五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

さわやか大学・大学院講座

2015-03-15 05:37:26 | さわやか大学関係
熊本県立大学①

熊本県立大学②

熊本県立大学③

熊本県立大学大ホールでさわやか大学院講座が開催された。講師は県立大理事長の五百旗真氏であった。以下に話のメモを取ったのでそれを整理してみたい。標題は「日本の安全保障」約2時間を超える話で堪能させられた。当人は神戸大震災時に神戸大学勤務、市民6千人の死者のためシンクタンクを設立、それは市民を災害から守り災害と戦をせずに済ますためである。
日本の存亡に関することは蒙古襲来とS20年の米軍の空爆である。その昔の元の襲来はそれまで宋の存在があったが、南宋は水軍を持っていた。これは揚子江の渡河することを防いだが、海軍によって国を守るレベルで南宋を亡ぼした。蒙古襲来は小説井上靖の風當に詳しい、国際周辺の中の小国の運命は? 個人の姿から国家民衆を主人公にしている。高麗はその軍門に下ったのである。4万の大軍で朝鮮が滅び、元はフビライ時代に元寇として2万7~8千人が博多湾に襲来した。執権北条時宗は九州の勢力で対応せよと布告した。蒙古軍優勢で博多湾に上陸した。日本側はその武器の強さに驚いた。日本側は弓矢の対抗で蒙古軍は上空で破裂する大砲を持っていた。

戦法の差で馬は驚き走り去りドラムの音、太鼓の音に馬はビビってしまった。日本国の武士・家臣団はその集団に圧倒され大宰府まで押し込まれた。ありがたい事には台風が来る季節で水機あたりまで後退した。蒙古は無理せずに引き上げる。11月の下旬になり北西の季節風は吹く季節になり4万の高麗軍は翻弄され博多湾の島に難破船が打ち上げられた。

2回目の襲来に備えた日本側は防備を整えたが、7年後揚子江水軍は14万の大軍で襲来した。水軍の専門家多く、農機具など持参していたことは上陸して定住する心構えで来襲していた。日本側は20キロにわたる防塁を設け水中の槍等までを設置し防御を固めている。時に執権時宗は18歳で南宋からの使節は5~6回に及んでいる。何度来ても回答はしなく2回目には外国の公使を切っている。野蛮さをあらわして挑発している。マルコポーロが東方見聞録を表した時代で日本は黄金の国と言われていた、日本と中国の金交換率は1対5、から1対13になっていたので日本は黄金の国であるというイメージを植え付けてしまった。
 
フビライの大軍は14万の兵で来襲は6月の中旬で朝鮮軍は全国に動員をかけて、総合的戦略計画によって鷹島の入り江を集結地にしている。島影で南側に3~4千艘を一ヶ月近く過ごしているので松浦党が大防波堤になり大きな船に対してゲリラ戦を行っている。六月から八月の季節は台風の季節である。屋久杉の年輪で950ヘストパスカルを見ることが出来る。14万の大軍は帰国したのは3万5千人に減ってしまっていた。北条時宗は相手方の領土拡大に一方的に襲撃されたので神風神話が生まれたもので、こっちから悪さをしなくても相手方から悪さをされたのである。

昭和二十年の場合はこちらの都合で悪さをしている。モスクワ公国から広く膨張を続けるロシアは領土をアラスカまで拡げ、シベリアて鉄道の敷設太平洋へ進出のため不凍港の設置、黒海の方へはクリミア戦争でトルコ、インド、アフガニスタン等を植民地として拡げている。その上極東の旅順を確保した。当時の山形有朋の意見書は日本の安全圏は、戦略的重要地頭上に刃が立てられたようで日本の委任は朝鮮半島の中立、日露間の静かな勝利、現場をに於ける力を持っている者は素通りした。当時中国は新しい軍艦深遠を建造していた

政府はロシアには伊藤博文を派遣して日英同盟を締結、中国には小村寿太郎を派遣した。田中義一内閣ではロシアの太平洋への出口を抑えることでイギリスが困るように恒久の日英同盟を促進している。イギリスの栄光ある孤立を脱却するように、日清、日露戦役では旗艦バルチイク艦隊を打倒している。日本海海戦、長春会戦、奉天会戦、ここに欧州列強と肩を並べる新興国日本の意気が見えたものである。日露戦役では国として下からはロシア側の有利で2万の犠牲者を出している。

相手方に対し自分の方が敗けたと思ったらそれで終わりである。奉天の会戦では日本の力はなかった。ポーツマス条約での勝利は出来すぎた勝利である。ロシア革命が起こり日本陸軍までが勝ってきた等々で日本は欧州情勢を甘く見ていた。それ故30年代日本は対21ヶ条を付きつけている、日本は一遇千来のチャンスと捉えその辺の発達条件を21ヶ状条の要求を世界に発信、宣伝している。かってのヨーロッパ列強が領土拡大に走ったように日本は満州事変、支那事変そして日中戦争へと領土拡大を図っている。経済的私権軍事的対華21条要求は世界に発信されABC包囲網に会うようになってしまった。ヨーロッパ列強とアメリカの介入はヨーロッパの開国選択は、アジア問題解決、力に依ってのABC包囲網・・・・・

黒田官兵衛の見よ奇形で勝・戦国の戦いでも兵力に差があるときには、決戦の前に降りて来る。毛利の戦法、秀吉の宮使い兵糧攻め、しかしすべて降りて来たものに対しては寛大に取り扱っている。第2次大戦の日本は勝っても勝っても攻め続け昭和20年をむかえ、そして敗戦を迎えたのである。

昭和20年のマンハッタン計画での原爆投下では5月の投下予定、ターゲットは京都、広島、横浜、新潟であり横浜は大空襲に合っている。新潟は海岸沿いで効果が薄い、5月28日フォーブス准将は京都が84%で地形的に効果がある、技術的に良い、軍事生産の地であると言明している。しかし知識人の間では京都は日本人の心の故郷で日本人は衝撃を受けるだろう。千年の都京都が戦争の和解が出来てから国務長官へフォーブス准将の橋渡しでポツダム会談、スチームソンの外交、軍事の英知ポツダムへ同行している。見るだけの文書からペット・アイズオンリー・・原爆の実験、爆発は予想を上回っている。スチームソンはトールマン大統領に携わっている。そうでなければ日本はロシアの胞胚の中に包括されていた可能性がある。     以上

最新の画像もっと見る

コメントを投稿