聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

「キリスト教神学入門」を読む 2

2010年04月29日 | 「キリスト教神学入門」マクグラスを読む
「キリスト教神学入門」マクグラス を、読む。
のつづき。

☆36ページから57ページまで。
主要な神学的発展
 新約聖書の範囲
 伝統の役割
 キリスト教神学と世俗文化との関係
 世界教会信条の制定
 イエスキリストの両性
 三位一体論
 教会論
 恩恵論



それぞれについて、詳しく書かれていました。
しっかし、アウグスティヌスって、すごい人やったんやなと思いました。
いっぱいアウグスティヌスの名前が出てくるし。
アウグスティヌスの主張は、それぞれに、すばらしいです。
アウグスティヌスの本が読みたくなりました。
「告白」とか「神の国」は、文庫本で手に入るので、また読んでみたいです。
教父時代はこれで終わりになります。
この章の最後に、「重要な名前と用語」が書き出してあって、これを覚えようとノートにまとめてみました。
さて。次の章は中世とルネサンスになります。


では、次ぎへ進んでいきますm(_ _)m

「福音と世界」3月号

2010年04月28日 | 本の感想
新教出版社に頼んで、
バックナンバーで「福音と世界」3月号を送ってもらった(o^^o)
アマゾンで買おうかと思ったら、売り切れてたので。

この3月号、特集が三位一体とは何か、っていうのだったので、買ってしまった。
しっかし、難しいな。
内容がわたしには難しい。
これは、わたしに読めるかな?
でも、せっかく買ったんやし、読まないとね(o^^o)

ヨブじゃないけど。。。。

2010年04月27日 | わたしの思い
いったいなんの罰や。
腰痛になってしもうた。
それも、今日届いた一挙千菜の沢山入った重いダンボール箱を、玄関から奥の洋間まで運んだだけなのに。
それなのに、腰が痛くなった。
最悪や。
わたしがいったい何を悪いことをしたっていうんや。
どういうことや。

おまけに、今日は訪問入浴やって、その準備から、車椅子への移乗やら、着替えやらやらんといかんかったし。
ほんまに腰が痛いのに辛かった。
その上、いつも出ないのに、父ちゃま柔らかいウンチが突然出てしまってた。
訪問入浴の前に、ウンチをとることになってしまった。
訪問入浴の看護婦さんに、父ちゃまの身体を動かすのを手伝ってもらいながら、わたしがウンチを処理していった。
腰が痛いのに辛かった。

最悪。
湿布貼って、痛み止め飲んで、腰痛ベルトしてる。
でも、痛い。辛い。
それやのに、父ちゃまの体位変換をしないといけない。体位ドレナージで身体を真横にしたり抱き枕を抱えさせたり腰を引いたりしないといけない。
辛い。痛い。

最悪や。最悪や。
おまけに、明日は、自分の薬をもらいに病院へ行かないといけない。
片道45分の車の運転をせんといかん。
病院で待合で長いこと待って診察をしないと、薬を出してもらえない。
最悪最悪。腰が痛いのに、じっと座ってるのも辛い。

うううううううううううううううううううううううううううう
いったい、なんで、腰痛にならんといかんの???
どんな罰やねん。
重い荷物を運んだだけやん。
他に誰もしてくれへんから、自分が頑張っただけやん。
父ちゃまの体位変換も、自分しかやる人が居ないから、わたしが頑張ってるだけやんか。
なんで、こんな痛い目にあわないといかんの?

何でや!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
神さま、ええかげんにしてくれ。
なんの罰やねん。

新実用聖書注解 いのちのことば社

2010年04月26日 | 本の感想
「新実用聖書注解」 いのちのことば社 8820円

この本、買った(o^^o)
いままでは、
日本基督教団出版局の新約聖書略解と旧約聖書略解、
それと、日本基督教団出版局の新約聖書注解と旧約聖書注解、
そして、いのちのことば社の新聖書講解シリーズ(このシリーズの中の3冊は手に入らなくて持ってない)を持ってた。
で、今回、この本がよさそうなので買ってみた。
ら、とっても良い!!!!
わたしが調べたかったところが、まさにそのまま解説が詳しく載っていた。
今はヨブ記を聖書通読していて、そこで、「証人」という言葉が出てきて、とても調べたいことがあったので、いろいろと探したけども。
しっかりと納得できる解説が、この本には書かれてあった(o^^o)
やっぱ、買ってよかった~(^0^)/

いろいろもっておいたら、やっぱり、調べられるからいいと思う。
聖書通読にも役に立つと思う。
うれしい。

「キリスト教神学入門」を読む 1

2010年04月25日 | 「キリスト教神学入門」マクグラスを読む
「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス 神代真砂実訳 教文館 7500円
を、最近、読み始めました。
ぼちぼちと、読んでまとめながら、アップしていこうと思います。
どうか、いつか読了できますようにm(_ _)m

☆1~36ページまでを、
自分なりにまとめて☆

第一部キリスト教神学思想史
第一章 教父時代(100年頃から451年まで)

1、神学論争の重要な中心地
アレクサンドリア
アンティオキアとその周辺のカパドキア地方
北アフリカ西部、特に今のアルジェリアのあたりの地域

●「教父時代(patristic period)」。これはあいまいな言葉であるが、しばしば、新約聖書の諸文書が書き終えられたときから、
カルケドンでも決定的な会議(451年)までの時期を指すものと考えられている。

教父時代の概要
神学的な理由でも教父時代は重要である。
主な課題は、キリスト教とユダヤ教の関係の整理
他の問題が出てきて、特に二世紀において重要であったのは「弁証学」で、
これはキリスト教への批判に対してキリスト教の信仰を論理的に擁護し、正当化するものを言う。
神学論争が本格的に可能になる条件が整ったのは四世紀、皇帝コンスタンティヌスの改宗によってである。
皇帝在位中(306~37)に、彼は教会と帝国の和解に成功した。
その結果、教会は、もはや自分が包囲されているという意識を持たないで済むようになった。
教父時代の後期(およそ310~451)を、キリスト教神学の歴史の中でも最も充実した時代と見做すことができる。

主な神学者
殉教者ユスティノス(100頃~165頃)
 「弁証家」の中で最大の人であろう。「弁証家」というのは、二世紀に登場した一連の思想家のことで、異教の側からの激しい攻撃に対してキリスト教を擁護しようとした人々である。

リヨンのエイレナイオス(130頃~200頃)
 グノーシス主義の挑戦に対して、キリスト教の正統を守った。

オリゲネス(185頃~254頃)
 三世紀における最も重要なキリスト教の擁護者である。東方のキリスト教思想の発展の重要な基礎をすえた。

テルトゥリアヌス(160頃~225頃)
 西方教会に与えた影響が大きく、ラテン神学の父と言われる。
マルキオンに対して、旧約聖書と新約聖書の統一性を強調した。

アタナシオス(296頃~373頃)
 主としてキリスト論にかかわるところで重要。「受肉について」の著作は、神がイエ ス・キリストの人格において人性をとったという考えを力強く擁護している。
この問題はアレイオス論争において中心的意義を持った。この論争におおきな貢献をした。

ヒッポのアウグスティヌス(354~430)
 学問の一つとして神学を発展させた。
キリスト教思想の総合を打ち立てた。それは主著「神の国」において成し遂げられた。
個々の教理について非常に重要な業績を残した。
一つは教会とサクラメントについての教理、次が恩恵についての教理、最後に三位一体 論。


神学の本って、読むのが大変ですねえ。。。
しっかし、これは入門書なんですけど。
でも、アマゾンのカスタマーレビューでも良い本だって書いてあったし。
値段の高い本だし。(キリスト教関係の本ってどれも高いですよね)
頑張って読んでいきます。
いったい私は最後まで読めるのか?????
さて???
何年か、かかるのかも?????????????????


☆聖書通読表(ここの聖書通読表、私利用させてもらってます)のホームページの中にある、
”神学のすすめ”のページ↓ とても勉強になります。ありがたいですm(_ _)m
http://biblestyle.com/theology.html

ローマの信徒への手紙 1章 人類の罪 その3

2010年04月18日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『18節
福音の啓示は神の怒りの啓示にほかならない。
パウロにとって神の義は神の怒りとして啓示される。
「不義」は義なる神に対する背信、「真理」は神が神であるという神の自己啓示を、
従って「不信心と不義」は人間の背信性を示す。
「神は天から怒りを現されます」は原文では「神の怒りは天から啓示される」で、
自然災害を天罰と考えたり、ギリシア・ローマ神話に見られるような「神々の感情的な復讐」を想定したりするのは間違いで、
終末時にはすべての被造物は神の怒りの前に立たねばならないことを語っている。

19~20節
このことは神の「天から」の直接的啓示であるゆえに、すべての者にとって天地創造以来「明らか」であり、「弁解の余地」はない。
「目に見えない神の性質」「永遠の力」「神性」「神を知る」などの表現はヘレニズム世界の共有物であり、パウロはこれを逆用して、神を知らないからその怒りの下にはいないと弁明する余地を封じている。

21節
これまでの結論的要約

20~23節
神を神として認めないことは、人間の愚かさを意味するだけでなく、偶像礼拝に陥っていることを意味する。
パウロはここで唯一神を最大の主張点とするユダヤ教徒の立場からユダヤ人以外の人間総体を批判する。
それは偶像礼拝とその結果である不品行である。
これは個々の行為に対する道徳的判断ではなく、異教社会の生活形態、文化、世界観に対するユダヤ教からの判断である。
異邦人は偶像礼拝に耽っているがゆえに性的放縦、不品行なのである。
パウロはこの点で極めて不寛容である。

24~28節
神の怒りは「放置する」という自由放任の形を取る。
ここでは基本的に人間の本能的欲望が「恥ずべき情欲」「無価値な思い」「偽り」として「自然の関係」「当然の報い」「真理」と対比されて否定的にとらえられている。
しかしこの場合「何が自然で、当然なのか」についての客観的検討が加えられているわけではなく、ユダヤ人としてのパウロの常識がその根底にある。
こうしたユダヤ人社会の倫理規範が14世紀に確立されたと言われるキリスト教的性理論に大きな影響を与えていることは明らかである。
「不潔なこと」「辱める」という浄・不浄といった社会的関係の往来の表現からもここでの議論が神学的に考え抜かれたものというよりはユダヤ人社会の通念によっていることを示している。

29~31節
29節以降には当時広く行き渡っていた「悪徳表」が導入されている。
このこともこの議論が宗教や神学の領域というよりは社会生活の領域における生き方の問題であることを示している。
キリスト教に限らず、宗教は当然その社会のあるべき生活態度の規範、常識を提供すると同時に、社会の周辺部に存在することを強いられた少数者に間化やあらゆる抑圧からの解放、新しい生への可能性をも提供する。

しかしいずれにせよ、人間関係、とくに性にまつわる商品化や暴力といった非人格的関係、悪徳表に見られる人間の破壊的ありようが放置され、
社会で「このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら」なお「是認」されているかに見えるのは、神が無力なのではなく、神の怒りにほかならないのである。』


新聖書講解シリーズ6 ローマ人への手紙 いのちのことば社 へ、つづく。

ローマの信徒への手紙 1章 人類の罪 その2

2010年04月15日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『神の怒りの啓示が宣言される。それは人類の罪をあらわにする。
「不義」は人間の個々の悪行ではなく、神の義と対立する背信的な人間の姿そのものを指す。
「真理」は神が神であるという自己啓示を意味する。
「不信仰と不義」は人間の背信性の表現。
「天から」は、「神から直接」の意。
「神の怒り」は、ギリシア・ローマ神話に見られるような「神々の感情的な復讐」とは関係なく、「最後の審判の日」を指す「怒りの日」との関連で読まれるべきである。
したがってこの啓示は、天地創造以来の被造物の有様に決着をつけるという黙示文学的な終末の出来事として考えられている。
すべての被造物はこの神の怒りの前に立つ。
そこには例外はなく、弁解の余地はない。
彼らには神についてすべてが「明らかだから」である。
パウロのこのような主張は神が自然を通して認識され得るという自然神学の典拠とされてきたが、ここでは、知らなかった、という弁解を封じる以上の意図はない。
20節の、「目に見えない神の性質」、「永遠の力」、「神性」、「神を知る」=(理性で認識する)、などの表現はヘレニズム世界によく知られていた世界観と共通している。
パウロはこのようなよく知られた世界観を逆用して、神を知らないからその怒りの下にはいないと弁解する余地を封じているのである。
21節は前二節の要約、確認である。
彼らが神の怒りの対象になるのは、迂闊にも神を知らなかったからではなく、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することも」しなかったからである。
しかし人間は神ではない。
この転倒した状態は、人間に自分は何者であるかを見失わせる。
その結果、自分では知恵があると主張しながら、その実、自らの無知と愚かさをさらけ出すことになる。
それは、真の神を礼拝せず、被造物として拝んでいることに具体的に現れる。

この神の怒りは、人間の現実の有様を一見そのまま認容するという形で現れる。
24、26、28節に出てくる「そのままにしておく」という特徴的な言い回しは、人間の情に任された振る舞いが極めて不自然であることを明らかにしている。
人間の道徳的倒錯関係、不自然な性的関係は、神の怒りと裁きの対象である前に、その結果なのである。
心の欲望の赴くままに性的な不自然な関係に捨て置かれた人間の見せ掛けの自由はその身体を互いに辱める結果となる。
水が低いところに溜まり、やがて腐るように、欲望の行き着く果ては本能の破滅であり、自滅なのである。
こうした状態を作り出した根源的な悪が25節に繰り返される。
ここに述べられている性的混乱は、主として当時の宗教的祭儀と深い関連を持っていると思われるが、
それはまた同時に、当時のローマ社会の日常生活の中に見られたものであったろう。
ユダヤ人は異邦社会の性的放縦をその無神性に見ていた。
パウロもその見方に従って、そこに文明的背信性を見ている。
このような放縦がもたらす精神的荒廃が29~31節に出てくる。
これはいわゆる「悪徳表」と呼ばれるもので、当時のヘレニズム世界に広く行き渡っていたものである。
この表は心の問題に集中しており、宗教の領域というよりは社会生活の領域での犯罪の根となり、人間関係の不幸な断絶を招来するものである。
32節はこの部分の結論である。
こうした悪を行うことが「死に値する」ことを知りながら、それを行っているばかりか、他人が同じことを行うのを「是認」することにおいてこの無神性は頂点に達する。
異邦世界の罪はここに弁解の余地のない仕方で認識されている。』



新約聖書略解に、つづく

ローマの信徒への手紙 1章 人類の罪 その1

2010年04月06日 | 新約聖書日記
◆人類の罪
『 1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。

1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、

1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、

1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、

1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、

1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。

1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

1:18 God's anger is revealed from heaven against all the sin and evil of the people whose evil ways prevent the truth from being known.

1:19 God punishes them, because what can be known about God is plain to them, for God himself made it plain.

1:20 Ever since God created the world, his invisible qualities, both his eternal power and his divine nature, have been clearly seen; they are perceived in the things that God has made. So those people have no excuse at all!

1:21 They know God, but they do not give him the honor that belongs to him, nor do they thank him. Instead, their thoughts have become complete nonsense, and their empty minds are filled with darkness.

1:22 They say they are wise, but they are fools;

1:23 instead of worshiping the immortal God, they worship images made to look like mortals or birds or animals or reptiles.

1:24 And so God has given those people over to do the filthy things their hearts desire, and they do shameful things with each other.

1:25 They exchange the truth about God for a lie; they worship and serve what God has created instead of the Creator himself, who is to be praised forever! Amen.

1:26 Because they do this, God has given them over to shameful passions. Even the women pervert the natural use of their sex by unnatural acts.

1:27 In the same way the men give up natural sexual relations with women and burn with passion for each other. Men do shameful things with each other, and as a result they bring upon themselves the punishment they deserve for their wrongdoing.

1:28 Because those people refuse to keep in mind the true knowledge about God, he has given them over to corrupted minds, so that they do the things that they should not do.

1:29 They are filled with all kinds of wickedness, evil, greed, and vice; they are full of jealousy, murder, fighting, deceit, and malice. They gossip

1:30 and speak evil of one another; they are hateful to God, insolent, proud, and boastful; they think of more ways to do evil; they disobey their parents;

1:31 they have no conscience; they do not keep their promises, and they show no kindness or pity for others.

1:32 They know that God's law says that people who live in this way deserve death. Yet, not only do they continue to do these very things, but they even approve of others who do them.』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解へつづく

マルコ福音書 8章 イエス、死と復活を予告する その3

2010年04月03日 | 新約聖書日記
つづき


『34章
マルコによればイエスは弟子たちだけを連れてフィリポカイサリア地方に行く途中であるので、ここにおける群集への言及はやや唐突である。
しかしマルコはこのような仕方であえて弟子たちを群集と同列に置く。
すなわち、イエスに従ってきた弟子達は、受難予告を聞いた今、新たに群集と共に随従への決断の前に立たされる。
「捨てる」と訳されているギリシア語アバルネイスタイは「否を言う」「否認する」の意。
「自分の十字架を背負う」は十字架刑を言い渡された犯罪者が自分のつけられる十字架の横木を刑場まで背負っていく慣わしに由来する表現。
ここでは殉教を覚悟でイエスに従うことを意味する。
受難物語においても弟子達はここで要求される弟子像とは反対の姿を呈する。
ペトロは自分を捨てず、イエスを否認する。
イエスの十字架を背負うのは弟子達ではなくキレネ人シモンである。

35節
34節の発言の理由を示す。「なぜならば」(新共同訳では訳出されていない)、イエスを否認することによって「自分の命を救いたいと思う者は」、永遠の命を失うが、
イエスのため、福音のためにそれを失う者(殉教するもの)は永遠の命を得るからである。
命は二つの意味(この世の命と永遠の命)で用いられている。
「また福音のために」は伝承に対するマルコの付加であろう。
「また」(カイ)は「すなわち」の意味に取ることができる。
マルコはここでイエスのための殉教とは福音のための殉教であると説明する。
マルコにとってイエスは福音の宣教者であるだけではなく、福音そのものである。

36~37節
ここでは世俗の格言が二つ引用されているように思われる。
「命」は本来の諺ではこの世の命を意味したが、この言葉集の文脈では永遠の命を指す。
それは全世界の富・権力・名誉によっても保証されず、ただイエスへの随従をとおして与えられる。
そして人は、受難のイエスを拒んで永遠の生命を放棄するならば、もはやいかなる代価を払ってもそれを買い戻すことはできない。
36節と37節は共に「なぜならば」によって35節の発言を根拠づけている。

38節
38節の「なぜならば」も新共同訳では訳出されていない。
この節は直前の37節あるいは34b~37節全体の発言を根拠づける。
「神に背いた」と訳されているギリシア語モイカリスは「姦通にふける」「不貞の」を意味する。
ここでは、「この時代」は10・30の「この世」と同じ意味で「後の世」と対照的に用いられているように思われる。
イエスが終末時に審判者として到来する人の子と自分自身を同一視したか否かは学者の意見の分かれるところである。
いずれにせよ、マルコは原始キリスト教会の人々と共にここでイエスの再臨を考えている。

9・1節
「はっきり言っておく」(アメーン・レゴー・ヒュミーン)を発言の冒頭に置く語り方はユダヤ教や原始キリスト教の中でイエスの言葉にのみ見られる特色。
発言の内容に権威と真実性を与える。
人の子としてのイエスの再臨と神の国の到来を同一の事柄として明示する。
再臨が近いという期待は原始教会の信仰の大きな特色。



お祈りしますm(_ _)m
『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』
恵み深い天の父なる神さま
主の御名を賛美します。
今日も御言葉をお与えくださり、感謝します。
わたしは、自分のことしか考えることができない者で、自分中心の生き方をしてきた者です。
しかし、御言葉のように、どうかイエスさまに従う生き方ができますように。
イエスさまの為に死ぬ覚悟が、わたしにできますように。
隣人の為に、家族の為に、愛ある行動ができますように。
他人の為に生きる人生が送れますように。
自分のことを最優先にしてしまう自分のエゴを捨てることができますように。
弱いわたしの手を取り、お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。
アーメン