聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

聖書通読 ルカ

2012年07月24日 | 新約聖書日記
聖書通読

ルカ8章
チェーン式新改訳聖書、使用。

今日はお休み。
朝から聖書を読めた。
しっかし、仕事のこと、職場のことが、気がかりでうっとうしくて。
なかなか聖書に集中できない(⌒◇⌒;)
困ったことで。

ローマの信徒への手紙3章 信仰による義 その2

2012年02月16日 | 新約聖書日記
前回の投稿から、ほんとに長いこと間が空いてしまった(⌒◇⌒;)ああ
仕事が忙しくなったからと、言い訳できない。
世の煩いに悩まされていたと、言い訳できない。
いかんなああああ。
サタンに負けてはいけない。
神さまから離れてはいけない。
サタンは神さまから離れさせようといつも人間を世の煩いへ誘惑している。
サタンに打ち勝つために、聖書ブログを投稿しようと注解書を開いてみた。
が、この聖書箇所の注解は、難しくて頭が混乱してきた。
まとめられない(⌒◇⌒;)
うががが。
大変!!!
ので、ほとんど、そのまま転記のようになってしまう。
でも、ぼつぼつと進んでいくしかないな。

では。
つづき

新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『全人類の罪が弁解の余地なく明らかにされた今、信仰による義が定義され、解説される。

21節「ところが今や」というこの新しい書き出しは、長い人類の罪の歴史からそれが終止符を打たれる瞬間へと読者を導く。
パウロの言行のすべてはこの歴史の終わりに立つという意識によって規定されている。
新約聖書の各文書は、終末に関して、それはイエスの出来事によって実現したという「現在的終末論」とそれはやがて来るという「未来的終末論」との間で様々に考えられている。
パウロの場合「いまだ」と「すでに」の緊張関係の中で終末は既に始まっていると意識されている。
この意識に支えられて「神の義」が新しく終末の出来事そのものとしてとらえ直される。この場合「義」は、単に神の属性や性質、正義とか恩義といった道徳的・社会的徳目ではなく、人間と神との関係を作り出す救いの働きを意味する。
この終末論的出来事は、前段までの確認から明らかなように「律法と預言者によって立証されて」示される。
キリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいるものをユダヤ教徒は正式には「律法と預言者たちと諸書」あるいは略して「律法と預言者」または短く「律法」と呼ぶ。
キリスト教徒はそれをキリスト証言として理解する。
パウロは律法のわざによる救いは否定するが、神の民の歴史における神のわざと福音の連続性は重視する。

22節「神の義」は律法の所有ではなく、「イエス・キリストを信じること」によって「信じる者すべてに与えられる。
これを「イエス・キリストの真実によりすべての信仰者に」と解することも不可能ではないが、全体の文脈からは新共同訳が自然であろう。
罪の普遍性に対応してここでは信仰の普遍性が「そこには何の差別も」ないと強調される。

23節は罪の普遍性が個々人の罪の現実に対応していることを明らかにしている。
原罪が個人の罪過として現実となることは5・12以降で再度取り上げられる。
「栄光は古代人にとっては具体的に夜空の星の輝きであり、正しい人々が終わりの日にそれに浴するという希望と結びついたイメージであるが、これは神の似像を意味し、アダムの堕罪によって失われてしまったものである。

パウロは普遍性の議論を罪のそれから信仰のそれへと移行させ
24~26節に贖罪論的キリスト論の伝承を導入する。』


つづく

ローマの信徒への手紙3章 信仰による義 その1

2011年09月14日 | 新約聖書日記
◆信仰による義

『 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。

3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

3:21 But now God's way of putting people right with himself has been revealed. It has nothing to do with law, even though the Law of Moses and the prophets gave their witness to it.

3:22 God puts people right through their faith in Jesus Christ. God does this to all who believe in Christ, because there is no difference at all:

3:23 everyone has sinned and is far away from God's saving presence.

3:24 But by the free gift of God's grace all are put right with him through Christ Jesus, who sets them free.

3:25 -26 God offered him, so that by his blood he should become the means by which people's sins are forgiven through their faith in him. God did this in order to demonstrate that he is righteous. In the past he was patient and overlooked people's sins; but in the present time he deals with their sins, in order to demonstrate his righteousness. In this way God shows that he himself is righteous and that he puts right everyone who believes in Jesus.

3:26

3:27 What, then, can we boast about? Nothing! And what is the reason for this? Is it that we obey the Law? No, but that we believe.

3:28 For we conclude that a person is put right with God only through faith, and not by doing what the Law commands.

3:29 Or is God the God of the Jews only? Is he not the God of the Gentiles also? Of course he is.

3:30 God is one, and he will put the Jews right with himself on the basis of their faith, and will put the Gentiles right through their faith.

3:31 Does this mean that by this faith we do away with the Law? No, not at all; instead, we uphold the Law.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解へつづく

マルコ福音書9章 逆らわない者は味方 その2

2011年09月12日 | 新約聖書日記

つづき

新約聖書注解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『すべての人に仕えるべき弟子たちには、外の人々に対しても開かれた姿勢、
寛容の精神が求められる。』


新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『ヨハネの発言が、新しい問題を提起する。
弟子集団と外部との境界線上に立つ人の扱いをめぐる。
イエスの名で悪霊追放を行いながら、十二人に従わない者を「やめ・・・させました」。
しかし、イエスは「やめさせてはならない」と答える。
新共同訳は言葉を合わせないが、10・14でも繰り返される禁止である。
阻止でなく、受容が求められている。
その理由として三つの言葉が続く。
特に第二の言葉は、排他的なマタイ12・30の並行箇所に対して、異なる立場の者を積極的に受け止める大きな包容力を示す。
第三の言葉は「キリストの(者だ)」という理由で一杯の水を与える人にも報いる神の大きな包容力から、「止めさせるな」を基礎づける。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
すべての人に仕えることができますように。
すべての人に寛容であれますように。
支え、導き、お守りください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書9章 逆らわない者は味方 その1

2011年09月07日 | 新約聖書日記
◆逆らわない者は味方

『 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

9:38 John said to him, "Teacher, we saw a man who was driving out demons in your name, and we told him to stop, because he doesn't belong to our group."

9:39 "Do not try to stop him," Jesus told them, "because no one who performs a miracle in my name will be able soon afterward to say evil things about me.

9:40 For whoever is not against us is for us.

9:41 I assure you that anyone who gives you a drink of water because you belong to me will certainly receive a reward.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文/新共同訳 英文/TEV マルコによる福音書より)



新約聖書注解へつづく

ローマの信徒への手紙3章 正しい者は一人もいない その2

2011年09月03日 | 新約聖書日記

つづき。


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『1節で提起されたユダヤ人の優位性に関する問いの答えが、2節と9節では正反対になっている。
神の真実はユダヤ人の優位性を放棄しないが、それはユダヤ人の中に優位性を主張し得る何かがあるからではない。
そんなものは「全く」無いのである。
「罪の下に」全人類が立っている。ユダヤ人とて例外ではない。
このことが旧約聖書からの引用によって確証される。
1・18以下でさまざまに暴かれた諸悪行は、ここで「罪」(ハルマティア)という語で総括的に表現される。
この語は、パウロが神に対する人間の基本的な姿を表現する重要な鍵言葉である。
7・7以下で展開されるように、この「罪」は、この世界を支配する力であり、神はその怒りにおいてこの世界をこの力に引き渡すのである。
「罪」は全人類を例外なしに覆うと共に、個々人はその現実を代表する。
10~18節は旧約聖書のギリシア語訳からの複数の、また解釈や組み合わせによるかなり自由な引用である。
旧約聖書が全体として神の民のこのような罪性を語っているわけではない。
ここでは神の民の背信を暴くことに注意が向けられている。
「彼らの目には神への畏れがない」という締めくくりは、その前に語られている具体的な罪の根にあるものを総括している。
神に対するこの不遜さは13節以降のほとんど呪いにも似た調子からもうかがえるように、ユダヤ人に対する強い断罪である。
しかしこれは、ユダヤ人という一民族に向けられているというよりは、神に近いと自負する人間一般の不遜さをも含むと解すべきである。
神の言葉が委託されているユダヤ人が神の怒りの下に立つとすれば、もはや誰一人神の前に立ちえる者はいないからである。
「律法の下にいる人々」、ユダヤ人が立ち得ないとすれば、「すべての人」の誇りが粉砕され、「全世界が神の裁きに服」さざるを得ない。
神の言葉を委託されている神の民が、神が命じるところを実行するという仕方で神の前に正しい者とされないとすれば、全世界は黙して神の裁きに服さなければならない。
律法の言葉に聞き、律法遵守に向かう者は、その努力と部分的成果を己が功績として誇るゆえに、神の義に達することができないからである。
律法のわざによって自分の義を立てようとすることこそが、神の義を立てることに逆行する。
律法の戒めを満たすことによって人間は救いへと至ることはできない。
パウロは律法の本質をこの不可能性に見る。
このような律法観はユダヤ人には思いも及ばないものである。
しかし彼は、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」と結論するのである。』




お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
罪の下にいるわたしをお赦しください。
ただ神の恵みによるイエスさまの犠牲によってのみ、救われることを感謝します。
心から感謝します。
イエスさまを知らない人たちにも、イエスさまを受け入れない人たちにも、
すべての人にイエスさまの犠牲の恵みが与えられていますことを、
神さまが愛であることを心から信じます。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

ローマの信徒への手紙3章 正しい者は一人もいない その1

2011年08月06日 | 新約聖書日記
◆正しい者は一人もいない

『 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。

3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

3:15 足は血を流すのに速く、

3:16 その道には破壊と悲惨がある。

3:17 彼らは平和の道を知らない。

3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

3:9 Well then, are we Jews in any better condition than the Gentiles? Not at all! I have already shown that Jews and Gentiles alike are all under the power of sin.

3:10 As the Scriptures say: /"There is no one who is righteous,

3:11 no one who is wise /or who worships God.

3:12 All have turned away from God; /they have all gone wrong; /no one does what is right, not even one.

3:13 Their words are full of deadly deceit; /wicked lies roll off their tongues, /and dangerous threats, like snake's poison, from their lips;

3:14 their speech is filled with bitter curses.

3:15 They are quick to hurt and kill;

3:16 they leave ruin and destruction wherever they go.

3:17 They have not known the path of peace,

3:18 nor have they learned reverence for God."

3:19 Now we know that everything in the Law applies to those who live under the Law, in order to stop all human excuses and bring the whole world under God's judgment.

3:20 For no one is put right in God's sight by doing what the Law requires; what the Law does is to make us know that we have sinned.』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解へ、つづく。

マルコ福音書9章 いちばん偉い者 その2

2011年08月02日 | 新約聖書日記

つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『33~34節 この二つの節はマルコの編集句。
彼はガリラヤにおけるイエスの宣教活動がカファルナウムで始まったことを念頭に置き、
そこをガリラヤにおけるイエスの最後の教えの地としたのであろう。
それは弟子の教育である。
この福音書では家は弟子たちに対する教えの場でもある。
イエスは受難と死に向かってガリラヤをとおって旅をしているが、その「途上」弟子たちは誰が一番偉いかと地位を争っている。
マルコはここでも彼らの無理解を読者に強く印象付ける。

35節 後にイエスに高い地位を願い出たゼベダイの子ヤコブとヨハネの関連で語られ、
また、律法学者やファリサイ派の人々に対する非難の中にも見出される。
イエスに従う者には、序列に関するこの世的な考え方を逆転することが求められる。
彼らは、受難の「人の子」イエスの弟子であるゆえに、
「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と命じられる。
イエスの道は、真の偉大さが奉仕を意味することを決定的に証言する。
「仕える者」と訳されているギリシア語ディアコノスは食卓の給仕人、教会の職としての「奉仕者」の意味でも使われる。

36~37節 「すべての人に仕える者」は「子供」によって象徴されているような弱い立場にあって軽視されている仲間のキリスト者をも受け入れなければならない。
「このような子供の一人」は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」を指す。
「抱き上げて」エナンカリサメノスは「抱きかかえる」とも訳せる。
新約聖書ではこの動詞は小さい者へのイエスの愛をよく言い表している。
小さい者をこのように受け入れることが受難と死に赴くイエスに従う者の態度である。
37節においてはイエスを信じる小さな者たちをイエスの代表者として受け入れることが弟子たちに求められている。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスの弟子であるわたしたちが、
すべての人の後になり、すべての人に仕える者になれますように。
そして、
弱い立場にあり軽視されている仲間のキリスト者を、受け入れる者になれますように。
主の教えに従えますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書9章 いちばん偉い者 その1

2011年07月20日 | 新約聖書日記
◆いちばん偉い者

『 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

9:33 They came to Capernaum, and after going indoors Jesus asked his disciples, "What were you arguing about on the road?"

9:34 But they would not answer him, because on the road they had been arguing among themselves about who was the greatest.

9:35 Jesus sat down, called the twelve disciples, and said to them, "Whoever wants to be first must place himself last of all and be the servant of all."

9:36 Then he took a child and had him stand in front of them. He put his arms around him and said to them,

9:37 "Whoever welcomes in my name one of these children, welcomes me; and whoever welcomes me, welcomes not only me but also the one who sent me."』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書から)



新訳聖書注解へ、つづく。

ローマの信徒への手紙3章 ユダヤ人と律法 つづき その2

2011年07月16日 | 新約聖書日記

つづき


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 をまとめて。

『信仰義認論は、その頂点において、現実のユダヤ人を相対化し、まことのユダヤ人という新しい存在を前景に押し出す。
そこでパウロが決して放棄しないユダヤ人の優位性がここで揺らぐのである。
彼がここであくまでも信仰義認論を貫くなら、「ではユダヤ人の優れた点は何か」という問いの答えは、当然、「全くありません」となるはずである。
ところが、パウロはそこへ行く前に「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答える。この一見論理的に矛盾する論議の展開は、本書の主題である。
「神の義」の二面性から来ている。
ここでは、信じる者を義とすること、神自身がその契約に対してどこまでも忠実であること、つまり、神の契約信義がぶつかりあっているのである。
したがって、ユダヤ人や割礼の有効性が信仰義認論によって否定されるところで、逆に、神の約束としてのユダヤ人や割礼の有効性が神の契約信義として肯定されなければならないことになる。
本書1~8章の信仰義認論は9~11章の神の契約信義論によって補われるのはこのためである。
それゆえ、ここではユダヤ人の優位性が十分に展開されてはおらず、それは九章まで待たなければならない。

ここでは最も重要な点が一つだけ語られる。
それは、神の言葉が委託されているということである。
このユダヤ人の優位性は「彼らの不誠実」によって左右されはしない。
神の「誠実」は人間の「不誠実」に優位する。
神の民がいかに無節操に契約から離れ、それを無視しようとも、神はその契約を破棄することなく、それを忠実に履行する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
人間を救うという神の決意は人間の不誠実によって変節しない。
このことは、ユダヤ人の優位性が彼らの不誠実によって崩れないことを意味する。
神の約束、真実な言葉は創造の力でもあるからである。

五節以下では、論争形式で、信仰義認論そのものが俎上に乗せられる。
確かにそれは誤解に基づいてはいるが、パウロに対して実際に向けられた批判でもあったろう。
それは、われわれの不義が神の義を明らかにするのだとすれば、われわれの不義に怒りを下す神は不義となる。
わたしを「なおも罪人として裁」く必要はないのではないか。
このような問いは、事柄を自分の問題として受け止めようとは決してしない人間の常套手段である。
それゆえ、パウロは「人間の論法に従って言いますが」とわざわざ断った上で、そのように一応問うてみせる。
パウロにとってこのような問いは、神に対する冒涜ですらある。
問い方はすでにある答えを前提にしているゆえに、問いそのものの問題性をあらわにする。
神は正しくないのではないか、という問い自身がここでは全体として否定される。
「決してそうではない」は問いそのものに対する拒絶である。

七節は五節の問いをさらに具体的に問う。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」と言い換えられ、「神の義」が「神の真実」と言い換えられて、「わたしはなおも罪人として裁かれねばならない」のはどうしてかと問う。
この問いは、自分の罪に居直り、自分を弁護して責任転嫁する詭弁である。
このことは八節から明らかとなる。
五節でパウロが断っているように、これは「人間の論法」である。
一つの主張を形式的に延長し、そこに論理的矛盾を明らかにしてその不当性を突くことによって、自己の正当性を主張する。これが「中傷」である。
パウロはそのように「中傷する人々」がいると言う。
この中傷の背後にあるものは、神の律法を守らない者、異邦人を神の救いの下に立ち得るとするパウロの信仰による救いに対するユダヤ人たちの不満と苛立ちがある。
正しい者も正しくない者も共に神の怒りの下にあるとするならば、もはや裁きの対象となるべき罪人など存在しないことになり、裁きそのものが無意味になってしまうのだと言うのである。
パウロはこの問いを「中傷」であるとし、まともに答えることなく、断罪する。
不誠実な人間を義とすることが神の義の放棄ではなく、神の契約に対する誠実がそのような人間を義とする力であること、
神こそが真実な者であり、この神に対する抗議は成り立たないこと、
それゆえ、ユダヤ人の優位性が神の誠実の下でのみ語られることができ、自らを正しいとするユダヤ人の側にはその根拠が見出されないことがここで明らかにされている。』


新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。

『問い「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」は、これまでの議論の流れからすれば、当然「全くありません」であるはずである。
しかし、奇妙にも「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」と答えられ、その優越性が「まず」第一に「神の言葉をゆだねられた」と数え上げられる。
議論は完全に信仰による義から神の契約に対する誠実の問題に移ってしまっている。
ただ第二第三は出てこず、それはこの問題が集中的に扱われる九章以下まで待たねばならない。

ここでは当面出されるであろう疑問にひとまず答えておこうとするパウロの自問自答(こうした論の進め方は当時の通俗哲学者のよく使った方法である)によって議論が進められる。
神の「誠実」はユダヤ人の「不誠実」によって左右されないこと、
人間の不義が神の義を明らかにするのだとすれば、人間の不義に怒りを下す神は不義となる、というパウロにも向けられていたと思われる中傷と強弁に対して、
それは「人間の論法」、詭弁であるとして、問いそのものを否定する。
「わたしたちの不義」が「わたしの偽り」、「神の義」が「神の真実」と言い換えられている。

パウロを「中傷する人々」に対して「こういう者たちが罰を受けるのは当然」と言い放つパウロは、信仰に立つ者、伝道者が単なる博愛主義者であったり、八方美人的「牧会者」ではありえない、福音宣教の闘志であることを垣間見させてくれる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神の誠実は、人間の不誠実に優位する。
人間の背信すらもこの神の信義の下にある。
神の愛の大きさを思い、心から感謝します。
そして、いろんな場面で、いろんな論議から、いろんな中傷をされるキリスト者でありますが、
信仰に立ち、パウロに倣い、闘う者であれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン