聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マタイ福音書 弟子たちを派遣する

2005年07月31日 | 新約聖書日記
『28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』

新約聖書略解をまとめて
『ここでのガリラヤは4・15と対応し、異邦人伝道の開始点としての意味を持つ。
16節、マタイはイエスとの再会の場所をとくに「山」と記す。「山」は、ここでも象徴的な意味で用いられている。
とくにイエスの最後の伝道命令は「山上の説教」と対応していると考えられるので、
20節「あなたがたに命じておいたこと」の句によって、山上の説教を中心とするイエスの教えを思い起こし、読者は本書全体をあらためて読み直すよう要求されることになる。
17節、イエスに会って「ひれ伏した」弟子たちは、一方で「疑う者」であった。
「ひれ伏し」は礼拝を意味する語である。
また疑ったのは彼らの一部というより、原文では全員が礼拝しつつ同時に疑いを持つ者であったと解し得る。
彼らの疑いに対し、マタイは復活したイエスの具体的な身体を強調せず、むしろイエスの言葉を記し、言葉においてイエスが「共にいる」ことを悟らせる。
それはマタイの時点で、復活したイエスと再会し得たという直接的体験をもつ世代が過去となりつつあった事情と重なっている。
18節、「天と地」に及ぶ権能は、4・8~9で悪魔がイエスに示したものであった。
それは「神の子」なら、とイエスを誘惑する物語であったが、イエスは悪魔の言う「神の子」を拒否し、
受難と死を通して「子」「天と地の一切の権能」を持つ者となる。
19節、「すべての民」を弟子とせよという命令は、ここからいよいよ異邦人伝道が教会の基本的任務となったことを示す。
イエスの存命中には伝道対象はイスラエルに限定されていたが、
イスラエルがイエスを十字架につけて福音を拒否した今、神の救いの働きかけは新しい段階に入ったのである。
これまでも全世界への伝道は将来的課題として示唆されており、復活後、イエスの命令により教会の果たすべき務めとなる。
「父と子と聖霊の名による」洗礼は、新約聖書中、他に例がなく、マタイとその系列の教会で用いられていた儀式文であろう。
20節、結びの「いつもあなたがたと共にいる」は、
第一に、明らかに1・23の「インマヌエル」の句に対応している。
1・23ではイエスにおいて「神」が共にいるのであるが、ここでは「イエス」が共にいる。
この二つの句を結び合わせると、イエスは「子」でありつつ「神」であり、「あなたがた」の中に臨在するとマタイは主張する。
第二に、本書は20節「共にいる」の言葉で終わり、ルカのような昇天、別離の場面を記さない。
すなわちマタイによれば、イエスは伝道の働きの中で引き続き「共にいる」のである。
第三に、「いつも」は「あらゆる日々」と直訳できる句、イエスとの共存はマタイと彼の教会が「日々」経験していることであった。』

お祈りします。
天の父なる神さま
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
イエスさまのご命令により、すべての民に、福音が述べ伝えられることを、感謝します。
すべての人が、神の恵みに与ることができますように。
神の愛を知ることができますように。
わたしのような小さき者でさえも、お使いくださいますように。
いつも、共に居てくださり、わたしたちの伝道を助けてくださっている主イエスさまに感謝します。

この聖書日記での、マタイ福音書を終えることができました。
神さまのお導きに感謝します。

主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マタイ福音書 番兵、報告する

2005年07月26日 | 新約聖書日記
『28:11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
28:15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。』

新約聖書略解をまとめて
『墓に番兵を配慮した物語の結末。
イエスの復活を語る初期の信仰告白定型伝承(ロマ10・9、一コリ15・3)は、空っぽの墓について言及していないが、
マタイの時点ではイエスの復活を論証するため墓と遺体の有無が重要であったことが分かる。
一方ユダヤ教側が夜中に遺体が盗まれたというデマを流すというのは、自ら番兵たちの職務怠慢を認めることになり、総督がこれで納得するとは考え難い。』


天の父なる神さま
マタイの時代での、ユダヤ教との対立を思います。
ユダヤ教の中で、キリスト教徒たちが、キリストの証人として、信仰を守り、
イエス・キリストを伝道することに、すべてをかけていたことを思います。
「いつもあながたがと共にいる」と言われた、主イエスさまの力によって、すべての人に、神の恵みが届きますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マタイ福音書 復活する

2005年07月20日 | 新約聖書日記
『28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」』

新約聖書略解をまとめて
『四節で天使が降りた時の番兵の様子は、先行の62~66節につながり、さらに11節以下に受け継がれている。
これはマタイの挿入文と見なし得る。
番兵を置く話は、墓が空っぽであったというマタイの主張の根拠となっている。
婦人たちが墓へ行くのは、マルコの記述と違い、はっきりした目的がない。マタイでは、彼女らは天使の出現と空っぽの墓を確認するため墓へ行く。
マタイにとって、イエスの復活を語るには空っぽの墓が重要な論拠となっていることが分かる。
それはユダヤ教徒に対する弁証のために必要な論法であった。

五節~七節の天使の言葉にはいくつか注目すべき点がある。
 第一に、イエスの復活を告げる動詞(六節「復活なさった」、七節「復活された」)は受動態であるので、
直訳すると「よみがえらされた」である。
すなわち復活は神の力による出来事であり、こうして神はイエスの最期の問いかけ(27・46)に答えたのであった。
イエスが自分の力で復活したと解するなら、それは27・40の皮肉な嘲りの言葉「自分を救ってみろ」に近い考え方となる。
 第二に、イエスがガリラヤへ行くことが予告されるが(七、十節)、これは16節で実現される。
ここでのガリラヤは単にイエスとの再会の地ではなく、本書の構成から見て、
4・15~16「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見」と関連している。
ガリラヤでのイエスの活動はイザヤ8・23の預言の成就であるが、この地は今や復活によって展開される新しい伝道の出発点となった。
それは「異邦人」(4・15)へ向かい「すべての民」(28・19)に伝えられる福音の出発点である。
 第三に、「恐れることはない」(五節)は、イエスの同じ言葉(十節)につながり、これによって彼女らは喜び励まされる。

十節でイエスの言う「わたしの兄弟たち」は、七節の天使の言葉と合わせると、
イエスの肉親のことでなく、弟子たちを指す。
復活したイエスは、逃亡した弟子たちを「兄弟」と呼ぶのである。』

お祈りします。
恵み深い天の父なる神さま
神は、イエスさまを、よみがえらされました。
わたしたちの罪のために、十字架で死なれたイエスさまを、
復活させられ、わたしたちに罪の赦しをくださいました。
神の恵みに感謝します。
また、神によって復活させられた主イエス様が、わたしたちの初穂となられました。
わたしたちは、イエスさまによって、希望を頂きました。
神から与えられた愛と恵みによって、生きていくことができることを、感謝します。
また、イエスさまは、逃げてしまった弟子たちを、愛を持って「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。
すべてを赦し、愛をもって受け入れてくださる、主イエスさまを思います。
いつもイエスさまの方へ向かっていけるように、導いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

「信じてたって悩んじゃう」みなみななみ・いのちのことば社を、読んで。

2005年07月14日 | 本の感想
一日か、二日で、読めてしまう本。
ほとんど漫画なんで、読みやすいです。
「信じてたって悩んじゃう」みなみななみ いのちのことば社を、昨日読みました。

読んだあとの感想は。。。まあまあ良かったです。
一番、印象に残っているところは、82ページと83ページの言葉ですかね。
「子供の命はね、、、産む使命と育てる使命がある。
たいていの人は産んで育てる 一人で両方やる でも人によっては別々のこともあると思う
育てたいが産むことのできない人もいる 
あなたに与えられたいのちを産む使命を果たすだけでもすばらしいことですよ
どんな経緯で与えられた命でもね」
小さな命を守る会代表の言葉です。
そして、そのあとのフォローもすべてをしてくれる。
そこが、すばらしいところですね。
人にアドバイスを言うだけなら、誰でもできるかもしれませんが、
その人の悩みを一緒になって考えて、最後までお世話をする、最後まで責任を共に持つ。
ここが、普通できないですよね。
その行動をする方がいることは、すばらしいですね。
そう思いました。

「愛し合いなさい」。。と、イエスさまは言われます。
愛するって、行動が伴いますね。
愛は、言葉だけで終わらない。
すごい難しく、重く、大変なことですが、イエス様が言われるように、愛し合えば、きっとみんなが幸せになるのになあ。。。。
でも、むずかしい。。。

FEBC(キリスト教インターネット放送局)

2005年07月08日 | その他
みなさんご存知のFEBC(キリスト教インターネット放送局)
わたしのインターネットのホームのページになってる。
つまりは、インターネットエクスプローラを開くと、まず、FEBCが現れる。

いつも、見てるだけで、なかなか聴くこともなかった。
けど、ずっと前にお世話になったし、とても親しみをもってるし、
いい放送いっぱいやってるし、テープやCDも、いくつか買っている。

で、わたしがクリスチャンになったころ、
このFEBCの中の番組のひとつ、恵子の郵便ポストで、悩み相談して、アドバイスいただいたり、慰めていただいた。
おかげで、自分の考え違いも分かったり、
自分のなさけなさも気がついたりした。
今でも、いちばん好きなのは、この恵子の郵便ポストかもしれない。
もちろん、相談のメールや手紙に”放送しないでください”って書いたら、絶対に放送はされない。
でも、必ず、丁寧に返事をくれる。熱心に答えてくれる。ありがたいことですね。

で、わたしも、わずかばかりの献金をしている。
(ほんとに、ほんとに、ごく、わずか。。。)
FEBC維持会員

また、ちと、放送を聴く時間を作りたいと思ってる。

加藤常昭信仰講和6

2005年07月07日 | 本の感想
昨日から、「加藤常昭信仰講和6 使徒信条・十戒・主の祈り 上」を読んでいる。
いい本や~~~(o^^o)

実は、わたし、加藤常昭先生の本は、あまり、好みじゃなかった。。。
っていうか、言い回しが、どうも私に合わない感じで、読み進むのがしんどくて。。。
ほんとに、駄目、いい先生の本やってことは分かってるけど、私は駄目や。。。って思ってた。
ので、買ったけども、やっぱり、本棚に置いたままで、ほったらかしになってた。
(まあ、そういう、読んでない本は、本棚にいっぱいあるんやけどね。。。( ̄□ ̄;))

が、何を思ったか、どういう変化が自分の中に起こったのか、自分では分からないんやけど、
なんか、少し手にとって見てみたら、むちゃくちゃ、いい!
え???、なんで????
ものすごい分かりやすい。良い良い良い。
いつも本を読むときのように、ラインマーカーを片手に、いいところへ線を引きながら、読み始めた。

まだ、ちょっとしか読めてないけど、
ほんとにいい。
こんな気持ちにしてくださった、神に感謝m(_ _)m
今、この本を読むのが、楽しみ。

マタイ福音書 番兵、墓を見張る

2005年07月05日 | 新約聖書日記
『 27:62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。』

新約聖書略解をまとめて
『この段落は28・11~15につながる物語で、マタイのみの記事であるが、史的には疑問点が多い。
イエスが自らの復活を予告したとは考え難いし(16・21などのイエスの言葉はいわゆる事後預言で、イエス自身には由来しない)、
祭司長とファリサイ派の人々があえて重要な安息日にピラト(異邦人であるので汚れた者)のもとに行くことも考え難い。
受難物語ではここまで姿を見せなかったファリサイ派が登場するのも、不自然の感を与える。
おそらくマタイの執筆時に、キリスト教側の復活信仰に対してユダヤ教側から「弟子たちがひそかにイエスの遺体を盗み出し、その上で復活したと嘘の宣伝をしている」という反論があり、
これに対抗するため、墓には封印と番兵を置いたと主張しているのであろう。
28・15は「今日に至るまで」(マタイの執筆時まで)ユダヤ人の間にイエスの遺体の行方をめぐって反対宣伝があったことを記す。
65節「番兵」はヘロデの兵ではなく、祭司長らの指揮に属する神殿警備隊の兵と思われる。』

恵み深い天の父なる神さま
主イエスの復活を信じることのできない人たちが多くいたことを思います。
今でも、イエスさまを信じることができない多くの人がいることを思います。
信じることができるようになるのも、
神さまがなさること。
父なる神の恵みです。
すべての人に神の恵みが降り注がれていることを、すべての人が知ることができますように。
弱いわたしの信仰生活を守り、導いてくださいますように。
霊の力を強めてくださいますように。
イエスさまが手を離さずにいてくださいますように。
わたしの祈りを支えてくださいますように。
神の御声を聞くことができますように。
主イエス・キリストの御名によって、お願いして、お祈りします。
アーメン