昭和30年代、私の小学生の頃の夏休みってとっても楽しかったです。
7月20日に通信簿をもらって、親からお目玉をもらいますが神妙に頭を下げていれば、小言は頭の上を通りすぎて言ったものだ。
その後にまっているものは、プールは毎日入れるし夕方遅くまで友達と遊んでいられる。ひなが1日近所の公園やお寺の境内、都立大学の校庭など、真っ黒になって戸外で遊んでいました。
特に地域班がお寺の境内で行う肝試し大会や花火大会、遠足のような事もしてましたね。これらのお楽しみがまっているものでした。
この地域班でいろいろと独自の行事をしていました。
地域班というのは私達の所の独特の制度だったのだろうか?
近所に住む6年生が班長になり5年生以下が班員となっていたっけ。班長は威張っていたけれど責任も持たされていました。団体行動中に班員が事故などを起こさないように注意していましたっけ。
また、大きな行事をする時は6年生の父兄が手伝ってくれました。そのようにして近隣住民も子供を通して親しくなっていきました。
そんな中でも最大の楽しみは、母に連れて行ってもらった帰省でした。山ひとつない関東平野のど真ん中の茨城県ですから暑いのは東京と同じですが、1年に1度しか会えない従兄たちが連れて行ってくれる近所での遊び。ドジョウ取りやフナつり、そして近所の畑に忍び込んでするスイカ泥棒、都会では絶対に味はえないスリルとサスペンス。(笑)
今の子供達では味わえない楽しい思い出ばかりでした。
7月20日に通信簿をもらって、親からお目玉をもらいますが神妙に頭を下げていれば、小言は頭の上を通りすぎて言ったものだ。
その後にまっているものは、プールは毎日入れるし夕方遅くまで友達と遊んでいられる。ひなが1日近所の公園やお寺の境内、都立大学の校庭など、真っ黒になって戸外で遊んでいました。
特に地域班がお寺の境内で行う肝試し大会や花火大会、遠足のような事もしてましたね。これらのお楽しみがまっているものでした。
この地域班でいろいろと独自の行事をしていました。
地域班というのは私達の所の独特の制度だったのだろうか?
近所に住む6年生が班長になり5年生以下が班員となっていたっけ。班長は威張っていたけれど責任も持たされていました。団体行動中に班員が事故などを起こさないように注意していましたっけ。
また、大きな行事をする時は6年生の父兄が手伝ってくれました。そのようにして近隣住民も子供を通して親しくなっていきました。
そんな中でも最大の楽しみは、母に連れて行ってもらった帰省でした。山ひとつない関東平野のど真ん中の茨城県ですから暑いのは東京と同じですが、1年に1度しか会えない従兄たちが連れて行ってくれる近所での遊び。ドジョウ取りやフナつり、そして近所の畑に忍び込んでするスイカ泥棒、都会では絶対に味はえないスリルとサスペンス。(笑)
今の子供達では味わえない楽しい思い出ばかりでした。