聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エレミヤ書1章 エレミヤの召命 その1

2009年06月30日 | 旧約聖書日記
『 1:1 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。

1:2 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、

1:3 更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。

◆エレミヤの召命

1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。

1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」

1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。

1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。

1:9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。

1:10 見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」

1:11 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」

1:12 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」

1:13 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」

1:14 主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる/この地に住む者すべてに。

1:15 北のすべての民とすべての国に/わたしは今、呼びかける、と主は言われる。彼らはやって来て、エルサレムの門の前に/都をとりまく城壁と/ユダのすべての町に向かって/それぞれ王座を据える。

1:16 わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。

1:17 あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。

1:18 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。

1:19 彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われた。

1:1 This book is the account of what was said by Jeremiah son of Hilkiah, one of the priests of the town of Anathoth in the territory of Benjamin.

1:2 The Lord spoke to Jeremiah in the thirteenth year that Josiah son of Amon was king of Judah,

1:3 and he spoke to him again when Josiah's son Jehoiakim was king. After that, the Lord spoke to him many times, until the eleventh year of the reign of Zedekiah son of Josiah. In the fifth month of that year the people of Jerusalem were taken into exile.

1:4 The Lord said to me,

1:5 "I chose you before I gave you life, and before you were born I selected you to be a prophet to the nations."

1:6 I answered, "Sovereign Lord, I don't know how to speak; I am too young."

1:7 But the Lord said to me, "Do not say that you are too young, but go to the people I send you to, and tell them everything I command you to say.

1:8 Do not be afraid of them, for I will be with you to protect you. I, the Lord, have spoken!"

1:9 Then the Lord reached out, touched my lips, and said to me, "Listen, I am giving you the words you must speak.

1:10 Today I give you authority over nations and kingdoms to uproot and to pull down, to destroy and to overthrow, to build and to plant."

1:11 The Lord asked me, "Jeremiah, what do you see?" /I answered, "A branch of an almond tree."

1:12 "You are right," the Lord said, "and I am watching to see that my words come true."

1:13 Then the Lord spoke to me again. "What else do you see?" he asked. /I answered, "I see a pot boiling in the north, and it is about to tip over this way."

1:14 He said to me, "Destruction will boil over from the north on all who live in this land,

1:15 because I am calling all the nations in the north to come. Their kings will set up their thrones at the gates of Jerusalem and around its walls and also around the other cities of Judah.

1:16 I will punish my people because they have sinned; they have abandoned me, have offered sacrifices to other gods, and have made idols and worshiped them.

1:17 Get ready, Jeremiah; go and tell them everything I command you to say. Do not be afraid of them now, or I will make you even more afraid when you are with them.

1:18 -19 Listen, Jeremiah! Everyone in this land-the kings of Judah, the officials, the priests, and the people-will be against you. But today I am giving you the strength to resist them; you will be like a fortified city, an iron pillar, and a bronze wall. They will not defeat you, for I will be with you to protect you. I, the Lord, have spoken."』

(日本聖書協会 聖書 和英対象 和文/新共同訳 英文/TEV エレミヤ書より)


旧約聖書注解などに、つづく


ローマの信徒への手紙 1章 挨拶 その3

2009年06月21日 | 新約聖書日記
その2からの、つづき

『「福音」の原義は「良い知らせ」、「朗報」であるが、当時一般的に「知らせ」というほどの意味で用いられていた。
しかし教会では、キリストによって神が人類に与えられた救いという特別な出来事を指し、さらにパウロはこの語を特別な仕方で絶対的な意味に用いている。
その意味を解説することはそのままパウロ書簡の内容を語ることである。
ただ、彼の福音理解が独特な深さを持っているということは、彼以前の教会の福音理解と無関係であるというわけではない。
パウロはその福音理解を示すために、2~4節に長い挿入句を導入している。
その中心核は初代教会の伝承である。

まず、福音とは、新しいけれども未知のものではない。「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」なのである。
「聖書」は旧約聖書のこと。旧い契約・約束と解するのはキリスト教の側の解釈。
キリスト教徒はその約束がキリストの出来事において成就したと考え、その出来事を記した書を新約聖書と呼び、区別する必要があるからそう呼んだ。
いずれにせよ、初代教会の人々にとって聖書はただ一つ「旧約」聖書があったのであり、福音はそれを通して知られるのである。
「預言者」は単に未来を言い当てる者ではなく、神の言を預かってそれを語る者で、ここでは旧約の重要な一部をなす預言書を指す。
福音の内容は「御子」という一点に集中している。子なるキリストは福音を語る主体ではなく、その内容なのである。
「神の子」は元来イスラエルそのものを指し、即位する王を指した。しかしここでは「キリスト賛歌」と同様に、神と等しい存在を意味する。
3~4節でパウロは初代教会の礼拝式文の一部を導入している。
「肉と霊」の対比はパウロの思考の枠であるから彼が盛り込んだ可能性を考える者もいる。
「肉による」と「聖なる霊による」は、後の教会の教義で重要な、キリストの「人性」と「神性」を対句的に語っているととるよりは、イエスの歩みを地上と天上の二段階に分けて述べていると考えるべきであろう。
旧約以来メシアはイスラエルの理想の王「ダビデの子孫」として生まれると信じられてきた。
しかしイエスは単なる政治的メシアではなく、復活と高挙によって神の子として即位したと主張される。
パウロはこの神の子イエスを「主イエス・キリスト」と言い換える。
「主」称号は「キュリオス・イエスース」(イエスは主なり)という、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒の間で極めて早い時期に形成された信仰告白に由来し、
教会の主を、全宇宙の諸力の主と対立させ、それを越えて統治するものとして告白するものであり、
また異邦人の教会においては密儀宗教の神々の上に立つ支配者としてのキリスト告白として確立したものである。

この主、この福音にパウロは自己紹介をつなげる。福音とそれを伝える者とは不可分だからである。
「御名を広め」は御子を内容とする福音宣教のこと。
「信仰による従順」は、倫理的意味は持たず、福音の出現以来、最後の不信の攻撃に立ち向かうキリスト教徒の基本的態度を示す。
「異邦人」の原義は「もろもろの民」で、神の民イスラエル以外の諸民族の総称。
「恵みを受けて使徒とされ」の原文は「恵みと使徒の務めを授かった」であり、このことはパウロにとって恵みと使徒の職務が一つの事柄として受け取られていることを意味する。
6節からローマの集会の主たる構成員が異邦人キリスト教徒であったことを読み取ることができる。
7節に受信人の記述と挨拶が来る。
「神に愛され」、「召されて聖なる者となった」者たちとは、ともに「神に選ばれた者」の意で、ここではキリスト教の信徒を指す。
「聖なる」は元来道徳的ではなく祭儀的意味を持つが、いずれにせよ、神の前に立つことが許された状態、神にふさわしい事態を意味する。
「父である神」と「主イエス・キリスト」の平行はそのキリスト教化を意味し、パウロが教会においてつねに祝福の言葉として語ったものに由来するのであろう。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
異邦人の中にありながら、イエス・キリストのものとなるように召された者となったことに、感謝します。
神に愛され聖なる者となることができたことに、感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


ローマの信徒への手紙 1章 挨拶 その2

2009年06月18日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 をまとめて。
『パウロ書簡の書き出し部分は、発信人と受信人の名前、挨拶、感謝の言葉からなっている。
本書の場合、他の手紙と比較して最も長い説明句が付け加えられている。
これは面識の無いローマに居る信徒達に対して自己紹介を兼ねて、自分の福音理解を冒頭から述べておく必要をパウロが感じていたことによる。
「感謝」の中で本書の執筆の動機であるローマ訪問の願いが語られ、それに続いて、本書のいわば表題とも言うべき「宣言」(16~17節)が述べられる。

1・1~7挨拶
発信人はパウロ、受信人は「ローマ」在住の信徒達である。

わずかな資料から言えることは、
パウロがキリキアのタルソス生まれで、ローマ帝国の市民権を持っていたこと、ベニヤミン族出身のユダヤ人で、律法遵守に厳格なファリサイ人であったこと、
そのために初代のキリスト教徒を激しく迫害し、ダマスコへの途上で劇的な回心を体験したこと、
その後、最も影響力のある宣教師、とりわけ異邦人伝道の担い手として多くの苦難や投獄を経験しながら小アジア、マケドニア、ギリシアに伝道し、
エルサレムの保守派勢力の讒言によってローマの官憲に捕縛され、60年代初めにローマ帝国の首都で殉教したこと、などはほぼ確かであろう。

パウロは、イエス・キリストによってもたらされた、神の救済の歴史の終りに立っているという自覚の下に、イエスの十字架を共にする苦難の道が逆説的な仕方でその復活を共にすることになるのだという確信、神の真実を信じる信仰によって神の前に義と認められる信仰義認を展開した。
その考え抜かれた宗教思想は、彼をキリスト教神学の祖とするに足るものであるが、その神学思想は決して後の教会が彼に押し付けたような体系的組織的なものではなかったし、その後のあらゆる問題を解決する魔法の壺などではないことはいうまでもない。

まず、彼は、「キリスト・イエスの僕」と自己紹介する。
「僕」は奴隷とも訳せるが、ここでは従属や謙遜を意味せず、旧約における「神の人」「預言者」の尊称に由来する。旧約の「神」の位置に「キリスト・イエス」が来ているのである。
「キリスト」はナザレのイエスの称号として用いられたが、パウロにおいては「救い主」の意でほとんど固有名詞のように用いられている。
つぎに彼は「使徒」と自分を自己紹介する。
原義は「遣わされた者」。これはイエスの十二弟子に由来するエルサレム教団の「十二人」を指すという伝統的解釈もあるが、歴史的には初代教会においてはその他にも使徒と呼ばれていた人々が居た。
しかしここでパウロがわざわざ使徒と自分を呼ぶのは、彼の使徒性がつねに問題となっていたためであり、そうした彼の反対者の主張が念頭にあったためかもしれない。
このことは、その形容句「召されて・・・なった」にも現れている。
使徒とは自分でなるものではなく、神の働きかけ、召命によるのである。
さらにもう一つの形容句、「神の福音のために選び出され」が彼の使徒理解を鮮明にしている。
使徒とは決して地位や職制ではない。
福音宣教に従属し、その目的へと選別されることなのである。


その3へ、つづく