『28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』
新約聖書略解をまとめて
『ここでのガリラヤは4・15と対応し、異邦人伝道の開始点としての意味を持つ。
16節、マタイはイエスとの再会の場所をとくに「山」と記す。「山」は、ここでも象徴的な意味で用いられている。
とくにイエスの最後の伝道命令は「山上の説教」と対応していると考えられるので、
20節「あなたがたに命じておいたこと」の句によって、山上の説教を中心とするイエスの教えを思い起こし、読者は本書全体をあらためて読み直すよう要求されることになる。
17節、イエスに会って「ひれ伏した」弟子たちは、一方で「疑う者」であった。
「ひれ伏し」は礼拝を意味する語である。
また疑ったのは彼らの一部というより、原文では全員が礼拝しつつ同時に疑いを持つ者であったと解し得る。
彼らの疑いに対し、マタイは復活したイエスの具体的な身体を強調せず、むしろイエスの言葉を記し、言葉においてイエスが「共にいる」ことを悟らせる。
それはマタイの時点で、復活したイエスと再会し得たという直接的体験をもつ世代が過去となりつつあった事情と重なっている。
18節、「天と地」に及ぶ権能は、4・8~9で悪魔がイエスに示したものであった。
それは「神の子」なら、とイエスを誘惑する物語であったが、イエスは悪魔の言う「神の子」を拒否し、
受難と死を通して「子」「天と地の一切の権能」を持つ者となる。
19節、「すべての民」を弟子とせよという命令は、ここからいよいよ異邦人伝道が教会の基本的任務となったことを示す。
イエスの存命中には伝道対象はイスラエルに限定されていたが、
イスラエルがイエスを十字架につけて福音を拒否した今、神の救いの働きかけは新しい段階に入ったのである。
これまでも全世界への伝道は将来的課題として示唆されており、復活後、イエスの命令により教会の果たすべき務めとなる。
「父と子と聖霊の名による」洗礼は、新約聖書中、他に例がなく、マタイとその系列の教会で用いられていた儀式文であろう。
20節、結びの「いつもあなたがたと共にいる」は、
第一に、明らかに1・23の「インマヌエル」の句に対応している。
1・23ではイエスにおいて「神」が共にいるのであるが、ここでは「イエス」が共にいる。
この二つの句を結び合わせると、イエスは「子」でありつつ「神」であり、「あなたがた」の中に臨在するとマタイは主張する。
第二に、本書は20節「共にいる」の言葉で終わり、ルカのような昇天、別離の場面を記さない。
すなわちマタイによれば、イエスは伝道の働きの中で引き続き「共にいる」のである。
第三に、「いつも」は「あらゆる日々」と直訳できる句、イエスとの共存はマタイと彼の教会が「日々」経験していることであった。』
お祈りします。
天の父なる神さま
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
イエスさまのご命令により、すべての民に、福音が述べ伝えられることを、感謝します。
すべての人が、神の恵みに与ることができますように。
神の愛を知ることができますように。
わたしのような小さき者でさえも、お使いくださいますように。
いつも、共に居てくださり、わたしたちの伝道を助けてくださっている主イエスさまに感謝します。
この聖書日記での、マタイ福音書を終えることができました。
神さまのお導きに感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』
新約聖書略解をまとめて
『ここでのガリラヤは4・15と対応し、異邦人伝道の開始点としての意味を持つ。
16節、マタイはイエスとの再会の場所をとくに「山」と記す。「山」は、ここでも象徴的な意味で用いられている。
とくにイエスの最後の伝道命令は「山上の説教」と対応していると考えられるので、
20節「あなたがたに命じておいたこと」の句によって、山上の説教を中心とするイエスの教えを思い起こし、読者は本書全体をあらためて読み直すよう要求されることになる。
17節、イエスに会って「ひれ伏した」弟子たちは、一方で「疑う者」であった。
「ひれ伏し」は礼拝を意味する語である。
また疑ったのは彼らの一部というより、原文では全員が礼拝しつつ同時に疑いを持つ者であったと解し得る。
彼らの疑いに対し、マタイは復活したイエスの具体的な身体を強調せず、むしろイエスの言葉を記し、言葉においてイエスが「共にいる」ことを悟らせる。
それはマタイの時点で、復活したイエスと再会し得たという直接的体験をもつ世代が過去となりつつあった事情と重なっている。
18節、「天と地」に及ぶ権能は、4・8~9で悪魔がイエスに示したものであった。
それは「神の子」なら、とイエスを誘惑する物語であったが、イエスは悪魔の言う「神の子」を拒否し、
受難と死を通して「子」「天と地の一切の権能」を持つ者となる。
19節、「すべての民」を弟子とせよという命令は、ここからいよいよ異邦人伝道が教会の基本的任務となったことを示す。
イエスの存命中には伝道対象はイスラエルに限定されていたが、
イスラエルがイエスを十字架につけて福音を拒否した今、神の救いの働きかけは新しい段階に入ったのである。
これまでも全世界への伝道は将来的課題として示唆されており、復活後、イエスの命令により教会の果たすべき務めとなる。
「父と子と聖霊の名による」洗礼は、新約聖書中、他に例がなく、マタイとその系列の教会で用いられていた儀式文であろう。
20節、結びの「いつもあなたがたと共にいる」は、
第一に、明らかに1・23の「インマヌエル」の句に対応している。
1・23ではイエスにおいて「神」が共にいるのであるが、ここでは「イエス」が共にいる。
この二つの句を結び合わせると、イエスは「子」でありつつ「神」であり、「あなたがた」の中に臨在するとマタイは主張する。
第二に、本書は20節「共にいる」の言葉で終わり、ルカのような昇天、別離の場面を記さない。
すなわちマタイによれば、イエスは伝道の働きの中で引き続き「共にいる」のである。
第三に、「いつも」は「あらゆる日々」と直訳できる句、イエスとの共存はマタイと彼の教会が「日々」経験していることであった。』
お祈りします。
天の父なる神さま
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
イエスさまのご命令により、すべての民に、福音が述べ伝えられることを、感謝します。
すべての人が、神の恵みに与ることができますように。
神の愛を知ることができますように。
わたしのような小さき者でさえも、お使いくださいますように。
いつも、共に居てくださり、わたしたちの伝道を助けてくださっている主イエスさまに感謝します。
この聖書日記での、マタイ福音書を終えることができました。
神さまのお導きに感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン