聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 「成長する種」のたとえ・「からし種」のたとえ

2006年10月30日 | 新約聖書日記
【◆「成長する種」のたとえ
4:26 また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

◆「からし種」のたとえ
4:30 更に、イエスは言われた。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。
土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書より)


新約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて
『再び群衆に向けられた神の国のたとえである。
「種」は単数の語に定冠詞が付されており、特定の一つの種が考えられている。
(神の国の)種を蒔く人は、どのようにか(その仕組み)を知らないが、種は芽を出し、成長するようなものである。知らなくとも、彼は安心して寝起きして待つことができる。
28節は、「ひとりでに」、むしろ「自動的に」で始まる。
彼が安心して待てるのは、彼は仕組みを知らないが、大地が自動的に草のように柔らかい茎、次に穂、そして一杯の麦の順で、「実ができる」からである。
29節後半は、終末完成時、つまり神の国が力をもって来るときの姿を表す。

31~32節、神の国の象徴としてからし種が選ばれる。
理由は、種としての小ささと成長したときの大きさの対比の激しさである。
種は、黒からしの場合は直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラム、白からしは約2倍で、
成長すると1.5メートル~3メートルになるという。
「空の鳥」など、全民族的契機を秘める。
このたとえによって、イエスの宣教と共に始まった神の国は些細なものに見えても、最後には驚くべき大きな完成を見ることが告げられる。
三つの種をめぐるたとえは、共に確実な種の成長と収穫の到来を告げ、その中に「神の国の秘密」を内包している。
問題は、イエスの宣教の中で始まっている神の国への応答である。』


「イエスのたとえ話講解・マルコ 佐藤陽二著 聖文舎」をまとめて
『たいせつなのは、どのような種をまくかということになる。
その種の内容は、信仰という場合に、まず神が第一になっていることである。
次に、イエス・キリストの十字架による罪の赦しの福音が、中心になっていなければならない。
さらに、死よりの復活の信仰がその種の中に入っていることが必要である。
以上の三つを含んでいる種が良い種である。
そして、このような種を蒔いていれば、どのように困難に見える種まきであっても、必ず実を結ぶようになる。
神が人の思いを越えて育ててくださるからである。

個人の信仰生活も、教会の歩みも、最初は、からし種のように、どんなに小さくてもよい。
生きた信仰であればよい。
もし、それが神の支配の中にあって始められたものであるならば、必ず成長して多くの人々を宿すようになる。
初め、その人は何の力も持ち物もない人かもしれない。
また聖書のただ一句に励まされ、またその一言の聖書を信じて動き出した小さな歩みかもしれない。
その小さいことのゆえに、また力もないゆえに、人々は見向きもしなければ、頼りにもしないであろう。
しかしその人への神の支配は大きく働き、「おのずから」成長し、人々が「宿るほどになる」のである。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
小さな者であるわたしの、小さな小さな信仰が、
神の御手によって導かれ、育てられ、神の支配による働きができる者になりますように。
悩み、迷いの多いわたしですが、
どうか、このわたしを担って導いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


マルコ福音書 「ともし火」と「秤」のたとえ

2006年10月24日 | 新約聖書日記
◆「ともし火」と「秤」のたとえ
『 4:21 また、イエスは言われた。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」』
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書)

新約聖書略解をまとめて
【譬えでなく、別々の格言的言葉だが、並列により、明白な言明が生まれている。
21節・第一の言葉は、「ランプが来る」目的は、「燭台の上に」置かれて、一切を照らしだすためであるという。
「来る」は終末完成時の、審判者の到来を想起させる。
22節・第二は、「隠されているもの」「秘されているもの」が明るみに出る日が来ることを告げる。
23節・第三の「聞く」が支配的な文脈の中で、最初の二つの言葉に警句としての性格を付与する。

24節の一連の言葉は、その理由を明らかにする。
第一の「注意せよ」は、続く二つの言葉を「聞く」「あなたがた」との関連におく。
第二の秤・物差しを表す3つの語で構成された言葉は、
御言葉を聞く一人一人の判断に、将来(ランプが来る日の審判)がかかっていることを告げる。
しかも各自の判断に従って「増し加えられる」。
第三の言葉はその結果を表す。
「与えられる」者と「取り上げられる」者の分化の告知である。】


お祈りしますm(_ _)m
御言葉を聞き(礼拝の説教を聞き・聖書を読み)、そして神の国を理解することができますように。
神の国(神の支配)は、隠されているようで、はっきりと現れることを思います。
より理解できるよう、お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


マルコ福音書 「種を蒔く人」のたとえの説明

2006年10月11日 | 新約聖書日記
【◆「種を蒔く人」のたとえの説明
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。
そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、
御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」】
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書)


新約聖書略解をまとめて
【彼の周りの者と十二人には、13節以下で、叱責と共に説明が与えられる。
説明は、宣教する教会の失敗の多い経験から施された寓喩的解釈である。
「種」が「御言葉」とされ、種を受け取った各場所が、御言葉を受容する幾つかの人の型として説明される。
その一つずつに「聞く」が登場し、4・3、9、12節の「聞く」仕方による「分化」の促進という事柄がここでも明らかとなる。
元の譬えにあった単数・複数の関係は失われ、御言葉を受け取る全部が複数形となる。
これによって四分の三が失われる。教会の経験の反映だろう。
しかし残りは御言葉を「聞く」「受け入れる」、そして「実を結ぶ」。
この単に「聞く」に留まらないのが、今の文脈で「外の者」との決定的な相違となっている。】


少し前の礼拝の説教の中に、
「伝道で多くの人を得ることができなかったと皆ががっかりしていたけれど、
そのときのたった一人の御言葉を受け入れた子が、のちの大きな仕事をすることになる牧師になった人だった」というお話があったと思います。
御言葉を受け入れた人の数の多い少ないではなく、伝道する人間の力や思わくでもなく、
すべては神さまが、ご自身の御言葉によって、人を導かれるのだということを思わされます。
お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
御言葉を聞いて(礼拝の説教を聞いて・聖書を読んで)、受け入れることができますように。
小さいながらも実を結ぶことができるものとしてくださいますように。
イエスさまに従うことができますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マルコ福音書 「種を蒔く人」のたとえ・たとえを用いて話す理由

2006年10月10日 | 新約聖書日記
【◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

◆たとえを用いて話す理由
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。」】
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書)

新約聖書略解をまとめて
【譬えの本体は3、9節の「聞け」で囲まれ、さらに「聞く」の動機が10~25節、33節で登場し、この場面全体を支配する。
たとえの描く具体的な事柄を通して、それが指し示す真の事柄―神の国の秘密―を理解し、信仰的決断をもって応答することにすべてが関わっているからだ。

第一のたとえは、種を蒔く人よりも、彼が蒔いた種の運命、むしろ成長のできごとである。
最初の三つの種は蒔かれた地が不都合で、実を結ばない。種はすべて単数である。
他の種(複数)は、よい地に落ち、芽を出し、成長し、実を結ぶ。それも「三十倍、・・・」の実をもたらす。
そこに種まく人が多少失われても、確実に成長し、豊かに実を結ぶ成長の出来事への信頼と先取りした喜びがある。

10節から、不自然にも突如、イエスは「ひとりに」なり、「彼の周りの者たち」が「十二人と一緒に」「譬え」(複数)について尋ねる。
この場面自体、34節の「自らの弟子たち」に対する秘密裡の譬えの解き明かしの模範例となる。
事柄的にも10~25節を弟子たちに対し秘密裡に行われた解き明かしと理解することが妥当であると思われる。

まず「彼の周りの者たち」に対して、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と語る。
しかし「外の人々には、すべてがたとえで示される」。
十二人とエルサレムの指導者も含めた三章の「分化」がここに継承されている。
「神の国の秘密」は、四章の三つのたとえが共通して指し示す、蒔かれた種の成長の秘義である。
神の国は、聞く者たちの拒絶にも拘わらず、必ず成長し、終末完成の時を迎える。
「外の者」にすべてがたとえで生じるのは、彼らが「聞いても理解しないため」、また「赦されることがないため」という非常に厳しい言明が生まれる。】


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまの御言葉を聞き、受け入れる者としてくださいますように。
同じ御言葉を聞いても、受け入れる者と受け入れない者とに分かれてしまうことを、残念に思います。
救いと恵みに与れるために、すべての人が御言葉が聞く(聖書を読む)ことができ、受け入れることができますように。
神さまのお導きがありますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

旧新約聖書 スタディ版

2006年10月08日 | 本の感想
旧新約聖書 スタディ版、ついに購入(o^^o)

かなりお高いので、、、かなり迷って。。。
どうしようか、、、と思っていたけど、
まあ、聖書やし一生ものやし、解説付きなので、今までどうしても読めていない旧約の預言書が、これでやっと読み続けられるかなと思い、
気張って、購入しました(o^^o)
日本聖書教会のホームページから注文して、宅配で届きました。

思っていたよりも、大きく重いです。(あまり持ち運びはできないかな。。。)
カバーはしっかり硬いですが、中の紙は他の聖書より薄い紙を使っていて、ちっとペラペラした感じがします。
が、解説付きなのは、やっぱり良いです。
それに、思っていたよりも、字が大きくて読みやすいです。
これは横書きになっている聖書ですが、横書きでも、字が大きいので、違和感なく読めます。
で、今は、割引期間なので、少々買いやすくはなっています。

マルコ福音書 ベルゼブル論争・イエスの母、兄弟

2006年10月03日 | 新約聖書日記
◆ベルゼブル論争
『 3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

◆イエスの母、兄弟
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」』
(日本聖書協会 聖書 新共同訳)

新約聖書略解をまとめて
『2組のイエスに批判的な判断を下す人たちが紹介される。
まず、「身内の人たち」で、「取り押さえに」来た。実際には「彼の者たち」で、31節で彼の母と兄弟たちと判明する。
次に「エルサレムから下って来た律法学者たち」は、彼がベルゼブルを持ち、この悪霊の頭の力で悪霊追放を働いていると主張する。

イエスはまず後者に応答する。23、27、28節からの三群の言葉である。
第一群は王国や家と同じように、サタンも「内輪で争えば」「滅びてしまう」ことを言う。
第二群は、強者、つまりサタンの家を奪う順番について語る。
この問答によって、イエスの悪霊追放は強者、つまりサタンとの戦いであるとの主張が生まれる。
第三群は、ルカ版のベルゼブル論争に欠けるなどの理由で元来、マルコ前の「ベルゼブル論争」とは別個の言葉を付加したものと思われる。
一方で人間の過ちに対する包括的な赦しを宣言しつつ、他方「聖霊を冒涜する者」に対しては「永遠に」至るまでの断罪を告げる。「永遠に」は並行するルカ12・10にもなく、マルコの挿入である。
神の霊を与えられて悪霊追放を通して神の支配を宣教するイエスを、神ではなく、サタンの力に与る者と判断したエルサレムの指導者に対して、非常に厳しい拒絶がなされたことになる。

次に、彼を捕まえに来た彼の母と兄弟たちへの拒絶が来る。
彼らは「外に」立つ。
32節でも同じ語で、彼らが中に入らず「外に」いることが言われる。
これに対して「大勢の人」、実は「群衆」が「彼の周りに」座っていた。
34節で「周りに・・・」、実際には「彼の周りに丸くなって座っている人々」として繰返される。
外に立つ家族は既にイエスを信じることを拒否している。
彼の周りにいる群衆は、彼に対してまだ開かれた姿勢を持ち、弟子と共に苦難の道を彼に従って生きるように呼びかけられる群衆と似る。

イエスの応答も、彼らの姿勢に応答するように、対象的である。
肉親に対しては、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答える。
しかし彼の周りの者たちには、彼らを「見回して」「見なさい、・・・わたしの母、わたしの兄弟・・・」と語りかける。
「神の御心を行う人こそ・・・」と、彼の後に従って生きるすべてに開かれた語りかけがなされる。

3・7以下の構成の中で十二人とエルサレムの指導者が対比できるが、
イエスの他の聴衆も、肉親が代表する「外の者たち」と彼に耳を傾ける「彼のまわりの者たち」に分かれていく。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
今日も一日守り導いてくださいますように。
イエスさまが、いつもそばに居てくださることを、忘れることがありませんように。
イエスさまに従うことができますように。
神さまの御心が行えるように、導いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン