聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記4章 モルデカイ、エステルを説得する その2

2007年11月01日 | 旧約聖書日記
つづき

新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 を、まとめて
『エステル記のクライマックスともいえる4章の中から、3つのことを学んでみたい。
エステル記全体のテーマは、神の摂理である。
神は確かに、人間の思いや願いを越えたところにおいてその摂理の御手を動かされる。
だから、われらの神は人間の祈りの範囲の中だけで行動される神では決して無い。
しかし、同時に御自分のみわざの遂行のために神はご自身の器を必要とされ、その器の協力を求められることもまた事実である。
本章において、モルデカイもエステルも、ひいてはシュシャンのユダヤ人同胞も、一人残らず神のみわざの遂行のために動員されている。

本章において教えられる第一のことは、モルデカイに見る生ける神に対する信仰である。
まず「神の御約束に立つ信仰」である。その約束の中心は、ユダヤ人の中から全人類の救い主、メシヤが出現することであった。
モルデカイが、この信仰に立っていたことは疑う余地がない。
たとえ他のいかなる民族が滅びても、ご自身の御約束の真実にかけて神は選びの民を必ず守り、助け、救われる。これがモルデカイの神の約束に対する信仰であった。
そして「神の摂理に立つ信仰」である。摂理の神は御自身のみわざを進めるために摂理の道具としての器を用いられる。その神の摂理をモルデカイはここで強くエステルに意識させている。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」のみことばの中にモルデカイの「摂理信仰」が脈動している。
そして「神の召命に立つ信仰」である。神の召命に具体的に応答する信仰である。
神のしもべがもし神の召命から離れるなら、それは死に等しい。
たとえ人が神の召命に従わないことがあっても、神は「別の所から」助けと救いを起こされる。
神のしもべは使命があるうちは、絶対に死なない。死ぬ時は、使命が終った時である。神のしもべが使命に生きるとき、その人はすでに死を克服し、解決したことになる。

本章において、第二に教えられることは、エステルに見る神への全き明け渡しについてである。
「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」。このみことばは、エステル記のゴールデン・テキストであろう。
エステル記といえば、この一句、この句といえばエステル記といわれるほどに、有名中の有名なみことばである。
エステルのたましいがここに導かれるまでに、どれだけの祈りがあり沈思黙考があっただろうか。
いわばエステルは、ここでたましいのゲッセマネを通過したことになる。
「われも死ぬべくば死ぬべし」の「べくば」は、「死ぬことがみこころならば」の意味であろう。
だからそれは、「私は死にます」という人間的な決意や判断ではない。その死さえも神の御手にゆだねて、みこころならばと自らを明け渡したのである。
神の摂理の御手の中に、すなわち神の意志と計画の中に無条件に自分自身を投げ出してしまう。
これこそが真の献身者なのである。換言すれば、そこにエステルの「己の死」があった。
キリストの十字架の上で、キリストと共に「我」も死んでいると信じているたましいは、神の御旨に対してこのような態度をとることができる。
実は「古き人」が死んでいるということは、単に怒らず争わず憤らずといった対人関係、つまり道徳問題ではなく、それは神の御旨に対する自分の意志の屈服という対神関係、つまり宗教問題なのである。
聖書中、そのスピリットの典型は、救い主の母たるマリヤのそれであった。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように」、このマリヤの言葉はエステルの言う「わたしは死ななければならないのでしたら、死にます」と全く軌を一にしよう。

最後に本章におけるもう一つの教訓は、神の民のとりなしの祈りについてである。
「死ななければならないのでしたら」と死さえも御手にゆだねつつも、エステルはこの一事の成功のためにシュシャンの全同胞にとりなしの祈りを依頼した。
三日間飲まず食わずの真剣勝負である。むろん、エステルも侍女たちも共に断食して祈った。モルデカイも同様であった。
この時点で神の前における働き人はもはやモルデカイやエステルといった特定の器たちだけではなく、すべての神の民がそれに加えられたのである。
神の民は一人残らず、とりなしの祈りのために召された。
祈りが炎のたばとなって天の御座に達し、全能者の御手を動かしたことだろう。
しかし、神はまた、無数の名も無き聖徒たちの心を合わせたとりなしの祈りにもよく耳を傾けられる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
いつも父とわたしとマルを守ってくださって感謝です。
これからも弱いわたしたちをお導きください。
どうか、信仰が与えられますように。
「われも死ぬべくば死ぬべし」と言える信仰が与えられますように。
祈り求める心をもお与えください。
神の摂理を信じきれますように。神の使命を果たせるものでありますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


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