聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 突風を静める

2007年08月15日 | 新約聖書日記
◆突風を静める
『 4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。』
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書)

新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて
『舟を襲う風は単なる自然現象ではない。
「激しい突風」は「風の大きな吹きつけ」、おそらく竜巻状の風であり、「舟は波をかぶって、、、」よりも「大波(複数)が舟の中に覆い被さってきて、舟は既に(水で)溢れた」である。ヨナ1・4以下を想起させる。
しかしヨナと同じようにイエスは船尾で寝ていた。弟子たちは、自分たちが「おぼれる」でなく、「滅びる」恐怖に取りつかれて、イエスを起こす。
イエスは自然の脅威を圧倒する力を持つ人として行動する。
彼が叱ると、嵐は過ぎ去り、「すっかり凪に、、、」、むしろ「大きな静けさが生じた。
喝采の叫びが続くべき所に、イエスの叱責が来る。「なぜ怖がるのか」。
「臆病、気弱な」を意味する語である。
「なぜ」の問いは、その臆病の根源を照らし出す。
第二の「まだ信じないのか」の問いは、彼への信仰、むしろ信頼の欠如を一方で明らかにしつつ、他方で、早く信頼を確立するように弟子たちを促している。
次の弟子の言葉は、喝采よりも恐怖の叫びであり、40節の後に置かれて、今や、嵐以上にイエスに対して恐怖している。
「恐怖」の原語は「逃げる」に通じ、逃げ出さんばかりの恐怖である。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのイエスさまの言葉が身に染みます。
イエスさまへの信頼が未だに足りない自分をなさけなく思います。
いろんなことに自分だけで頑張ると必ず重荷を負いきれなくなり、
神さまのことイエスさまのことを、信じきれてない自分に気がつきます。
すべてのことを見ておられ知っておられ必ずそばに居てくださることを、信じ、
恐れることなく神を待つこと、前に進むことができますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


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