聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

「キリスト教神学入門」を読む 9

2010年07月29日 | 「キリスト教神学入門」マクグラスを読む
「キリスト教神学入門」マクグラス著 教文館 7500円

☆278ページから305ページまでを、読んで。
第二部
 第七章自然的な神知識と啓示による神知識
  啓示の観念
  啓示の類型
   教理としての啓示
   現臨としての啓示
   経験としての啓示
   歴史としての啓示
  自然神学ー範囲と限界
   自然神学についてのトマス・アクィナスの見解
   自然神学についてのカルヴァンの見解
   自然神学についての改革派の見解
   自然において神を認める捉え方
  自然神学への反論
   神学的反論ーカール・バルト
   哲学的反論ーアルヴィン・プランティンガ


とりあえずは、読んだ。
が、よく分からんなあ。。。
分かった気になって読み進んだけど。
思い返してみたら、何も覚えてない感じ。
ああああああああ、何やってるんだろう。

とりあえずは、次へ進みますm(_ _)m
次は、「哲学と神学」


★わたしのホームページhttp://www.geocities.jp/sigechan0123/
わたしの介護ブログhttp://sigesige22.blog46.fc2.com/
わたしの洋裁ブログhttp://sigesigesige.blog70.fc2.com/
わたしのエレカシブログhttp://ameblo.jp/dokusyo0123/
 

ローマの信徒への手紙 2章 神の正しい裁き その1

2010年07月22日 | 新約聖書日記
◆神の正しい裁き
『 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。

2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、

2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。

2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、

2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

2:11 神は人を分け隔てなさいません。

2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

2:1 Do you, my friend, pass judgment on others? You have no excuse at all, whoever you are. For when you judge others and then do the same things which they do, you condemn yourself.

2:2 We know that God is right when he judges the people who do such things as these.

2:3 But you, my friend, do those very things for which you pass judgment on others! Do you think you will escape God's judgment?

2:4 Or perhaps you despise his great kindness, tolerance, and patience. Surely you know that God is kind, because he is trying to lead you to repent.

2:5 But you have a hard and stubborn heart, and so you are making your own punishment even greater on the Day when God's anger and righteous judgments will be revealed.

2:6 For God will reward each of us according to what we have done.

2:7 Some people keep on doing good, and seek glory, honor, and immortal life; to them God will give eternal life.

2:8 Other people are selfish and reject what is right, in order to follow what is wrong; on them God will pour out his anger and fury.

2:9 There will be suffering and pain for all those who do what is evil, for the Jews first and also for the Gentiles.

2:10 But God will give glory, honor, and peace to all who do what is good, to the Jews first and also to the Gentiles.

2:11 For God judges everyone by the same standard.

2:12 The Gentiles do not have the Law of Moses; they sin and are lost apart from the Law. The Jews have the Law; they sin and are judged by the Law.

2:13 For it is not by hearing the Law that people are put right with God, but by doing what the Law commands.

2:14 The Gentiles do not have the Law; but whenever they do by instinct what the Law commands, they are their own law, even though they do not have the Law.

2:15 Their conduct shows that what the Law commands is written in their hearts. Their consciences also show that this is true, since their thoughts sometimes accuse them and sometimes defend them.

2:16 And so, according to the Good News I preach, this is how it will be on that Day when God through Jesus Christ will judge the secret thoughts of all.』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解などへ、つづく


マルコ福音書 9章 イエスの姿が変わる その2

2010年07月11日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『山上の変容(9.2~8)この物語の中心は七節における神の声である。
イエスの変容およびモーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在であることを示す。
読者はイエスが神の子であることをすでに受洗の時から知らされていたが、今や受難予告の直後に、そのことを再び知らされる。
すなわちマルコは、この物語を8・31~9・1の直後に置くことによって、十字架の道を歩み弟子達に随従を求めるイエスが超地上的、天的存在、神の子であることの確証を示す。

2~3節
十二人の弟子の中でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人はイエスに特に近い。
「高い山」は古来タルボ山とされてきたが、当時その頂上には要塞があったので、変容の舞台としてはふさわしくない。それはフィリポ・カイサリアの北東約19キロメートルに位置するヘルモン山であったという節もあるが、確かではない。
とにかくマルコの文脈ではガリラヤの外、フィリポ・カイサリア周辺の山である。
「姿が・・・変わ」ると訳されている動詞メタモルフースダイは新約聖書ではここ以外ではマタイの平行本文、ロマ12・2、Ⅱコリ3・18で用いられているだけであるが、
ギリシア人のあいだでは神々が人間に姿を変えること、あるいは逆に人間が神々の姿になることを言い表す用語になっていた。
イエスは今や弟子たちの前に神的存在として現れる。
イエスの服は「真っ白に」輝いた。白は神的世界を表す色であるが、ここでは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」という説明によって、イエスが超地上的・天的存在であることが強調されている。

4節
王下2・11によれば、エリヤは死なずに天に上っていった。
モーセが死なずに神のもとに移されたということは旧約聖書には記されていないが、ユダヤ人のあいだには、だれも彼の墓を知らないという申34・6の記述から、そのような伝承が生じたといわれる。
今やイエスと語り合うのにふさわしい者は、天の世界の二人の人物である。

5~6節
「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです」神の意志によれば、イエスは受難と死を通して神の世界に入ることになっている。
そして人の子として再臨するとき、イエスは再び神的な輝きの中に地上に現れる。
しかしペトロは、イエスから厳しく注意されてもいまだに十字架を負うてイエスに従う気構えを持つことができない。
6節はペトロの提案が全く的外れであることを示す。

7~8節
雲は神の臨在を意味するので、雲の中からの声は神の声である。
弟子達は神の子イエスの言葉に聞き従うことを命じられる。
ここでは「聞く」(アクーエイン)は、ヘブライ語シャーマがしばしばそうであるように、「聞き従う」という強い意味を持っている。
マルコの文脈では、その言葉は、とりわけ、直前に置かれている受難予告と随従の呼びかけである。
「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」イエスは天的存在、神の子であるが、いまだモーセやエリヤのように天に帰らず、弟子達と共に地上に残り、弟子達と共に十字架への道を歩もうとする。

9~10節
ここでは秘密保持の命令に「人の子が死者の中から復活するまでは」という条件がつけられている。
イエスの復活までは弟子達は彼の道を正しい理解をもって歩むことができないゆえに、彼について語ることを許されない。
弟子達はイエスが「死者の中から復活する」ことがどういうことであるかを理解できずに互いに論じ合うが、
マルコの文脈から見れば、イエスの復活は苦難と処刑を前提とするので、復活の無理解は苦難と死に対する無理解と不可分である。
それゆえにイエスの復活について語られたのち、ただちにイエスの受難が語られる。
したがって10節における弟子達の無理解は最初の受難予告に対する彼らの無理解と同質である。

11~13節
イエスは「エリヤは来た」と確言する。そして「人々は好きなようにあしらった」という言葉が暗示しているように、ヘロデ・アンティパスによって不法に処刑された洗礼者ヨハネが再来のエリヤと同一視される。

「人の子」の受難について語る12節bは右の議論の流れを中断しているように思われる。おそらく8・31を念頭においたマルコの編集句であろう。

11~12a、13節の伝承はイエスをめぐるキリスト教とユダヤ教との論争を反映している。
エリヤの再来なしにメシアの到来はありえないと論じるユダヤ教に対して、エリヤはすでに洗礼者ヨハネとして再来した、と教会は答える。
ここにはまた、洗礼者ヨハネを「光」とする洗礼者教団に対して、彼をメシア・イエスの先駆者として位置づける教会の立場も表されている。
マルコの文脈においては、この伝承はイエスの受難と復活についての弟子達の無理解をも示すものとされている。
終末前に再び来るはずのエリヤがまだ現れていないのであるから、イエスの復活は―したがって彼の処刑も―起こりえない、と彼らは考える。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神様
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
と、神さまのおっしゃるように、イエスさまに聞き従うことができますように。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるイエス様に、
自分を捨てて、自分の十字架を背負って、従うことができますように。
どうか、弱いわたしですが、お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン


「キリスト教神学入門」を読む 8

2010年07月10日 | 「キリスト教神学入門」マクグラスを読む
「キリスト教神学入門」マクグラス 教文館 7500円 を読む。

☆223ページから277ページまで。
第六章 神学の資料
 聖書
  旧約聖書と新約聖書
  神の言葉
  物語の神学
  聖書解釈の方法
  聖書の霊感についての説
 理性
  理性と啓示ー三つの類型
  理神論
  啓蒙主義的合理主義
  啓蒙主義的合理主義に対する批判
 伝統
  第一源泉説
  二重源泉説
  伝統の全面否定
  神学と礼拝ー典礼の伝統の重要性
 宗教経験
  実存主義ー人間の経験の哲学
  経験と神学ー二つの類型
  
まとめて。
「キリスト教神学は多くの資料に依存している。
資料の特定と神学的分析にとっての重要性についてかなり論議が戦わされてきて。
これらの資料が何であるかを探求し、神学にとってのその可能性について評価を行う。
大まかに言って、聖書、理性、伝統、経験。
これらの資料のそれぞれが神学という学問の中で特色ある仕方で貢献する。」
と書かれていて。
いろいろな考察が書かれてあった。

結局のところ、どれも資料になりうる??のかな??
よく分からんまま読んできた感じ。
聖書のみという考えがあったんやけど。
複雑やなあ。。。
未だによく分かってないかも。
なんかやっぱり難しい!
いいのかこんな読み方で。。。


とりあえず、次へ進んでいきますm(_ _)m