五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

高等中学校の設置

2010-02-15 04:13:36 | 五高の歴史
五高六十年の歴史について復習してみたい。今朝はその創成期の様子から・・参照した文献は五高五〇年史、七〇年史、五高人物史、習学寮史、続習学寮史である。
・・・・・・
明治政府は日本の将来の柱石になるべき人材を育成するための教育制度「中学校令」を明治19年公布した。この高等中学校令により第五高等中学校(五高の前身)は設置されたもので、明治20年10月には古城の県警察署跡地に仮住まいして第五高等中学校は開校された。敷地を飽託郡黒髪村の龍南の地に確保し21年2月より文部省の直轄工事として、文部技官山口半六・久留正道の設計・監督の下に校舎の建築に入った。1年半の歳月を要して、この熊本における最初の煉瓦造りのクイーン・アン様式の建物は明治22年7月に完成し黒髪村へ移転した。初代の文部大臣森有礼は19年発足した第一高等中学校の校長であった野村彦四郎を、あえて熊本の第五高等中学校の校長として送り込んだことは、森文相の日本の教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。明治22年は全国一斉に市・町・村制が施行された年で、それまでの熊本区が熊本市に改正された。この中学校令により、今までの中学校は尋常中学として残っていくことになった。高等中学校は文部省が直接管理し、全国を5区に分け各区に、東京に第一高等中学校、仙台に第二高等中学校、京都に第三高等中学校、金沢に第四高等中学校そしてこの熊本に第五高等中学校と云う、所謂ナンバースクールを配置した。第五高等中学校設置については九州各県で特に長崎・福岡とは激しい誘致合戦を行ったが、森有礼の英断により、熊本県に設置が決まったものである。
新校舎の落成は明治22年7月で、落成早々の7月28日の深夜には熊本地区は震度6,2と言う大地震に見舞われたが、この建物には聊かの亀裂も見出せなかったので、それ以後この建物の評価が高まり、世間の評判になり修学旅行を始めとする、結構な観光対象地になった。而して翌年の23年10月10日二代目校長平山太郎のもとで落成式とともに開校式を開催した。建築に掛かった費用は10万円で財源は県の地方交付金から8万円。旧藩主細川家から1万円。残りの1万円は県下の篤志家の寄付により賄われている。敷地面積51,300坪(168,000㎡)、坪あたりの単価 25銭、現在の単価であれば25万円余りか?全国五区の高等中学校では最大規模の広さを誇った。当時の熊本の交通機関は馬車と徒歩の時代であり黒髪のこの構内には兎やキツネ・タヌキ等々が多数出没していたという状態であった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿