五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

週一の記念館に出る

2016-03-23 04:33:32 | 五高の歴史
構内の桜の様子、
週一回の五高記念館へ出て来た。時間としては八時三〇分前後に到着して必要を感じたときには館内を見学する。事務室の連中は九時前後の出勤である。近頃は館内の清掃も火曜日か俺が出る日に掃除屋さんががたがたやって清掃する。一時からの様でありその時間になると喧しいので俺は上の郷へ帰るようにしている。俺自身は手当を貰うわけではないので適当に自分の都合で遊んでいる状態である。手当でも貰うのであれば正式な勤務も必要であるが、無給ではあるし遊びであるので自分の自由である。帰りは上通りで松橋行きに乗り換えるのである。黒髪から上の郷まで一時間では少々足りないようである。

ここでは30年ばかり前に週刊朝日に掲載された五高小史から以下の文書
 
明治二〇年十一月、九州七県を統べる第五高等中学校として授業開始。百八人の受験者のなかから二十四人を選び、はじめて入学させる。明治二十五年、本科第一回生、法科四、文科二、工科五、理科三の合計十四人が卒業、明治二十七年夏、勅令により第五高等学校と改称する。

文豪夏目漱石は明治二十九年春から七年間教頭心得として英語を教えのちに一高へ移る。五高創立十周年の記念日、漱石は「夫れ教育は建国の基礎にして師弟の和塾は育英の体本たり」と述べた。
明治二十四年八月嘉納治五郎は三十歳の若さで第三代校長として赴任しまもなくラフカジイオハーンも英語教師として加わる。嘉納治五郎の書になる「順道制勝行不害人」の文字は漱石の言葉とともに記念碑として構内に残っている。卒業生の数は一万五千人余幾多の秀才を世に送り名をあげることにいとまはない。〉昭和三十五年夏池田勇人が五高出身者として初めて首相を帯びた後佐藤栄作が引き続き政権を担当し両内閣の十三年間、世間では「政治は五高、財界は六高」と言う合言葉が流れた。昭和二十五年廃校になると旧制医大熊本工高などを含めて熊本大学に衣替えする。卒業生は政、財界、文化界に活躍する。旧制高校で一つの巨塔になっている。

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