聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書8章 四千人に食べ物を与える その1

2009年01月09日 | 新約聖書日記
◆四千人に食べ物を与える
『 8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。

8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。

8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。

8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。

8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。

8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

8:1 Not long afterward another large crowd came together. When the people had nothing left to eat, Jesus called the disciples to him and said,

8:2 "I feel sorry for these people, because they have been with me for three days and now have nothing to eat.

8:3 If I send them home without feeding them, they will faint as they go, because some of them have come a long way."

8:4 His disciples asked him, "Where in this desert can anyone find enough food to feed all these people?"

8:5 "How much bread do you have?" Jesus asked. /"Seven loaves," they answered.

8:6 He ordered the crowd to sit down on the ground. Then he took the seven loaves, gave thanks to God, broke them, and gave them to his disciples to distribute to the crowd; and the disciples did so.

8:7 They also had a few small fish. Jesus gave thanks for these and told the disciples to distribute them too.

8:8-9 Everybody ate and had enough-there were about four thousand people. Then the disciples took up seven baskets full of pieces left over. Jesus sent the people away

8:10 and at once got into a boat with his disciples and went to the district of Dalmanutha.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書略解などへつづく

あなたの生きがいは何ですか?

2009年01月07日 | わたしの思い
「あなたは自分の生きがいを見つけられましたか?」
、、、って、今日来た家計簿ソフトからの広告メールの題名ですが。。。

わたし、すぐに言えました(o^^o)
イエス様ですね。生きがいです。
最近、わたし、聖書通読もちょこちょこしかできてないですし、礼拝にも2ヶ月くらい事情があって行けてないですし、お祈りもままならないことが多かったですし、わたしって本当にイエス様を好き?かしらん?ほんとう??ほんとうに??って自分で自分をさぐるようなところがあって。
まあ、信仰があるとはっきり言い切れる人がどれくらい居るのかは分からないですが、自分の信仰って、どうなん??って、よく思ってるんですが。
まあ、自分の感情がどうこう言ったって、神様のほうでは、いつも恵みは与えてくださっているわけで。
信仰っていっても、降り注ぐ恵み、聖霊におまかせするしかないところも多いわけですが。。。
まあ、何言ってるんでしょう。。。
とりあえず、そんなあやふやな、信仰といえるものがあるのかどうか自分でも確信できない私ですが、
でもね、この今朝来た広告メールの題名である問いに、すぐに答えられたんです(o^^o)わたし!
これって、すごくないですか?
やっぱり、わたしって、自分で分かってないところで、しっかりイエス様にとらえられてるってことが、自分で理解できた感じです。

わたしの生きがいは、イエス様です。
これからどんなことがあっても、イエス様はわたしを生かし続けてくださることと思います。
イエス様が導いてくださる、イエス様の後を、とぼとぼと、よろよろと、あるいはしっかりと、あるいはコケながら、でも、わたし、ついていきます。
手をとって離さないで導いてくださるイエス様についていきます。
よろめいてコケて立てないときでも、わたしをおぶって歩いてくださるイエス様にすがります。

感謝ですm(_ _)m
アーメン

エステル記 8章 ユダヤ人迫害、取り消される その2

2009年01月05日 | 旧約聖書日記
つづき

旧約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『王への呼びかけの言葉は、回を重ねるごとに丁寧さを増し王への忠誠心が強調されているが、内実はエステルの王妃としての主導権が拡大している。

8節の意味するところは、
王の勅令は取り消し不可能だから、前勅令を破棄することなしにユダヤ人を救う方法を改めて再度王の名によって発布せよということ。
モルデカイ作成の実質的なユダヤ人迫害取り消し文書は、「シワンの月の二十三日」すなわちハマンの文書が出されてから二ヶ月と十日の後(シワンの月は5~6月)、ペルシア全土に届けられた。
その内容は、アダルの月の十三日(ハマンが決めたユダヤ人虐殺日)に、ユダヤ民族は自衛権を保証され、さらに同態報復法による復讐を認められるというものである。
ハマンの文書はユダヤ民族の全滅を述べたが、モルデカイの文書は逆にユダヤ人を迫害する民族や軍隊の全滅を許可する。
こうして前言を翻して王の権威を傷つけることもなく、確実にハマンの文書は無効となる。』


新聖書講解シリーズ 旧約8 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 をまとめて。
『王は、ハマンから取り返した自分の指輪をモルデカイに与え、エステルもまたモルデカイにハマンの財産の管理を一任した。
かくしてモルデカイは、ハマンに代わって名実共にペルシヤ帝国の総理大臣になった。
これでハマンのことは完全に決着がついたが、ハマンによるユダヤ人虐殺の勅令はなお厳として生きていた。
そこでエステルは、この勅令の取り消しのために再び王の足もとにひれ伏し、涙ながらに請い求めた。
王はここでハマンの布告を取り消すのではなく、
その布告に対抗してユダヤ人が救われるような第二の新しい布告を作ればよい、
それによって実質的に先の布告を取り消すことができる、
そのためにモルデカイの手に王の指輪があるではないか、と指示を与えた。
こうして第一の勅令を破棄することもなく、したがって王の権威を失うことも無く、ユダヤ人を完全に救う道が開かれたのである。
さて、ハマンによる第一の布告に対するモルデカイによる第二の布告の内容はこうであった。
「どこの町にいるユダヤ人にも、自分達のいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子供も女達も含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した」
かくしてこの勅令の決行は、第一の勅令の実行される日、すなわちアダルの月の十三日と定められた。
モルデカイは正式に総理大臣の威容を整え、民衆の前に現れた。それは神の民の完全な勝利の象徴でもあった。
「この国の民のうち多くの者がユダヤ人となった」(口語訳)。すなわち多くの者がユダヤ教に改宗したのである。
「それは彼らがユダヤ人を恐れるようになったからである」は、「ユダヤ人の仕返しを恐れたから」(リビングバイブル)ととるよりも、ユダヤ人を守り救われた神を恐れたととるべきであろう。
こうして、ユダヤ人の信ずる神への恐れは多くの異邦人に感化を与えて、ユダヤ人に帰化させたのである。

さて、本章の学びを一つの主題で三つの段階で学ぶことにしよう。
主題は、「新しい布告」で、これはユダヤ人にとって「福音」となったものである。
 第一に、新しい布告の発令についてである。
新しい布告は、新しい時代に発令された。七章の終わりで、ハマンは木にかけられ殺された。このハマンの死は、エステル記に新時代をもたらした。
それはモルデカイの時代といってもよい。ハマンの死がモルデカイ時代を来たらせたとは意義深い。
古き人は死んだ。そして今や聖霊の時代が訪れたと見ることができよう。
エステルのとりなしを受けて、王は王の権威を損なうことなく、第二の布告の作成を彼女とモルデカイにゆだねた。
こうして「新しい布告」は、王の名の権威のもとで、モルデカイにより作成された。「ハマンの布告」に対する「モルデカイの布告」であった。
「死の布告」に対する「いのちの布告」である。
それは、「罪と死の原理」に対抗する「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」と見ることができよう。「新しい布告」は「古き布告」に勝利する力を持った。
 第二の学びは、新しい布告の伝達である。
モルデカイによって作成されたこの新しい布告は、いち早く全国に伝達されなければならなかった。
それは、福音宣教の緊急性を示唆していることであろう。
先に学んだように、王はハマンの布告を取り消したのではなかった。
ただそれに対抗して、ユダヤ人の自衛権を認めたモルデカイの布告を許したのである。
だから、ハマンの布告は今も厳として生きている。急いで伝えなければ遅すぎてしまう。
「速く走る御用馬の早馬に乗る急使」は、ハマンの布告の時に用いられた急使をしのぐ特別仕立ての早馬による急使を意味している。
この良きおとずれの急使は、「王の命令によってせきたてられ、急いで出て行った」。
地の果てにまで「いのちの布告」を携えて、王の王、主の主なるお方の宣教の大命令を受けた福音の急使が、急き立てられ、急いで出て行ったように。
「新しい布告の伝達」でもう一つ忘れてならないことは、この詔勅が、「各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた」ことである。
新しいいのちの布告は、もろもろの州に、もろもろの言語で知らされなければならなかった。良いニュースであっても翻訳されなければ意味も無い。そのことを考えるとき、われらは、すべての良いニュースの中で最もすばらしいニュースである福音をすべての国のことばに翻訳することの重要性を改めて思い知らされる。
 第三の学びは、新しい布告の効果についてである。
この新しい布告は、神の民にとって救いの賜物であった。しかしそれは単なる自動的な賜物なのではなかった。
この新しい布告の効果が真に現れるためには、神の民はいのちを獲得するためにその布告の権威に基づいて行動しなければならなかった。
このことはキリストの救いにおいても同じことが言える。確かに救いは神の賜物である。しかしみことばの権威に基づいて信仰によってその行動を起こさなければならない。
新改訳聖書はその行動を次のような言葉で表している。
「来る」「受ける」「信じる」「告白する」「悔い改める」「ささげる」などである。
むろん、厳密にはこれらの行動さえも聖霊の働きなくしてはありえない神の賜物である。
真に救いを楽しむために、この布告の権威に基づいて行動しよう。そのときはじめて、「新しい布告の効果」がわれらの生涯と奉仕に素晴らしく現されて来るであろう。

この偉大な章の学びを終えるに当たって改めて思わされることは、新しい布告の発令と伝達と効果の中に、福音宣教の全要素が含まれていることである。』



お祈りしますm(_ _)m
新しい布告である、イエスさまの福音に、こころから感謝します。
どうか、聖霊によって、信仰が与えられますように。
そして「来る」「受ける」「信じる」「告白する」「悔い改める」「ささげる」の行動ができますように。
心から信じることができますように。
そして、告白し、
悔い改めて、自分をささげることができますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン