五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

小泉八雲と夏目漱石

2010-02-17 04:34:27 | 五高の歴史
ハーン(小泉八雲)は明治24年に松江の尋常中学から着任して手取本町の赤星晋作の家を借り日本式の神棚を作らせた。月給200円外人教師は高給でありこれは校長と同額である。五高には人力車で現在の道路環境から云えば水道町から子飼商店街の道路を通って、五高へ通勤していたと思われる。この赤星晋作の家が現在の鶴屋の裏の小泉八雲旧居である。中学校令は27年には高等学校令に改正されて、明治27年9月以降が、世間で云うお馴染みの五高である即ち第五高等学校となったのである。30年には五高の専門課程として五高工学部が設けられた。また34年になると創立時から長崎に設置されていた五高医学部が長崎医学専門学校として、39年には五高工学部が大津街道(現在の県道337号線)を隔てて熊本高等工業学校として分離独立した。その後の五高は帝国大学入学のための予備教育機関として発展して行った。
漱石(夏目漱石)が小説「坊ちゃん」の舞台である松山の尋常中学校から英語の教師として赴任したのは29年であった。月給100円これも高給であるが八雲に比べると100円安い。昔から外国人教師は待遇はよく高給であった。漱石はイギリスに日本最初の在外研究員として留学するまでの約3年半を熊本で暮らした。着任したとき漱石は池田駅、現在のJR上熊本駅に降り立ち、人力車に乗って京町台を通り、新坂付近から熊本市を見下ろして町に緑が多いことにひどく感心した様子で、「熊本は森の都だ」と言ったとか、そのため漱石が熊本の「森の都」の名付親と言われている。授業では漱石の試験は厳格なもので遠慮なく落第点は付けで、赤点をつけることで有名であった、寺田寅彦が学友の赤点解消のため点数を貰う委員に選ばれ漱石の自宅に訪れたと言う話は有名である。このことが機縁で寺田寅彦が漱石の俳句の道に進んだ。漱石は赴任早々に端艇部の部長の委嘱を受け日清戦争での戦利品、ボートを佐世保の港で受け取り百貫港へ回航のため、吉田久太郎をメインとする生徒が引き取りに行ったが、その帰り道に宿賃、飲食代等で100円を超える赤字を造ってしまったので、生徒たちにはそれを弁済する金はなく、部長の漱石は月給全額を出して償いをしてやり即座に部長を辞任したと言う。調査してみるとどうもこの話はフェクションで漱石が端艇部の部長になっていると云う証拠は見出せないし100円を弁償してやったという証拠もない。漱石は熊本時代においては俳句の創作にいそしみ漱石生涯の俳句はその大半が熊本時代のものである。後の作家としての作品「草枕」、「二百十日」、「三四郎」は特に熊本と関係が深い作品である。。

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