五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

三代五高校長嘉納治五郎

2011-09-11 03:31:46 | 五高の歴史

 

嘉納校長の送別写真と開校五〇周年の色紙

嘉納治五郎は、万延元年(1860)10月28日兵庫県武庫郡御影町(現神戸市灘区)で生まれた。幼少の時から英才であり、13歳のとき父について上京し書道、英語等を学んだ。14歳で育英義塾へ入塾し、開成学校から明治10年(1877)帝国大学に入学、同14年(1881)卒業する。この帝国大入学当時、日本は文明開化の華やかなりし時代で、日本伝統の柔術が全く省みられなくなっていた。小さい時から柔術を学びたいと思っていた治五郎は、柔術の修業に励み、各流派の柔術を学び、その技術を習得し独自の「柔道」を確立した。
明治15年(1882)5月5日には「精力善用」「自他共栄」の言葉を掲げた講道館を創立した。同年には学習院の講師に、18年には教授になった。

勝海舟を訪問したとき、「しばらく学問に没頭しようか」と質問したところ、勝が、「学者になろうとするのか、それとも社会で事をなそうとするのか」と治五郎に尋ねたという。治五郎は「後者です。その為にしばらく必要な学問に集中しようと思います。」と答えると、勝は「それはいけない、それでは学者になってしまう。社会で事を成しつつ学問をなすべきだ」と忠告した。このことが治五郎の心を打ち、以来、嘉納は勝の言葉に従い、実地の事柄から物を考え、必要に応じて本を読むようにしたという。嘉納は、後にこの方法が、自分にとって最も効果が大きかったと述懐している。その後、宮内省御用掛、文部省参事官をも兼務する。

明治24年第五高等中学第三代校長として31歳での若さで着任した。明治24年10月11日の校長着任の様子について、「龍南古事記」から転載する。
11日新校長嘉納先生が着任された、われわれは中門から表正門へかけ参列して先生の来着を歓迎した。先生はあの横の広いような体格で、鉄柄の洋傘を引摺りながら、我々の前を通過された。最近ロシアから帰る船上で、大のロシア人をデッキの上にいやと云うほど投げつけて、而も頭を打たないように、手のはらで頭を支えられた、という勇猛な校長であるので、ハーン先生から九州シンプリンデーとよばれた我々は夢中で歓迎した。
 
第五高等中学校では、授業時間外は生徒の希望に応じ、柔術を練習し、道場には生徒控え所の40畳敷を修理してこれに充て、嘉納治五郎、肝属兼寛がこれに当った。弓術は従来から練習はしていたが、大雨で道場が破壊されたので再建し、団哲雄を師範として、撃剣は和田伝が指導し、スポーツ校長の下。一層盛んになった。
嘉納校長を迎えたことにより、第五高等中学校は武道興隆の気運が膨らんできた。記念館に展示している先生の「順道制勝行不害人」の書は、講道館柔道の極致を表現したもので、「逆らわずして勝つ」という精神を表したものである。

生徒たちには文武両道に秀でた人物として人望を集め、特にこの「逆らわずして勝つ」の説明に感嘆したラフカデイオ・ハーンは英文で「柔術」を著し、欧米に柔道を紹介した。五中では、柔道を奨励し「端邦館」をつくり、武道振興に貢献した一方、創設以来ばらばらで活動していた雑誌部、演説部、撃剣、柔道部、弓道部、戸外遊戯部の各部を纏めて一本化した五高龍南会を設立させた。後にはこの五高龍南会が学問において、スポーツにおいて、その五高隆盛を貫く「剛毅朴訥」の精神的支柱となった。
明治25年7月10日には第一回卒業式が行われた。その校長挨拶に、(記念資料館に資料保管)

第一 学問研究ノ目的ハ或ハ其真理ニアル或ハ其応用ニアリ今我国ノ現状ヨリ観察スレバ先ズ応用ヲ主トシ真理ノ探討ヲ後ニス可シ然レドモ若シ真理ノ探討ヲ為サント欲セバ其真理ヲ応用スルトキハ世ヲ益スルコト緊要且ツ鴻大ナルモノヲ先ニスベシ 

第二 大學ニ於イテ修ムル所ノ学業ハ唯自己畢生ノ業務ニ対スルノ準備ニ止マルモノナルヲ忘ル可カラズ故ニ目前ノ名誉等ヲ得ント欲シテ不急ノ事物ニ注目シ或ハ勤勉度ニ過ギテ遂ニ摂生ヲ忽ニスルガ如キコトアル勿レ

第三 大學ニ在ルノ間ハ所謂主一無適ヲ守リ心ヲ他事ニ寄せず以テ書生ノ活発ナル精神ヲ養ハザル可カラズ 

第四 大學ノ業ヲ卒ルノ日各自職業ヲ撰ブノ時ニ方リ能ク永遠確乎ノ目的ヲ立テ一時ノ名誉待遇等ニ心ヲ移シヲ転ズルコト勿レ

諸子ハ我校第一回ノ卒業生タルヲ以テ終リニ臨ミ特ニ一言セサルヲ得サルコトアリ近年九州ニ幾多ノ人材ヲ出シタルコトハ天下ノ尤モ許ス所ナリ抑モ此等ハ皆諸子スレバ先ズ応用ヲ主トシ真理ノ探討ヲ後ニス可シ然レドモ若シ真理ノ探討ヲ為サント欲セバ其真理ヲ応用スルトキハ世ヲ益スルコト緊要且ツ鴻大ナルモノヲ先ニスベシ

と述べた、日本の国情に即した何時の時代にも通じる教育の真理と教訓を含んでいる。

明治26年1月再び文部省参事官として本省に帰った。その後は第一高等中学校長兼文部省参事官や高等師範学校長を歴任したが、特に高等師範学校長として約20年間在職し、日本全国民を対象とする普通教育を考えた教育者教育の養成に励み、教育者に教育の楽しさを理解させ体認させることに努力した。
その後も貴族院議員等を歴任し、教育者として日本の教育行政を考えた。日本初のIOC委員となり第12回東京オリンピック大会の招致に成功したが、アメリカからの帰国の途中で昭和13年(1938)5月4日氷川丸船上で肺炎にかかり死去した。当年79歳であった。
嘉納治五郎の雅号については、60歳までは生誕地に因んで甲南と称し、60歳代では進呼斉、70歳代では帰一斉と称した。(五高記念館 東孝治記)



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