五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高記念館周辺記念碑散策する

2014-01-03 06:15:58 | 五高の歴史
冬休みに五高記念館、熊本大学黒髪北地区・・その昔五高が存在した場所・・に入構し散策と洒落てみるのも一興かと思われ今朝は構内の散策をお勧めします。

夏目漱石が明治30年の開校記念日に五高の教員総代として『夫れ教育は建国の基礎にして師弟の和塾は育英の大本たり』と祝辞を述べているこの文字は記念碑として構内の西側に建っている。これは祝辞としながらも日清戦争後の軽佻を批判した若者に対する格調高い漢文調で語られている
これを始めとしてそれぞれの碑は現代の若者に、いや日本国民に語りかけている。五高記念館の名前が続く限り、武夫原がある限り現代の教育者の心の糧になり続くことであろう。一方五高記念館展示室を眺めれば濁世の波に思いを馳せ、若い青春を散らした五高健児の校風「質実剛健」「剛毅木訥」の教育精神をも伺い知ることが出来るでしょう。

続いて構内に存在する歴史的記念碑を紹介します。まず重要文化財に指定されている正門(通称赤門)を入りサイン・カーブを通っていると、ラフカジイオ・ハーンの碑とレリーフを左手に見て、右側にある竜南健児の像が昔の気分を思い出せさます。中門を隔てて眼の前にこれも重要文化財である本館「五高記念館」が見えて来ます。このサイン・カーブの両側とも五高時代は植物園であって薬園由来の碑があります。

蕃滋園とは龍田山に近い建部の地に宝暦6年(1756)に開かれた七ケ所の薬草園の一つである中央薬園として経営された。開園当初の薬園は500坪余であったが、天明年間には1485坪余となり隆盛を見ている、藩主の来園も数回かあった、薬園の管理は藤井家が当り外来の薬草、薬木を始め、藩内で集められた種類も数多く植えられていた。明治の廃藩置県で廃園になって明治6年に作成された「蕃滋園植物目録」には829種が収められているとか?

またここ植物園には五高の漢文教授であった黒本植先生の「栽ゑておくかたみの小松色そへよ学びの園の文の林に」の碑文が、そのほか第五高等学校跡の碑もあります。  
サイン・カーブを通り記念館に到達すれば、右側の道路を通れば漱石の像と句碑が建っている。記念館の右側の建物はこれも重要文化財に指定されている通称階段教室と呼ばれる化学教室があって、記念館の裏に廻れば習学寮跡の碑も見られる

西側のグランドは「武夫原頭に草萌えてと」歌われている武夫原運動場です、南側の体育館の前には講道館柔道の創始者嘉納治五郎の碑が現代の若者を見守っています。かっての五高の敷地を隅から隅まで散策すれば昔の五高時代の歴史を窺い知れる事でしょう。一番北側奥に昭和6年に五高に天皇の行幸があったがこのときの行幸を記念して「行幸記念碑」が建っている。

これらの遺蹟のキャプションを読んでいくだけでも五高の歴史を知る手がかりになるのではなかろうか


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