五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

端艇部長時代の夏目漱石エピソード

2011-09-09 17:15:10 | 五高の歴史

夏目君が自己の責任を重んずることは終始一貫して,度々感心したことがある。君が五高に赴任早々龍南会の端艇部長に選ばれて、其の部長になった。其の部下には今法学士で郷里の佐賀で銀行か会社かの重役をして居る、吉田久太郎と言う名物男が端艇部の牛耳を執っていた。此の男力飽くまで強く,大抵の宮角力など之に勝物はなかった。加えるに儀気に富み、強気を挫き弱気を助ける底の美性を備えて居たから、多くの生徒から愛されて居た。之と同時に又自己の忌み嫌うものを、力に任せて苛石したものだから、一部の同窓生からは蛇蝎の如く嫌われ、また職員からは之が為に度々煩を掛けられるので、乱暴者として厭われて居た。

是より先、日露戦役の志士たりし沖偵介が在学して居た時,沖も亦地から強く、柔道も達者で生徒中所謂幅を利かして居たものだが、久太郎は自己の腕力が彼よりも優れるものと信じ,且つ沖の鼻を挫かんとした為でもあろう。或る日校庭で沖に喧嘩を仕掛けて取っ組合いを始めたが、久太郎は当時柔道をしらざりし為,忽ち投げ倒されて、其上沖より下駄で頭顔の差別なく撃たれて血だらけとなり、散々な負け方であった。久太郎は之を非常に残念がり,全く自分が柔道を知らなかった為め敗戦を取ったのだとて、其日より熊本市の柔道師範星野九門しの門に入りて、懸命に其の道を励んで居たが、沖はその後まもなく退学して仕舞った。

今端艇部はこんな部員を持っていたから、永く無事である筈がない。其の頃日進戦争にて分捕したる大形のボート二艙を記念として海軍省から五高へ下げ渡さるることとなった。後日これ等の端艇を大連・旅順と称して、永く保管に持て余した。この二艙を引き取るために龍南会より端艇部員数名を佐世保に派遣して、自ら廻航せしむることとして、久太郎を宰領とした。而して船は無事に着したが、数日の後久太郎が余を訪れて頗る面目なさそうな様子で、先生に御願があると切り出して、こう言った。

廻航の任務中往途は無事であったが、岐路に此祈念船の修繕を加える為に某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払いの外に、百円足らず使い込んで仕舞い,如何に後悔するも仕方なし、また弁償の道も立たないから、どうか救って呉れらるる方法はないかと。余は厳しく其不都合を諭した末、夏目君は昨今赴任した人で、累を同君に及ぼすには忍びないから、余等の仲間で弁償も出来様から、職員中これこれの人々を歴訪して哀願して見るがいいと話して、余はまず三円許彼に渡した。其の後これ等部員は、部長に秘して、指示したる職員を歴訪したが、久太郎が平素職員間に人望がなかりし為、皆ははね付けて取り合わなかった。余も亦学校でこれ等の人々に代って説いて見たが、なかなか承知しない。

然るに夏目君が程なく此事を漏れ聞きて、直に全額を償い、同時に部長を辞して仕舞った。赴任早々である上に、当時薄給に衣食しながら、寝耳に水の災難を、一言の愚痴も言わず,綺麗にさばいて仕舞った。責任を重んずる点と思い切りのよい例は、同君として此外にも多々あったが、一寸常人と異なっていた。


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