。音のせいか、悪夢のせいか。
悪夢のせいと見れば、夜中に決断したのも納得できる。
眠れなくなるはずだ、耳が感じているあの音、鼻が感じてしまった匂いが、彼女の関心領域に入り込んできたのだ。
そして、それを無視する妻と子たちの姿を見ていられなくなったのかもしれない。
彼女は、まともであるがゆえに、目をつぶった。
彼女は声を上げられなかった。
メモの内容は、娘を気遣うものだったかもしれない。
『胸騒ぎ』でも似たシーンがあった。

 

ヘートヴィヒはユダヤ人の家政婦に「私はあんたを夫に言って燃やせるのよ」などと言ったり、ルドルフもナチスのパーティについて、「ここにいる者をどうしたら効率よくガスで殺せるか考えていた」という完全に壊れた発言をしたりして、壊れている姿も見せる。

 

川を流れてきたのは、焼却炉で燃やされたものの燃え残りと灰だろう。(ハナから黒いものが出てくるカットもある)
ルドルフは、服の切れ端らしきもの拾い上げる。
服は、毛皮とドレスの話でも扱われ、制服を見せることにもつながる。

ユダヤ人の労働者が庭に灰を撒くところもある。
あれは肥料だろうが、想像が人の遺灰にも見せる。

庭造りを楽しむ妻は、焼却炉づくりを進行させる夫と同一化される。

ルドルフは、収容所内で、ユダヤ人の女性と性交を行っている。
川の時と同じように、その後らしきシーンで執拗に体を洗う。

妻のために、仕事を頑張り、暮らしを、宿暮らしで守ろうとする夫ルドルフ。
がんばるいい夫でいいお父さんにも見える。(原作ではかなり狂っているそう)
それが、彼の意識を麻痺させていく。
無意識に何かがたまっていく。
「流されないものが溜まっていく」は、『悪は存在しない』に出てくるセリフだ。
同様のことが今作では反応として描かれる。
体も頭もまともなはず(医師もお墨付きを与える)なのに、ルドルフは突然嘔吐する、二度も。飲み過ぎたからか?
想像が襲ってきたのか。


あの現代のアウシュビッツでの展示の様子では、現代人のユニフォームを着た清掃員が掃除をしている。
ホロコーストは、民族浄化。
妻はガーデニングで庭を綺麗にし、子供たちは洗われ、働かされているユダヤ人は邸宅を掃除する。
母も掃除をしていたという話をする。
出てくる人すべてが掃除をすることで、つながりを感じさせる。
当時と今をつなげる。
そして、ルドルフの反吐は吐き切れずに、少しだけ二度繰り返される。(反吐はそのまま置いておかれる)
(これは、ドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』の最後のシーンにとても似ている)

妻は、母に、働いているのは地元の人だという。
実際にポーランド人もいるが、ほとんどは収容所に連れてこられたユダヤ人である。
あえて、嘘をついているといえる。
ユダヤ人は汚らわしいといいながら、部屋で一緒に過ごす。
そこには意識の矛盾がある。

長男は、ナチスに影響されていく。
弟を温室に閉じ込める様は、まるでガス室に閉じ込めるかのようにも見える。
ユダヤ娘とベンチでイチャイチャしているのは、父親が行っている行為と重なる。
次男は兵隊人形ごっこに興じるし、「ハイル、ヒットラー!」と高らかに言って見せる。
二人は、歯の装飾品を見ている。
子供への影響という点でも、『悪は存在しない』『エドガルド・モルターラ』と通じる。

 

アウシュビヴィッツ周辺は、世界遺産のため、撮影がかなり制限されており、残されていた廃墟を修繕するということでセット建築の許可を得たそうで、ヘス家のまんまの場所ではないそうだが、間取りなどはなるべく忠実につくられている。
地下室も再現している。
監督からh、映画のセットではなく、本物の家を建てるようにという注文だったそうで、実際に、家も庭も、当時の本物の製法や道具を用いているそう。
家具や小道具もなるべく当時の物をもってきているそう。
わずかに出てくる血も地の利ではなく、実際の血を使用したとも言われている。
効果音なども実際の音源や当時の物を使って収録したそうだ。

 

 

アウシュヴィッツ強制収容所は1940年に建築された。
初代所長はルドルフ・フェルディナンド・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß)。
(国家社会主義ドイツ労働者党副総統、ヒトラー内閣無任所大臣もルドルフ・ヘスなので、区別するために日本ではヘースとも表記される。Heßで綴りが違う)
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの覚えめでたく登用されたと言われる。
ルドルフは、20代の頃、義勇軍で裏切り者を私刑にかけたことで、10年の重労働判決を受け、刑務所に収監されており、ここで後の強制収容所の所長としての知識と経験を囚人の立場から得たと言っており、1938年には、ザクセンハウゼン強制収容所の副所長を務めていた。
1941年8月にルドルフはヒムラーからユダヤ人絶滅計画のために、アウシュヴィッツをユダヤ人抹殺センターに改築せよ、との命令を受けている。
この命令を受けたときのことをルドルフは回顧録の中で「この命令には、何か異常なもの、途方もないものがあった。しかし、命令ということが、この虐殺の措置を、私に正しいものと思わせた。当時、私はそれに何らかの熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」と書いている。
すぐに最初のガス室を備えた複合施設<クレマトリウム1>が完成し、1941年10月にはユダヤ人のガス室送りが開始されている。
1942年1月、ホロコーストの方針を決定づける<ヴァンゼー会議>が行われ、総統アドルフ・ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令している。
1943年秋、SS調査委員会がアウシュヴィッツ強制収容所政治局に対して恣意的な囚人殺害や汚職の容疑で捜査を行い、ルドルフは直接関与していなかったと弁明するも、管理責任を問われ、1943年11月にアウシュヴィッツ所長を退任させられる。(劇中で、妻には出世と言っているが、実はクビになった)だが、その後、親衛隊経済管理本部でDI部(全強制収容所の中央事務所)部長に就任し、事実上栄転になるものの強く言える状況ではなかった。(後任の所長はアルトゥール・リーベヘンシェルだが、彼も1944年に退任となり、ルドルフが臨時ではあるが再度所長に就任した)(劇中でのがんばりは、ルドルフは不祥事の責任を取って所長を退任させられていたので、かなり危うい立場でもあったので、邸宅を守るために必死で、自分の価値を認めさせないとならない状況にあった。つまり、夫婦間でも嘘をついている。それもあって最後のルドルフのガス室のセリフが出たとも考えられる)
1947年4月16日、彼が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑に処せられた。
彼は1947年2月に収監先で、手記を書き残しており、その締めくくりには、下記の文章がある。
「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私にはうらやましい。私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ。」「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし(蓋し=思うに)大衆にとってアウシュヴィッツ司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを。」
(wikiより)

それらの情報がなくても、なんか変だな、と感じる感度、想像力で見る映画になっている。
夜中のサーマルカメラのアレクサンドリアのシーンも観ている最中はわからくもあるが、リンゴを埋めている、なんおてmに?ぐらいは思えるはず。彼女は、文書を拾ったりしているので、定期的にあの行動をしているのがわかる。あれは、なんだろう?でいいのだ。(拾っているのは楽譜で、実際に収容所の囚人が書いた楽譜を拾ったたことがあったそう)
ルドルフは、栄転のはずなのに、なんで「安宿でいいので」と電話で下手に出て、お願いをしているのか。
「何かがおかしい」、そのことに気づけるかだけでいい。
だって、答えは現実、歴史にあるのだから。

 

あの夫婦も家族も、それぞれに嘘をついて暮らしている。つまり、見えている(聞こえている)のに、見えない(聞こえない)ようにしている。
川であれに塗れたときも、子供達には汚れたからとは言いますが、それが何かはもちろん言いません。
しかし、子供たちは気づいている。歯の装飾物を集めたり、長男は次男を温室に閉じ込めますがそれはまるでガス室送りの模倣のように見える。
ルドルフははけ口を収容所の女性に求めますが、事後発停的に洗います。長男は隠れて家政婦として働かせている収容ユダヤ人女性とベンチで同席している。

 

ルドルフが、最後吐くのも、自分の行動の結果の想像だけでなく、自分の目の前のナチスドイツ内の立場によりベルリンに来て、家族から離れて暮らしを奪われた状況(収容上に連れてこられたユダヤ人と同じ立場ともいえる)を改めて実感できたからかもしれない。
当時のドイツ人で、刑務所にも入っていた男であっても、高い立場から追い落とされたことで、また違う意識が生まれた可能性もある。そこに見えるのは人間の弱さ。その弱さが関心領域を減らさせ、心を守っているのかもしれない。

 

 

影響(エントロピー)の増大を今作は含んでおり、その連鎖を引き起こそうとする。
これは、『オッペンハイマー』で描いたことと通じる。

 

あの夫婦も家族も、それぞれに嘘をついて暮らしている。つまり、見えている(聞こえている)のに、見えない(聞こえない)ようにしている。
川であれに塗れたときも、子供達には汚れたからとは言いますが、それが何かはもちろん言いません。
しかし、子供たちは気づいている。歯の装飾物を集めたり、長男は次男を温室に閉じ込めますがそれはまるでガス室送りの模倣のように見えます。
ルドルフははけ口を収容所の女性に求めますが、事後発停的に洗います。長男は隠れて家政婦として働かせている収容ユダヤ人女性とベンチで同席しています。
(これは映画を見ていてはわからないことですが、ずっと響く低音は、ルドルフ・ヘスが収容所からの音をごまかすため、ただバイクのエンジンをふかさせている音で、彼はそのためだけの担当者を立てていた、という実話に基づきます)
 
ルドルフ・ヘスを演じたクリスティアン・フリーデルはインタビューで、監督からこの役の闇を表現するための演出の言葉を話しています。
「(ルドルフは)真実を言うときは目で嘘をつき、目で真実を訴えるときは口で嘘をつく」
 
つまり、「人が常に嘘をつき続けているとき、真実はどこに姿を現すか」がこの映画のテーマの一つだと言えるのではないでしょうか。
それは、ラストの現代のアウシュヴィッツの展示を見せる意図のもう一つの側面を浮かび上がらせる。
このガラスケースに飾られているのは、当時の嘘(=見えないようにしていた)の結果なのだと。
自戒を込めて言うならば、この結果の前で、多くの人々はこんなひどいことを許してはいけないと思い、話し合うだろう。
ただ反省する、今起こってるそれは見ないようにして。
観客につきつける。
「あなたは、自分に嘘をつき、今起きていることに目を背けていませんか?」と。

 

悪を知らないふり、凡庸さを装っている賢さのことを、「能ある鷹は爪を隠す」ともいう。

 

時代や国を渡っても、現代に生きる観客の今この時とつながろうという意図が明かに表れている。

 

それは、ウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナだっけではない、ミャンマーやモンゴル、女性差別、人種差別、すべての大きなルールによる問題の横で私たちは暮らしているのだから。

でもせいぜい、おいらなんて、フォロワーも少ないSNSで発信したり、薄い金額の寄付したり、活動している人たちにエールを送るぐらいしかできない……。

 

 

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追記。

室内に、壁の向こうにあるものが同じように存在している。
雑草、ストーブ、オーブン、温室、赤子の泣き声、二段ベッドなど。

花を選ぶ、雑草との対比は、ナチスの優生主義をイメージさせる。

 

ヘス家は動物を愛でるシーンがなども描かれる。
ある意味で、セイブ・ザ・キャットの技法を反転させている。

 

四角い空間が何度も印象的に映される。
現代のガラスケースのもその一つ。
収容所のイメージ、それは映画のイメージでもある。
映画の中の映画を見ることで、反転して、劇場へと広がっていく。

 

 

 

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