聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記7章 ハマン、失脚する

2008年09月16日 | 旧約聖書日記
◆ハマン、失脚する
『 7:1 王とハマンは、王妃エステルの酒宴にやって来た。

7:2 この二日目の日も同様に、ぶどう酒を飲みながら王は言った。「王妃エステルよ、何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」

7:3 「王よ、もしお心に適いますなら」と王妃エステルは答えた。「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。

7:4 私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」

7:5 クセルクセス王は王妃エステルに、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と尋ねた。

7:6 エステルは答えた。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。」ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。

7:7 王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。

7:8 ハマンがエステルのいる長いすに身を投げかけているところへ、王宮の庭から王が酒宴の間に戻って来た。王は言った。「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から発せられるやいなや、人々はハマンの顔に覆いをかぶせた。

7:9 宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。

7:10 こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。


7:1 And so the king and Haman went to eat with Esther

7:2 for a second time. Over the wine the king asked her again, "Now, Queen Esther, what do you want? Tell me and you shall have it. I'll even give you half the empire."

7:3 Queen Esther answered, "If it please Your Majesty to grant my humble request, my wish is that I may live and that my people may live.

7:4 My people and I have been sold for slaughter. If it were nothing more serious than being sold into slavery, I would have kept quiet and not bothered you about it; but we are about to be destroyed-exterminated!"

7:5 Then King Xerxes asked Queen Esther, "Who dares to do such a thing? Where is this man?"

7:6 Esther answered, "Our enemy, our persecutor, is this evil man Haman!" /Haman faced the king and queen with terror.

7:7 The king got up in a fury, left the room, and went outside to the palace gardens. Haman could see that the king was determined to punish him for this, so he stayed behind to beg Queen Esther for his life.

7:8 He had just thrown himself down on Esther's couch to beg for mercy, when the king came back into the room from the gardens. Seeing this, the king cried out, "Is this man going to rape the queen right here in front of me, in my own palace?" /The king had no sooner said this than the eunuchs covered Haman's head.

7:9 Then one of them, who was named Harbonah, said, "Haman even went so far as to build a gallows at his house so that he could hang Mordecai, who saved Your Majesty's life. And it's seventy-five feet tall!" /"Hang Haman on it!" the king commanded.

7:10 So Haman was hanged on the gallows that he had built for Mordecai. Then the king's anger cooled down.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV エステル記より)


注解書へつづく

マルコ福音書 シリア・フェニキアの女の信仰 その3

2008年09月14日 | 新約聖書日記
つづき


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『人種差別は、今日も世界のいたるところで見られる悲しい現実である。
しかし今から二千年前のユダヤの世界においては、人種と宗教によってユダヤ人以外の者は完全に差別されていた。
イエスは一般に不信の世界とみなされていた異邦人の地で真実の信仰を見出され、多くの奇蹟を行われるのである。
マルコはそれらの奇蹟を通して人々の信仰を描き、イエスが世界のメシアであることをここでも語っていく。

イエスはガリラヤ地方を去って、異邦人の世界に入って行かれた。
初めからイエスが異邦人伝道を目指しておられたとは思われないが、一人の女との出会いによって異邦人世界にも神の国が伝えられることになった。
その歴史的、また霊的意義はきわめて大きい。
マルコはユダヤ人の霊的盲目と対比させながら、その異邦の女の信仰を描いている。

女はギリシア人であると言われているが、それはとりもなおさず異邦人という意味である。
イエスが来られたと聞くと、すぐにみもとに駆けつけ、足元にひれ伏して娘から悪霊を追い出してくださいと懇願し続けた。
ところが、それに対するイエスの答えは、これまでになく冷たいものであった。
イエスの答えは比喩によって構成され、その難解さは多くの注解者を悩ませてきた。
「子供たち」がユダヤ人を、「小犬」が異邦人をさしているのはすぐ分かるが、ではなぜ異邦人を小犬と見下したように呼び、女の切実な願いを退けられたのであろうか。
選民意識のゆえか、それともイスラエルに対する使命のゆえであろうか。
小犬というのは決して軽蔑のことばではないという説や、
だれが子供でだれが小犬かは問題で無く、必要としている者から取り上げてはならないということを言いたかったのだという説もある。
しかし、フェニキヤ女の願いを退けることによって、イエスは彼女の信仰をさらに深められたと理解するのが最も自然である。
イエスは女の信仰を呼び覚まし、確かなものとするために、あえてこのような答えをされたのであろう。
フェニキア女は、イエスの突き放すような言葉に失望しなかった。
彼女は、自分が異邦人であることも、イエスの使命もすべてわきまえたうえで、ひたすら神の恵みとあわれみを願い求めた。
そこに彼女の信仰がある。
わたしたちも人間的に自尊心を傷つけられても、ひたすら神に求め続けよう。
人間的なこだわりを越えて神の前に進み出たときに、真実の信仰が生まれるからである。

するとイエスは言われた。
「そうまで言うのですか。」
直訳すると「そのことばのゆえに」となり、イエスは彼女の謙遜な心とご自身への絶対の信仰を認めて高く評価しておられる。
そして彼女は、その謙遜と信仰によって、大きな祝福を受けることができた。

このフェニキア女の話には、彼女の信仰とイエスの全能の力が強調され、また何よりも神の国がユダヤ人だけでなく異邦人の世界にも及んだことが明らかにされている。
神の国は、ユダヤ民族だけのものでなく、すべての国民にも等しく与えられるものである。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
異邦人への祝福と伝道が示されたことを感謝します。
ただひたすら祈り求めることの大切さを、あらためて知りました。
信仰と憐れみと祝福が与えられますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書 シリア・フェニキアの女の信仰 その2

2008年09月02日 | 新約聖書日記
つづき

ここの聖書箇所の解釈は、3つの注解本によってかなり異なります。イエス様の少々冷たく感じられる態度や言葉の解釈が難しいなあと思います。


新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『「ティルス」は、明白な非ユダヤ人地域である。
まずイエスの隠れて留まろうとする明白な意志が示される。その姿勢は、非ユダヤ人の女性に対する否定的な姿勢にも通じる。

27節この論理は一方を「子供」、他方を「犬」と比較するところから始まる。
この比較を許すのは唯一、神によるイスラエルの選びという救済史的観点からである。イエスはイスラエルに遣わされた者として、異邦の女に対して明白に拒絶的である。

28節しかしその女は、子供のパンを犬から守ろうとするイエスに、彼が子供との関係を損なうことなく、犬と比較された者にパンを与える可能性を指示する。
食卓からこぼれるパンくずを犬が食べることを否定する理由は無いからである。

29節この言葉がイエスの拒絶を解かせる。「それほど言うなら、よろしい」の原文は「この言葉のゆえに」である。

非ユダヤ人を「異邦人」とする救済史的差別はゆるがず、その破棄はまだ視野に入っていない。
だが、その枠内にあっても、イエスが非ユダヤ人に対して自らを隠す必要はないことを、ひとりの女性が捨て身で示した物語である。』


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『「ギリシア人」はここではギリシア語を使うなど文化的にギリシア的な生活をしていた非ユダヤ人を指す。

27~28節「子供たち(ユダヤ人)のパン(救い)を取って、小犬(異邦人)にやってはいけない」という比喩は異邦人伝道に消極的なユダヤ人キリスト教徒の立場を端的に表しているように思われる。
ユダヤ人は異教徒を犬と呼んだが、ここでは指小辞「子犬」―子供と同じように家の中で食物をもらうペット―が使われ、軽蔑的な意味合いはあまり感じられない。
27節aの発言は「まず」ユダヤ人、次に異邦人という救いの救済史的順序を述べており、27節bとはニュアンスが異なる。
27節aは27節bを修正するために伝承の過程かマルコの編集の段階で付加されたのではなかろうか。
機知に富んだ女の返答もむしろ27節bに対応する。

29節~30節イエスは女の熱意と信仰を喜び、娘の救いを約束し、その救いは実現する。
われわれのペリコーペ(☆)は異邦人伝道に対する一部のユダヤ人キリスト教徒の消極的姿勢を越えて、
救済史におけるユダヤ人の特別の地位を認めた上で、
異邦人の信仰を予期して、異邦人伝道を進めるべきであるという教会の考え方を表している。
マルコは言い伝えに固執してイエスに心を開かないユダヤ教指導者たちの姿を背景に、イエスの救いを熱心に求める異邦人の信仰を鮮やかに描き出している。』

☆ペリコーペ・・・もとは礼拝での朗読のために区切られた聖書の段落。すでにユダヤ教会での礼拝で、このような段落での区分がなされていた。
今日では、ある程度まとまった聖書の段落を指す聖書学の用語。



新聖書講解シリーズ マルコの福音書 いのちのことば社 へつづく