聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙 1章 ローマ訪問の願い その1

2009年07月23日 | 新約聖書日記
◆ローマ訪問の願い

『1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、

1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。

1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。

1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。

1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。

1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

1:8 First, I thank my God through Jesus Christ for all of you, because the whole world is hearing about your faith.

1:9 God is my witness that what I say is true-the God whom I serve with all my heart by preaching the Good News about his Son. God knows that I remember you

1:10 every time I pray. I ask that God in his good will may at last make it possible for me to visit you now.

1:11 For I want very much to see you, in order to share a spiritual blessing with you to make you strong.

1:12 What I mean is that both you and I will be helped at the same time, you by my faith and I by yours.

1:13 You must remember, my friends, that many times I have planned to visit you, but something has always kept me from doing so. I want to win converts among you also, as I have among other Gentiles.

1:14 For I have an obligation to all peoples, to the civilized and to the savage, to the educated and to the ignorant.

1:15 So then, I am eager to preach the Good News to you also who live in Rome.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解へつづく

マルコ福音書 8章 ベトサイダで盲人をいやす その2

2009年07月16日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『ここには奇跡物語の一連の要素が見られる。
1、病人の窮状(盲人は自分で歩くことができない)2、いやしの懇願
3、公衆の締め出し(盲人を村の外に連れ出す)4、いやしの所作
5、治癒の確証 6、秘密保持の命令
この物語は構成と用語において7・31~37に似ている。
しかし、他の治癒奇跡物語と比較してここで特に目立つのは、いやしが段階的に行われていることである。
マルコは14~21節で絶望的とも思える弟子達の無理解を浮き彫りにした直後に、盲人のいやしの伝承を置く。
これに続いてペトロはイエスはメシアと告白するが、それ以後もペトロをはじめ弟子たちがイエスを真に理解していないことは、彼らの言動から明らかである。
マルコはこのような暗い弟子描写の中に盲人の段階的ないやしの伝承を挿入し、
弟子達の無理解もやがてイエスによって取り除かれることを予示しようとしたのかもしれない。

「この村に入ってはいけない」は間接的な意味での秘密保持の命令である。
しかし村の外に盲人を取れ出していやしたイエスが、彼を家に帰しながらこのように命じているのは、話としては矛盾しているように思われる。
盲人の家は村の外にあったが、盲人は村の中にいたイエスのもとに連れてこられた、と考えられているのであろうか。
だがこの種の史的関心は伝承の担い手にも福音書著者にもない。
彼らの関心は奇跡の秘密性を際立たせることにある。』


新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『この奇跡物語では、癒しが段階を追って起こることが目立つ。
もう一つの特色は、喝采の叫びがなく、代わりに、23節で村から連れ出したイエスが「決して村の中に入るな」と命じる。
従って、人々には隠された出来事である。
叱責された弟子達が見えるようにされることを表す出来事と説明されることが多いが、不明である。
むしろ8・27以下への場所と時間の移行を確保することであろう。』


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 をまとめて。
『マルコは、先のパン種問答の中でイエスが言われた「目がありながら見えないのですか」ということばの一つの現実的表現として、
またつづくペトロの信仰告白と受難の予告の伏線として、このいやしの物語を記している。
この奇跡には二つの特色がある。
一つは、イエスはその人を村はずれに連れ出して目を直し、再び村に入らないようにと彼に命じられたことである。
これはいやしが愛のわざで見世物ではないからであり、また見えるようになったときのショックを少なくするための二重の配慮であると言えよう。
もう一つは、いやしが徐々に行われたことである。
彼は、最初は「木のようです」と言い、次に「すべてのものがはっきり見えるようになった」と言っている。
弟子達が霊的真理に対して目が開かれるのもこれと同じである。
初め彼らは盲目であるが、繰り返し語られるイエスのことばによってしだいに目が開かれていく。
だからイエスは、弟子達が霊的に盲目であることを悲しんでも、決して絶望されなかった。

イエスが盲人の目を開けてから、村へ入らないように命じて家に帰されたその理由の一つは、見えるようになった彼をできるだけそっとしておいてやるためである。
もう一つの理由は、民衆に対する配慮である。
イエスは民衆の誤った期待が大きくなり、パリサイ人との対立が深まることを、決して望んではおられなかった。
イエスが望まれたのは、民衆が神の国の福音を信じ、弟子達が真理と現実に目覚めることであった。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
最初神の恵みに盲目であった私たちを、根気よく徐々に見えるようにしてくださるイエスさまに、感謝します。
また、イエス様の奇跡だけを欲して、神の国の福音を信じることができないままでいるということが無いように、
そうイエス様が望まれていることを理解することができますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マルコ福音書 8章 ベトサイダで盲人をいやす その1

2009年07月13日 | 新約聖書日記
◆ベトサイダで盲人をいやす
『 8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。

8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

8:22 They came to Bethsaida, where some people brought a blind man to Jesus and begged him to touch him.

8:23 Jesus took the blind man by the hand and led him out of the village. After spitting on the man's eyes, Jesus placed his hands on him and asked him, "Can you see anything?"

8:24 The man looked up and said, "Yes, I can see people, but they look like trees walking around."

8:25 Jesus again placed his hands on the man's eyes. This time the man looked intently, his eyesight returned, and he saw everything clearly.

8:26 Jesus then sent him home with the order, "Don't go back into the village."』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)



新約聖書注解などへ、つづく

エレミヤ書1章 エレミヤの召命 その3

2009年07月09日 | 旧約聖書日記
つづき


『第二の単元(九~十節)では、象徴的行為を伴う預言者への任命が行われ、その職務の内容が明らかにされる。
神はエレミヤに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだね、諸国民、諸王国の運命について、抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える権能を与えるという。
その権能の執行は、神の言葉による。
諸国民の運命を究極的に支配しているのは神の言葉である。
預言者は、その神の言葉を授けられて、それを語らねばならない。
エレミヤにとって「主の言葉」は、心の中で火のように燃え上がる力であって、押さえることのできない働きをするものであった。
エレミヤの権威は、このように神の言葉が持つ力による。
エレミヤの時代に、文字通り、諸国民、諸王国が、抜き、壊し、滅ぼし、破壊しという運命に直面したのである。
これらの言葉をエレミヤは、しばしば、預言の中で使っている。
(エレミヤ18・7、9、24・6、31・28、42・10、45・4)

第三の単元(十一~十六節)は、エレミヤが召命のときに見た幻とその意味を記している。
もともとは、十一節から十五節の二行目までであったろう。
十五節の三行目から六行目までは、「北からの災い」をバビロンと解するための付加であり、十六節は申命記学派的な加筆である。
エレミヤが見た第一の幻は、アーモンドである。
ヘブライ語でシャーケードというが、この言葉の発音は「見張っている」というヘブライ語ショーケードと似ている。
神は、「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と言われる。
世界史の転換は、人間の混乱の結果と見ることもできるが、それを越えて、神はその意志を実行しようとして「見張っている」というのである。
この言葉も、エレミヤの預言の要所に使われている。
(エレミヤ5・6、31・28、44・27)5・6はは比喩的に「豹が町々をねらい」という句に使われている。31・28には二度使われているが、破壊も再建も神の業であるとしている。
次の幻は、煮えたぎる鍋であり、それが北からエレミヤの方に傾いている。
この幻は、「北から災いが襲いかかる」ことを意味している。
「北からの災い」は、当時の世界を深刻な不安に陥れた騎馬民族のスキタイ人を指しているであろう。

エレミヤが託される「神の言葉」は、諸国民、諸王国を抜き、壊し、建て、植える力を持つ。
この力は、本来いわば自動的に人間の介入無しに定められたことを実現しうるものであろう。
しかし、神が言葉を預言者にゆだねた以上、預言者と預言者の言葉を聞く者は、語られた言葉に、主体的に責任を持って対応しなければならない。
そこには、当然大きな抵抗が待ち構えている。
神はエレミヤに命じる。
「あなたは腰に帯を締め
立って、彼らに語れ
わたしが命じることをすべて。
彼らの前におののくな
わたし自身があなたを
彼らの前でおののかせることがないように」(17節)
厳しい命令である。
「腰に帯する」は、通常、武装を意味する。
神の言葉によってのみ立ち上がって、諸国民、諸王国のあらゆる権力に、何一つ武器を持つことなく対峙しなければならない。
この無防備の若者を神は、この国の全土に対して「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」として立ち向かわせると、約束する。
結びの言葉(19節)は、勝利と救助の約束である。
第一の単元の結びの言葉が、最後に繰り返されて、全体を締めくくっている。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
『神の言葉は、本来いわば自動的に人間の介入無しに定められたことを実現しうるものであろう。
しかし、神が言葉を預言者にゆだねた以上、預言者と預言者の言葉を聞く者は、語られた言葉に、主体的に責任を持って対応しなければならない。
そこには、当然大きな抵抗が待ち構えている。』
わたしたちは、神の言葉を聞く者として、責任をもって対応することが望まれています。
どうか、聞くだけで終わる者でなく、神の言葉を語り、そして神の言葉を実行できる者でありますように。
神は助け救う力を持っておられます。
わたしたちを助け救ってくださることに望みをおき、神の言葉を行えますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

エレミヤ書1章 エレミヤの召命 その2

2009年07月04日 | 旧約聖書日記
つづき

旧約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『1・1~3表題
一節の最初の言葉は、「エレミヤの言葉」である。
この「言葉」とは、ヘブライ語のダーバール。
二節の最初に、関係代名詞があって、一節の最初の言葉にかかっている。
すなわち、「エレミヤの言葉」というのは、以下に記す時代にエレミヤに臨んだ「主の言葉」だというのである。
エレミヤの言葉であると言っても、単にエレミヤの言葉なのではなく、「彼に臨んだ主の言葉」である。
これが表題の言わんとする第一のことである。

一節の以下に続く言葉は、エレミヤを紹介している。
神の言葉は、具体的な人物を通して、具体的な歴史的状況に語りかけられる。
抽象的・客観的真理ではなく、具体的な指示、命令、警告、また勧告であり慰めの言葉である。
聞くものの主体的応答を求める言葉である。
正当な理解が必要であるが、理解にとどまるのではなく、それに対する決断と行動が求められる。
エレミヤが、神の言葉を語れば、その言葉を聞く者との間になんらかの出来事が起こってこざるをえない。
預言者は、語った言葉によってひき起された出来事にも責任を負わざるをえない。
そのような言葉をエレミヤは、40年以上の年月にわたり語り続けた。

列挙されている王の名は、三名であり、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤの名が挙げられている。
エレミヤが活動した時代に、さらに二人の王がいるが、ヨアハズとヨヤキンである。いずれも三ヶ月しか在位しなかったので、年代上は上げる意味が無いとも言えよう。
ヨシヤ王の第十三年は、紀元前627年であり、ゼデキヤの第十一年は紀元前587年である。
エレミヤの活動は、ゼデキヤの第十一年にユダ王国が滅び、バビロンがユダの総督として立てたゲダルヤのときに及んでいるが、そのことについても表題には記されていない。
エレミヤの活動は、紀元前627年から587年とすれば、ちょうど40年であり、それ以後の活動期間を加えれば、42年くらいであろう。

1・4~19エレミヤの召命
預言者の召命の記事は、モーセ、イザヤ、エゼキエルなどの場合に典型的に見られる。これらの召命の記事とエレミヤの場合とを比較してみることは重要である。
エレミヤの召命の記事は、特にモーセのそれと似た点を多く持っている。
この召命の記事は、四つの単元に分けて考えることにしたい。
(1)四~八節(2)九~十節(3)十一~十五節(十五b~十六節)(4)十七~十九節。

第一の単元(四~八節)は、任命と拒否と再確認である。
神の言葉は、圧倒的力をもってエレミヤに臨んだ。
神はエレミヤを母の胎内に造る前から知り、母の胎から生まれ出る以前に聖別したという。
第二イザヤは、「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」と言っているが、それにも勝る根源的な召命の意識である。
エレミヤの職務は「諸国民の預言者」である。
この神の呼びかけを、エレミヤは拒否して、わたしは語る言葉を知らず、若者にすぎないと言う。
かつて、同胞を助けようとして挫折したモーセも、神の召命を拒否している。
しかし、モーセを励まして、その使命に向かわせたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束であった。
エレミヤを励まして、使命へと向かわせた言葉も、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という言葉であった。
エレミヤは、自分のことを「若者」と言っている。
成人するのが早い古代の社会では、二十歳未満の青年と見るのが妥当であろう。
そのような若者に向かって、激動する諸国民の世界の中で、諸国民の将来を予見しながら、自国の運命を担えと言うのである。
その課題の前に、ひるみ、たじろぐのは当然であろう。
しかし、神はだれのところへでも、行って、命じることをすべて語れといわれる。
ファラオのところに遣わされるモーセと同様の課題をエレミヤは神から受けた。』



その3へ、つづく。