五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

二人の首相生まれる

2010-02-18 04:47:48 | 五高の歴史
               現在の武夫原・・熊本大学グラウンド

七高との野球試合、習学寮にチブス発生、二人の総理池田勇人、佐藤栄作、第13臨時教員養成所
五高野球部は明治20年の創立とともに活動を始めたこのことは先に紹介したが、これと言った活躍の歴史は残っていない、しかし明治38年の師走七高の有志から野球試合の挑戦状が届き翌年の39年正月武夫原でこれを迎え撃ったが14対4で大敗した。これが七高との野球戦の始まりといわれでその後この対抗戦は数年間続いた。
この間に日本は日清・日露戦争を経て国際社会に進出し欧米の文化思想の流入等で日本を取巻く国際環境は大きく変って行った。五高生の周辺も大きく様変わりして色々の思想がぶつかり合った。特に大正2年2月の真冬に習学寮内で発生したチブスでは生徒10人が死亡してしまったこと4月には習学寮の伝染病は収まったので慰霊祭を開催している。しかし10月には再びパラチブス患者、赤痢患者が続出したので、ついには責任を取った松浦寅三郎校長は依願退官した。学校側は臨時休校を行い寮生の外出禁止、習学寮の閉鎖に踏み切った。更には学校側は習学寮建物の解体処分を行い習学寮の存続さえあやぶれたが、大正4年~5年には相次いで移築したり改築したりして新習学寮を再建設し面目を一新した。
大正8年には七高との野球戦も復活し県民を沸かせた。大正15年の対抗戦で寮歌武夫原頭の歌をめぐって、鹿児島七高応援団が「武夫原頭に糞たれて、花岡山に駆け上り枯れ草取っておし拭い・・・・」と囃したので両応援団同士の乱闘事件にまで発展した。ついには以後中止のやむなきに至った。この年の五高野球部は黄金時代で全国高専野球大会においてエース高橋一(後の輸出銀行総裁)や後の朝日新聞社の社長になった主将廣岡知男等の活躍で、延長19回1対0で明大専門部を破り優勝を飾っている。スポーツの盛んな五高は昭和10年にはボート部が11年には水泳部が全国制覇を成している。
大正時代の卒業生には大臣経験者が多く大正10年卒業の佐藤栄作、大正11年卒業の池田勇人の2人の総理大臣を筆頭として挙げれば枚挙にいとまがない。
第1次大戦後の大正中期から後期にかけてデモクラシーの思想が日本を風靡した。学内でも吉野作造の喧伝、河上肇の貧乏物語を生徒たちは愛読した。国内では河上肇の社会問題研究の創刊を見るに及び、9年には第1回のメーデーの開催、11年には日本共産党の創立があったので、そのため龍南健児の周囲もめまぐるしい環境の変化が起こった。学内においては大正11年5月には後藤寿夫(林房雄)・鶴和人・松延七郎等々を中心に左翼的な思想の社会科学研究会(社研)が生まれ郡築小作争議をも支援している。すぐ政府は全国の各高等学校の左翼思想の弾圧に乗り出した。しかし五高の社研は溝渕校長の命により大正13年11月2日の文部大臣の全国高校車検解散命令に先立ち解散させられた。その後の五高社研は非合法に活動し大正15年の市電争議にも参加した。左翼思想の勃興と共に右翼的の思想の台頭もあった。徳富蘇峰や中野正剛等の国家主義精神を受け継ぐ五高東光会が生まれ、江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄・園佛末吉等々で立田山の中腹、龍田山荘を本拠地に生まれた。五高東光会はその精神が国の政策と合致したためか当局から睨まれることもなかったので昭和25年の閉校まで存続した。


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