聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 8章 イエス、死と復活を予告する その1

2010年02月23日 | 新約聖書日記
『◆イエス、死と復活を予告する

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
[ 9 ]
9:1 また、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」


8:31 Then Jesus began to teach his disciples: "The Son of Man must suffer much and be rejected by the elders, the chief priests, and the teachers of the Law. He will be put to death, but three days later he will rise to life."
8:32 He made this very clear to them. So Peter took him aside and began to rebuke him.
8:33 But Jesus turned around, looked at his disciples, and rebuked Peter. "Get away from me, Satan," he said. "Your thoughts don't come from God but from human nature!"
8:34 Then Jesus called the crowd and his disciples to him. "If any of you want to come with me," he told them, "you must forget yourself, carry your cross, and follow me.
8:35 For if you want to save your own life, you will lose it; but if you lose your life for me and for the gospel, you will save it.
8:36 Do you gain anything if you win the whole world but lose your life? Of course not!
8:37 There is nothing you can give to regain your life.
8:38 If you are ashamed of me and of my teaching in this godless and wicked day, then the Son of Man will be ashamed of you when he comes in the glory of his Father with the holy angels."
[ 9 ]
9:1 And he went on to say, "I tell you, there are some here who will not die until they have seen the Kingdom of God come with power."』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書注解などへつづく

エレミヤ書3章 悔い改めの呼びかけ・シオンへの帰還・悔い改めへの招き その4

2010年02月13日 | 旧約聖書日記
つづき


『3・14~18 シオンへの帰還
この単元は、バビロン捕囚期の後半以後に書かれたものであろう。
3・6~11と、3・12~13と、この単元を結んでいるのは、「背信の」という鍵語である。
ここでも「背信の子らよ、立ち帰れ」と悔い改めの呼びかけがなされているが、これは、捕囚に連れて行かれた、北の国からの帰還の呼びかけである。
ここで約束されていることは2つ。
一つは、主の心にかなう牧者であり、もう一つは、主の王座としてのエルサレムである。
主の心にかなう牧者の預言は、エゼキエル書の34章に詳しく展開されている。
諸国民が巡礼する聖所エルサレムの像はイザヤ2・2~5に見られる。
これらの諸国の民も、主の御名の下にエルサレムに集まり、再びかたくなで悪い心に従って歩むことをしないと言われる。
ユダの家とイスラエルの家は合流して、ダビデの時代のように一つの家となると言われる。
「家」は、「王朝」を指す。
捕囚前にエルサレムに置かれていた「主の契約の箱」は、恐らく、神殿を焼かれたときに失われてしまった。
これを造り直すという考えは否定されている。
バビロン捕囚の帰還の前後に語られた預言であるが、「背信の子」への悔い改めの言葉として、ここに置かれたのである。

3・19~25 悔い改めへの招き
この箇所は、2・1から始まった長い、イスラエルに対する悔い改めの呼びかけの結びである。
第一の単元3・19~22aは、神のイスラエルに対する特別の愛を述べるとともに、悔い改めをうながし、背きの罪の赦しを約束している。
第二の単元3・22b~25は、神の呼びかけに対するイスラエルの応答である。
「我々はあなたのもとに参ります」という言葉に始まるように、この単元の主語は一貫して「我々」である。
エレミヤは、孤独の預言者といわれるし、その理由も十分にあるが、好んで孤独となった人ではない。
むしろ、北イスラエルの人々に呼びかけ、ヨシヤ王の宗教改革に参加し、民のために何度も執り成しをした預言者である。
人々と共に、神に立ち帰る告白をするのにも、決してやぶさかな人ではなかった。
ただ、共同の信仰を告白したときに、その告白をどこまでも誠実に生き抜こうとすることによって、エレミヤは孤独にならざるをえなかったし、
彼が共に生きていた共同体を超えて、新しい共同体の生まれる時代を預言するに至ったのである。

第一の単元は、初めの神の愛と慈しみについて歌っている。
神はイスラエルに、あらゆる国の中で最も麗しい地を継がせようとした。
また、イスラエルは、神を「父」と呼んでいた。
にもかかわらず、神ではないものを「父」「母」と呼ぶようになった。
イスラエルの罪は、妻が夫を欺くような仕方でなされた。
このテーマも全体を通して反復されている。
かつて、彼らが淫行を行った「裸の山々」で、今彼らは、神に向かって、嘆き訴える声を上げている。
その現実を見て、神は、「背いたお前たちをいやす」と約束する。

22bからは、共同体による罪の懺悔と信仰の告白である。
かつて淫行を行った「山々での騒ぎ」、バアル宗教の影響を受けた祭りは偽りであり、この空しい偽りのゆえに、イスラエルは苦境に陥ったのである。
バアルは、「助けにならぬもの」であった。
主なる神にこそイスラエルの救いがあると彼らは今、告白する。
イスラエルがすべてのものを失ったのは、彼らがバアルに従ったからである。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
主である神に背き、
神でないものを神であると頼りにしてしまう、わたしたちの罪。
そうした罪をも、悔い改めて、何度も何度も「立ち帰れ」と繰り返し、呼び求めてくださる。
罪深いわたしたちを赦したまえ。
神おひとりを神と、主であると、信じさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


内村鑑三全集より「人生の目的」

2010年02月04日 | 内村鑑三全集を読む
わたし、内村鑑三、大好きなのです!!!
ほんとうに好き!!
読むと、ほんとうに恵まれます。
ほんとうに、目が覚めます。
そして心が熱くなり、泣けてきて、そして、また神を求めるようになります。
信仰に離れてきたと思ったりしたときには、内村鑑三を読めば、ぐいと引き戻されます。
内村鑑三の「一日一生」という本もすばらしいですが、
せっかく内村鑑三全集を古書で買い揃えたので、このブログでもカテゴリーを作って、いいなあと思うところを、ちょこっとづつ紹介していきますm(_ _)m


内村鑑三全集 32巻 岩波書店 より

『人生の目的

○幸福を楽しむ為の人生にあらず、完全に達する為の人生である。
完全に達するを得ば、或(あるい)はまた幾分なりとも完全に近づくを得ば、それで人生の目的は達せられたのである。
故に幸福可なり、不幸可なり、此目的にして達せらるれば可なりである。
そして品性を磨く為に、霊魂を完成する為に、不幸は幸福よりも効果多くある。
故に不幸は幸福よりも幸福である。
不幸は殊更に求むべきではないが、然(しか)れどもその身に臨むやこれを歓迎すべきである。
茲(ここ)に於(おい)てか使徒ヤコブの言(ことば)の意味深長なるを知る。
曰(いわ)く
 我が兄弟よ、若(も)し汝等(なんじら)様々の試誘(こころみ)に遇はば之を喜ぶべき事とすべし、そは汝等の受くる信仰の試みは汝等をして忍耐(しのび)を生ぜしむるを知ればなり。
汝等全く且(かつ)備わりて欠くる所なからん為に忍耐をして全く働かしめよ(ヤコブ書1章二、三、四節)
と。
即(すなわ)ち不幸艱難信仰の試みをして汝等を完成せしめよとの事である。
人生最上の得達は神に似ることである、神の子の模型に達することである。
使徒ペテロが曰(い)へるが如(ごと)し(ペテロ前書二章二二、二三節)
 彼れ(キリスト)罪を犯さず又その口に詭鐍(いつはり)なかりき、彼れ詬(ののし)られて詬らず、苦しめられて激しき言を出さず、只(ただ)義を以って鞫(さば)く者に自己を託(まか)せたり
と。
人は茲に至って救われたと称すべく、人生の最大幸福は実に茲に在るのである。

○近代人の模型たる芸術家ゲーテは恒(つね)に嘆じて曰うた「人生の此歓び、此悲しみは何の為なる乎(か)」と。
そして彼は己に問ふて己に答へ得なかった。然れども詩人ならず芸術家ならざるクリスチャンは此問に対し明確なる答を有(も)っている、
曰く「天の父が完全(まった)きが如くに完全からん為である」と。此歓び、殊に此悲しみは此の為である。
故に涙の雫(しづく)は真珠よりも貴いのである。死の苦しみにまで特殊の価値があるのである。
失望は得意よりも有利なるのである。世に憎まるる事が天に迎えらるるの途(みち)と成るのである。
今代の人が、其基督教会までが、成功成功と叫んで成功を人生最上の得達であると思ふは迷誤此上なしである。
イエスの御生涯が大失敗であった、故に大成功であったのである。
故に我等も亦(また)パウロと共に曰ふべきである
 之に因りて我れキリストの為に弱きと陵辱(はずかしめ)と空乏(ともしき)と迫害(せめ)と患難(なやみ)とに遇ふを楽しみとせり、そは我れ弱き時に強ければ也(コリント後書十二章十節)
と。
斯(か)く解して人生の意義は明白である。』