聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

百万人の福音 7月号

2006年06月30日 | 本の感想
「百万人の福音 7月号」いのちのことば社

なんせ、わたしも40代なもんですから、
この本の中の新連載
”秋に見つけたまわり径 40代からの新しい出発 リン・バーブ著」が、
とっても興味深いです。
早く、次の号が読みたいです(o^^o)ほんとに!

マルコ福音書 安息日に麦の穂を摘む

2006年06月03日 | 新約聖書日記
◆安息日に麦の穂を摘む
『 2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、
「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。
「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書より)

新約聖書略解 日本基督教団出版局を、まとめて
『安息日は元来、奴隷や家畜にも休息を与える日だった。
しかし、捕囚後、安息日を知る唯一の民として、安息日を神との契約の印とし、それを汚す者は殺されると言われ始める。

ファリサイ派が「・・・安息日にしてはならないことをするのか」と問う。
「してはならない」は、律法に即して「許されている、いない」を言うもので、26節、3・4でも登場する。
生死に関わる鋭さを持つ問いである。

イエスはまずサムエル記上21・1以下の、ダビデが緊急時に行った律法に反する行動を引いて反論する。
種々、サムエル記の記述と異なるところのある再現だが、ダビデを一貫して主語として、大胆な違反行為に仕上げている。
それは既にイエスの律法に対する、ダビデを上回る自由を示唆する。

次の応答は、「安息日は、人の為に定められた。人が安息日のためにあるのではない」である。
創造における神の根本意志は「人間のため」であり、文章の後半は、宗教規則が人間を不合理に拘束することを否定する。
神の支配は、人間を拘束せず、むしろ解放する。
最後の言葉は、最初の応答との関連で、ダビデに勝るイエスの自由と主権の主張といえる。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神さまの愛からの律法が、人によって間違った解釈をされたり、人の罪によって、人を拘束し苦しめるものになってしまったことを悲しみます。
イエスさまの教えによって、
神さまの本来の愛を気づかせてくださったこと感謝します。
拘束ではなく自由を与えてくださる、神さまの愛をおもいます。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン