聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記 9章 ユダヤ人の復讐・プリムは運命の祭り その2

2009年04月25日 | 旧約聖書日記
つづき

旧約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて。
『★ユダヤ人の復讐
1~12は、アダルの月の13日、すなわちハマンとモルデカイが書かせた二つの勅令が同時に施行された日の出来事を告げる。
どの民族、諸州の役人らもユダヤ人の味方になって、情勢は圧倒的にユダヤ人に有利であった。
2節の「ユダヤ人に立ち向かう者は一人もいなかった」という言説と、5~6節の「ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し・・・」という言説は明らかに矛盾しているが、
要するにそれほどモルデカイの名声・権力は絶大のものであったということを言おうとしているのであろう。
「持ち物には手をつけなかった」と、自衛のための戦いであって略奪が目的でないことが三度も繰り返されている。
13、しかしエステルはこれで満足しなかった。スサで「明日もまた今日の勅令を行えるように」、さらに見せしめのために「ハマンの息子十人を木に」つるすように王に願い出る。
これはもはや自衛や同態報復法の範囲を超えることであるが、王は「一日だけ」と定めた法を曲げてそれを許可する。
エステルの非情とも思えるこの願いは、首都スサにいる反ユダヤ主義者を完全に一掃するまで平安を得ないという被征服民の置かれた状況を物語っていよう。
17~19、テキストは、殺戮の凄惨さを引きずることなく、すぐさま戦いを終えたユダヤ人が「祝宴と喜びの日とした」様子を描く。
その際、地方に散在して住むユダヤ人は十四日を祝いの日としたが、スサのユダヤ人は十四日も戦いが続いたので翌十五日を祝いの日と定めた。

★プリムは運命の祭り
20~23、スサと地方の祝日のずれを調整するために、モルデカイは文書を送ってこれを統一し、毎年アダルの月の十四日と十五日の両日を祝祭日として制定した。
24~28、ハマンの謀略を要約してプリム祭の起源を示す。
「プル」の複数形が「プリム」で、くじは一つだが祝われる日が複数なのでプリムとなったらしい。
32でも、プリム祭りに関する事項が「エステルの言葉によって・・・定められ・・・記録された」と駄目押しされるが、
このようにプリム祭の制定が繰り返し強調されるのは、エステル記が書かれた頃はまだこの祭りが十分にユダヤ人の中に受容されておらず、これに抵抗する者もあったからであろう。』


旧約聖書注解、新聖書講解シリーズ、に、つづく。