五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城の特徴(2)

2011-07-27 03:49:37 | 熊本城を散策する

 大天守展望台より西側を望む画面をアクセスすれば大きくなります


 太鼓櫓現在は修復のため取り壊されている画面をアクセスすれば大きくなります


以下は昨日の続きで北野教授の講演会のメモより

大天守だけの図面は山口公立文書館に図面あって、この時代までは藩主の城は本城と支城があって、肥後では元和元年の一国一城令が出てから支城である南関城、宇土城、佐敷城、水俣城、矢部城が取り毀しにあっている。全国このような状態でこのため慶長2年から21年にかけて中国地方の支配者毛利元就がどうすればいいかこの対策のため九州地方を探偵させている。この探偵者は京町の籐兵衛宅に泊まって熊本城の図面を写したものと思われ、この図面から見えることは本来大天守だけで小天守は慶長17年までなかったということである。宇土櫓も天守は小天守だけで小天守はなかった。

九州偵察に来たのは慶長17年であるので、宇土城、水俣城、矢部城などは1612年には既に取毀しされている。その時宇土城を持ってきたのが小天守になっているのである。慶長12年に大天守、慶長17年に宇土城を持ってきた。支城は関が原の戦い以後で宇土城は既に加藤の宇土城になっていた。清正の隠居城を作る目的であった。慶長12年頃の小西の城の上に加藤の城を造っている。大天守の建築は慶長12年で小天守の石垣は慶長17年のものである。寛永9年(1632)宇土櫓移転のため幕府に寛永11年に許可願いを出している。宇土櫓の位置が全然違う、宇土櫓が描かれているのは数寄屋丸とおなじ位置で、石垣の所からは向こうの石垣の所に宇土櫓があった。石垣、犬走りから言えることは多分細川の時寛永2年6月11日には熊本には大地震がおそっている。たぶんその時壊れたので修理したのか、この時焔硝倉が暴発して城内の50人が死亡している。・・・続きは明日へ


解説熊本城跡

熊本市の中央茶臼山の丘陵地帯に、加藤清正によって築城された近世の平城。
茶臼山は熊本平野に突出する京町台地の末端を占め東高、西低の地形をなす。
本丸を丘陵東部の最高地点(標高49メーター)に置き、二の丸・三の丸と西下して藤崎台下段(標高20メーター)の最西部を終点とする。
「熊本市飽託郡誌」には東西約十三町、南北十八町とある。東部に孤立して千葉城跡(標高21メーター)西南部に隈本古城跡がある。

城の東・南側の断崖に沿って坪井川が流れ内堀の役目を果たす。更に町人街、武家屋敷を挟んでその東南を白川が巡り外堀の代用になっている。西は井芹川により花岡山と隔てられている。坪井川は築城以前は今の厩橋付近から下通一丁目をとおり新市街付近を通って白川に注いでいたが、流路を茶臼山南麓沿いに変更され、西南北岡付近で井芹川と合流するようになった。北の京町台との間は地峡で堀切られ一筋の隘路だけでつながる。西南は深堀が巡らされている。
白川・坪井川・井芹川の三川を巧みにあしらった地形利用の典型的な近世の平城である。


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