五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城の特徴(3)

2011-07-28 03:53:19 | 熊本城を散策する

熊本城の石垣の様子 即ち石垣は継ぎ足したもので櫓の隅の所、内側の所と隅のところで模様が違っている。「古外様櫓」と呼ばれている。宇土という名前をあつめ小西の家臣達を城内に集めたものである。此は寛永2年以降から9年以前のことであり、古材を使っている。古材を使ったと思われる平左衛門丸がありこれは三井寺と同時代のものと同じであるので、慶長5年頃の建築と思われる。 宇土櫓も慶長5年くらいであろう。熊本城の天守を作ったという記録は、黒田が薩摩征伐に慶長5年にあり、慶長12年に、清正は大広間について15年に備州から熊本へ絵描きを送っていいと言うようなことを言っている。名古屋城の築城の手伝いに行っている。しかし名古屋城は慶長15年に造られているが清正は既に死亡している筈であり。これは加藤忠広の時代である。そして女山と男山を一帯化して隈本を熊本に改名している。 創建の熊本城からみれば復原工事は模写である。如何に模して造っても模型である。それは石垣は本物で建物は模型であると考えるべきである。文化財の価値というものの判断は?2様の石垣は加藤の時代と細川の時代の作である。 熊本城の石垣について荻生狙來は「石垣は加藤清正の一流あり、飯田覚兵衛、三宅角左衛門の両角をして石垣の名人・・・と言っている。熊本城ののり面とそり面、武者返しの石垣、穴太衆の「石垣秘伝の書」三井寺と同じで穴太衆は穴太村から穴太石工が各藩のお城築城に参加している。以上がメモしている主なるものである。、今日の場合最初の挨拶で新資料を持ってきたと言うことであり内容については意味が理解出来なかったところがあった。山口文書館の資料についての説明は何時の日であったか聞いたことがあったが、今回はその時より自分の不勉強も手伝い意味が理解が出来なかった。 おわり



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