聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書9章 いちばん偉い者 その1

2011年07月20日 | 新約聖書日記
◆いちばん偉い者

『 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

9:33 They came to Capernaum, and after going indoors Jesus asked his disciples, "What were you arguing about on the road?"

9:34 But they would not answer him, because on the road they had been arguing among themselves about who was the greatest.

9:35 Jesus sat down, called the twelve disciples, and said to them, "Whoever wants to be first must place himself last of all and be the servant of all."

9:36 Then he took a child and had him stand in front of them. He put his arms around him and said to them,

9:37 "Whoever welcomes in my name one of these children, welcomes me; and whoever welcomes me, welcomes not only me but also the one who sent me."』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書から)



新訳聖書注解へ、つづく。

ローマの信徒への手紙3章 ユダヤ人と律法 つづき その2

2011年07月16日 | 新約聖書日記

つづき


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 をまとめて。

『信仰義認論は、その頂点において、現実のユダヤ人を相対化し、まことのユダヤ人という新しい存在を前景に押し出す。
そこでパウロが決して放棄しないユダヤ人の優位性がここで揺らぐのである。
彼がここであくまでも信仰義認論を貫くなら、「ではユダヤ人の優れた点は何か」という問いの答えは、当然、「全くありません」となるはずである。
ところが、パウロはそこへ行く前に「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答える。この一見論理的に矛盾する論議の展開は、本書の主題である。
「神の義」の二面性から来ている。
ここでは、信じる者を義とすること、神自身がその契約に対してどこまでも忠実であること、つまり、神の契約信義がぶつかりあっているのである。
したがって、ユダヤ人や割礼の有効性が信仰義認論によって否定されるところで、逆に、神の約束としてのユダヤ人や割礼の有効性が神の契約信義として肯定されなければならないことになる。
本書1~8章の信仰義認論は9~11章の神の契約信義論によって補われるのはこのためである。
それゆえ、ここではユダヤ人の優位性が十分に展開されてはおらず、それは九章まで待たなければならない。

ここでは最も重要な点が一つだけ語られる。
それは、神の言葉が委託されているということである。
このユダヤ人の優位性は「彼らの不誠実」によって左右されはしない。
神の「誠実」は人間の「不誠実」に優位する。
神の民がいかに無節操に契約から離れ、それを無視しようとも、神はその契約を破棄することなく、それを忠実に履行する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
人間を救うという神の決意は人間の不誠実によって変節しない。
このことは、ユダヤ人の優位性が彼らの不誠実によって崩れないことを意味する。
神の約束、真実な言葉は創造の力でもあるからである。

五節以下では、論争形式で、信仰義認論そのものが俎上に乗せられる。
確かにそれは誤解に基づいてはいるが、パウロに対して実際に向けられた批判でもあったろう。
それは、われわれの不義が神の義を明らかにするのだとすれば、われわれの不義に怒りを下す神は不義となる。
わたしを「なおも罪人として裁」く必要はないのではないか。
このような問いは、事柄を自分の問題として受け止めようとは決してしない人間の常套手段である。
それゆえ、パウロは「人間の論法に従って言いますが」とわざわざ断った上で、そのように一応問うてみせる。
パウロにとってこのような問いは、神に対する冒涜ですらある。
問い方はすでにある答えを前提にしているゆえに、問いそのものの問題性をあらわにする。
神は正しくないのではないか、という問い自身がここでは全体として否定される。
「決してそうではない」は問いそのものに対する拒絶である。

七節は五節の問いをさらに具体的に問う。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」と言い換えられ、「神の義」が「神の真実」と言い換えられて、「わたしはなおも罪人として裁かれねばならない」のはどうしてかと問う。
この問いは、自分の罪に居直り、自分を弁護して責任転嫁する詭弁である。
このことは八節から明らかとなる。
五節でパウロが断っているように、これは「人間の論法」である。
一つの主張を形式的に延長し、そこに論理的矛盾を明らかにしてその不当性を突くことによって、自己の正当性を主張する。これが「中傷」である。
パウロはそのように「中傷する人々」がいると言う。
この中傷の背後にあるものは、神の律法を守らない者、異邦人を神の救いの下に立ち得るとするパウロの信仰による救いに対するユダヤ人たちの不満と苛立ちがある。
正しい者も正しくない者も共に神の怒りの下にあるとするならば、もはや裁きの対象となるべき罪人など存在しないことになり、裁きそのものが無意味になってしまうのだと言うのである。
パウロはこの問いを「中傷」であるとし、まともに答えることなく、断罪する。
不誠実な人間を義とすることが神の義の放棄ではなく、神の契約に対する誠実がそのような人間を義とする力であること、
神こそが真実な者であり、この神に対する抗議は成り立たないこと、
それゆえ、ユダヤ人の優位性が神の誠実の下でのみ語られることができ、自らを正しいとするユダヤ人の側にはその根拠が見出されないことがここで明らかにされている。』


新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。

『問い「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」は、これまでの議論の流れからすれば、当然「全くありません」であるはずである。
しかし、奇妙にも「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答えられ、その優越性が「まず」第一に「神の言葉をゆだねられた」と数え上げられる。
議論は完全に信仰による義から神の契約に対する誠実の問題に移ってしまっている。
ただ第二第三は出てこず、それはこの問題が集中的に扱われる九章以下まで待たねばならない。

ここでは当面出されるであろう疑問にひとまず答えておこうとするパウロの自問自答(こうした論の進め方は当時の通俗哲学者のよく使った方法である)によって議論が進められる。
神の「誠実」はユダヤ人の「不誠実」によって左右されないこと、
人間の不義が神の義を明らかにするのだとすれば、人間の不義に怒りを下す神は不義となる、というパウロにも向けられていたと思われる中傷と強弁に対して、
それは「人間の論法」、詭弁であるとして、問いそのものを否定する。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」、「神の義」が「神の真実」と言い換えられている。

パウロを「中傷する人々」に対して「こういう者たちが罰を受けるのは当然」と言い放つパウロは、信仰に立つ者、伝道者が単なる博愛主義者であったり、八方美人的「牧会者」ではありえない、福音宣教の闘志であることを垣間見させてくれる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神の誠実は、人間の不誠実に優位する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
神の愛の大きさを思い、心から感謝します。
そして、いろんな場面で、いろんな論議から、いろんな中傷をされるキリスト者でありますが、
信仰に立ち、パウロに倣い、闘う者であれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

ローマの信徒への手紙3章 ユダヤ人と律法 つづき その1

2011年07月10日 | 新約聖書日記
ユダヤ人と律法 つづき3章。

『3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。

3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。

3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

3:1 Do the Jews then have any advantage over the Gentiles? Or is there any value in being circumcised?

3:2 Much, indeed, in every way! In the first place, God trusted his message to the Jews.

3:3 But what if some of them were not faithful? Does this mean that God will not be faithful?

3:4 Certainly not! God must be true, even though all human beings are liars. As the scripture says, /"You must be shown to be right when you speak; /you must win your case when you are being tried."

3:5 But what if our doing wrong serves to show up more clearly God's doing right? Can we say that God does wrong when he punishes us? (This would be the natural question to ask.)

3:6 By no means! If God is not just, how can he judge the world?

3:7 But what if my untruth serves God's glory by making his truth stand out more clearly? Why should I still be condemned as a sinner?

3:8 Why not say, then, "Let us do evil so that good may come"? Some people, indeed, have insulted me by accusing me of saying this very thing! They will be condemned, as they should be.』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解Ⅱ へつづく。


マルコ福音書9章 再び自分の死と復活を予告する その2

2011年07月07日 | 新約聖書日記

つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『この部分は全体としてマルコの編集に負うている。
イエスの一行がガリラヤを通っていたとき、イエスは弟子たちに再び受難を予告する。
最初の受難予告はガリラヤの外、フィリポ・カイサリア途上でなされたが、
第二回のそれはイエスの活動の主要舞台がガリラヤでなされたと、マルコは言いたいのであろう。
この受難予告は最初の受難予告に比べて簡潔であるが、
新たに「人々の手に引き渡される」(パラディドタイ)という句を用いている。
「引き渡す」(パラディドナイ)はイエスの受難と死に関する教会の伝承で使われた用語。
イエスが「人に気づかれるのを好まなかった」のは、群集との断絶を意図したからではなく、
重要な受難の問題に関する弟子たちの教育に力を集中するためであった。
しかし弟子たちはイエスの言葉を悟らず、尋ねることさえ恐れた。
受難の道を忌避する弟子たちの無理解が再び強調される。』


新実用聖書注解 いのちのことば社 を、まとめて。
『この度の予告で注目すべきは、人々の手に「引き渡され」(パラディドーミ)という言葉である。
この動詞は、イエスがユダによって祭司長たちに引き渡され、
次に議会によってピラトの手に引き渡され、
さらにピラトから兵士の手に引き渡されるという一連の出来事を示唆する。
人の策略がイエスを引き渡すのであるが、神の贖いの計画の中では、イエスは神の御手によって「私たちの罪のために死に渡され」た。

死と復活の預言を弟子たちは理解することが出来なかった。
メシヤに関する理解の乏しさは繰り返し指摘されているが、ここでは「イエスに尋ねるのを恐れていた」という言葉が付加されている。
「これを殺す」との悲劇的状況は、イエスの表情や語り口からも感じられたに違いない。
彼らは恐れて、切迫した事情の詳細をあえて尋ねることをしなかった。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまの言葉を聞いても、理解できない弟子たちに、自分を重ね合わせます。
聖書を読んでも、神さまの御言葉を理解できない、御言葉を身につけられない、
御言葉を実行できない、わたしが居ます。
どうか、聖書の御言葉、神さまの御言葉、イエスさまの御言葉が、
理解できる者になりますように。
イエスさまを理解できる者になれますように。
イエスさまに従える者になれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン