五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

火曜日は記念館に出る

2016-02-24 03:21:20 | 自然環境
週一回の五高記念館に出て来た。朝は八時半には出勤という形を取っているが俺自体は無料の遊びであるので行くのも帰るのも自由である。どういうわけか今年の資料室の寒さと言ったら今までの年に比べて寒いことこの上ない。

現代の大学関係者では「武夫原」というと知らない人はいないだろう。しかし「東光原」や「白草原」と言っては殆どの人が知らない。この三ヶ所の原っぱは五高時代にあった広場の名前である。



今までも何回かこの3ケ所の名前を書いたことがあるが今朝はこの名前の由来について習学寮史等から転載して紹介したい。


武夫原の由来
武夫原は体操場の通称である。愛称となったのは、寮歌武夫原頭が龍南人に愛唱されるようになってからに相違ない。但し何時からそう呼ばれるようになったのかは定かでないが、恐らく戊戌の年の明治31年黒本教授によって表された習学寮十二境記に因んだ物であろう。その十一にもののふの原 武夫原・・寮史には練武場とありこれが武夫原のおこりと思われる。
もののふの原の全文
是は校の西にあり、千世の林を分入て、嵐の音も少なくなれハ、頓て此出づるなり。ここにて兵式の体操を習ひければ、かくは名付たり。四の時に従いて、浅芽生のしげみに、百草の花さ出づる、目もあやなり、日影麗かに風長閑なる頃ハ、すみれ花さく床のべに、草枕して文見るもよく、夕の暑さ堪えがたき頃ハ、千世の林に入りて、物考ふるも、心よげなり。しかはあれど、はや夜寒の比となり、松虫、きりぎりすの声よわりゆく旅のよすがら、衣かりがね鳴渡る程ハ、遠思の情留めがたくやあらん。風さえ、霜こほる時となれバ
満目物凄ましく、木枯のふき立つよと見れバ、はや霞のたばしる空ともいはず、此原にうちむれて、身のよろいもかろげにきなし、銃とりあなみ揃へて、武技を演ずる、見るもいさましく、是ぞわがみくにのならひにて、おほけなくも、此身ハゆくゆく吾すめらみもとの守りなり、外つ国人の侮ふせぐますらをぞとのただ一筋の志のあつくありてこそ、その寒さにも堪忍ばるべけれ。
    一筋の 矢竹心ハ 玉あられ
      ふるとも 何か もののふのはら
はらの隅に、弓場もありて、時々ゆづるの音のきこゆる、いといさまし。

白草原の由来
白草原には明治30年4月から明治39年3月まで、第五高等学校工学部が設けられていた地域で、寮歌‘「それ北韓の白雪に、血潮染めしは何故ぞ 朔北風は寒くして 白草原の月凄く 屍つみしは何故ぞ」 この寮歌は39年、日露戦争後の作詞だから、白草原の名もそれにヒントを得たものではなかろうか。古い地図には「器械体操場」と記されて居るだけである。39年工学部が移転後は、種々の建物や植物実習地が出来たりした。柔剣道場は教室に、支度部屋と弓道場は住宅になっていた。

東光原の由来
溝渕校長時代の大正末期、大蔵省の国有財産監査において未使用地として割愛を申し入れてきたが、溝渕校長は創立時の熊本県からの地方税、個人の寄付により取得されたことを知り、これを退けるためサインカーブの東側を運動場に、西側には道路沿いに熊本市から寄付の申入れを受けてプールを、また北側にはバレー・バスケットの球技場を新設し、その外側には杉の木を植栽し未使用地でないことを証明した。当時までは「東光原」という名はなかったが、東光会員たちが勝手に「東光原」という立札を立てた。それを誰かが取り払うと又会員が立てた。その様子は龍南人の間で流布され、光は東方よりと言う事で何時とはなしに「東光原」と呼ばれるようになった。

以上のようなことを書き写したので12時過ぎになったので帰ることにした。



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