聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙3章 信仰による義 その1

2011年09月14日 | 新約聖書日記
◆信仰による義

『 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。

3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

3:21 But now God's way of putting people right with himself has been revealed. It has nothing to do with law, even though the Law of Moses and the prophets gave their witness to it.

3:22 God puts people right through their faith in Jesus Christ. God does this to all who believe in Christ, because there is no difference at all:

3:23 everyone has sinned and is far away from God's saving presence.

3:24 But by the free gift of God's grace all are put right with him through Christ Jesus, who sets them free.

3:25 -26 God offered him, so that by his blood he should become the means by which people's sins are forgiven through their faith in him. God did this in order to demonstrate that he is righteous. In the past he was patient and overlooked people's sins; but in the present time he deals with their sins, in order to demonstrate his righteousness. In this way God shows that he himself is righteous and that he puts right everyone who believes in Jesus.

3:26

3:27 What, then, can we boast about? Nothing! And what is the reason for this? Is it that we obey the Law? No, but that we believe.

3:28 For we conclude that a person is put right with God only through faith, and not by doing what the Law commands.

3:29 Or is God the God of the Jews only? Is he not the God of the Gentiles also? Of course he is.

3:30 God is one, and he will put the Jews right with himself on the basis of their faith, and will put the Gentiles right through their faith.

3:31 Does this mean that by this faith we do away with the Law? No, not at all; instead, we uphold the Law.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書注解へつづく

マルコ福音書9章 逆らわない者は味方 その2

2011年09月12日 | 新約聖書日記

つづき

新約聖書注解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『すべての人に仕えるべき弟子たちには、外の人々に対しても開かれた姿勢、
寛容の精神が求められる。』


新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『ヨハネの発言が、新しい問題を提起する。
弟子集団と外部との境界線上に立つ人の扱いをめぐる。
イエスの名で悪霊追放を行いながら、十二人に従わない者を「やめ・・・させました」。
しかし、イエスは「やめさせてはならない」と答える。
新共同訳は言葉を合わせないが、10・14でも繰り返される禁止である。
阻止でなく、受容が求められている。
その理由として三つの言葉が続く。
特に第二の言葉は、排他的なマタイ12・30の並行箇所に対して、異なる立場の者を積極的に受け止める大きな包容力を示す。
第三の言葉は「キリストの(者だ)」という理由で一杯の水を与える人にも報いる神の大きな包容力から、「止めさせるな」を基礎づける。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
すべての人に仕えることができますように。
すべての人に寛容であれますように。
支え、導き、お守りください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書9章 逆らわない者は味方 その1

2011年09月07日 | 新約聖書日記
◆逆らわない者は味方

『 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

9:38 John said to him, "Teacher, we saw a man who was driving out demons in your name, and we told him to stop, because he doesn't belong to our group."

9:39 "Do not try to stop him," Jesus told them, "because no one who performs a miracle in my name will be able soon afterward to say evil things about me.

9:40 For whoever is not against us is for us.

9:41 I assure you that anyone who gives you a drink of water because you belong to me will certainly receive a reward.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文/新共同訳 英文/TEV マルコによる福音書より)



新約聖書注解へつづく

ローマの信徒への手紙3章 正しい者は一人もいない その2

2011年09月03日 | 新約聖書日記

つづき。


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『1節で提起されたユダヤ人の優位性に関する問いの答えが、2節と9節では正反対になっている。
神の真実はユダヤ人の優位性を放棄しないが、それはユダヤ人の中に優位性を主張し得る何かがあるからではない。
そんなものは「全く」無いのである。
「罪の下に」全人類が立っている。ユダヤ人とて例外ではない。
このことが旧約聖書からの引用によって確証される。
1・18以下でさまざまに暴かれた諸悪行は、ここで「罪」(ハルマティア)という語で総括的に表現される。
この語は、パウロが神に対する人間の基本的な姿を表現する重要な鍵言葉である。
7・7以下で展開されるように、この「罪」は、この世界を支配する力であり、神はその怒りにおいてこの世界をこの力に引き渡すのである。
「罪」は全人類を例外なしに覆うと共に、個々人はその現実を代表する。
10~18節は旧約聖書のギリシア語訳からの複数の、また解釈や組み合わせによるかなり自由な引用である。
旧約聖書が全体として神の民のこのような罪性を語っているわけではない。
ここでは神の民の背信を暴くことに注意が向けられている。
「彼らの目には神への畏れがない」という締めくくりは、その前に語られている具体的な罪の根にあるものを総括している。
神に対するこの不遜さは13節以降のほとんど呪いにも似た調子からもうかがえるように、ユダヤ人に対する強い断罪である。
しかしこれは、ユダヤ人という一民族に向けられているというよりは、神に近いと自負する人間一般の不遜さをも含むと解すべきである。
神の言葉が委託されているユダヤ人が神の怒りの下に立つとすれば、もはや誰一人神の前に立ちえる者はいないからである。
「律法の下にいる人々」、ユダヤ人が立ち得ないとすれば、「すべての人」の誇りが粉砕され、「全世界が神の裁きに服」さざるを得ない。
神の言葉を委託されている神の民が、神が命じるところを実行するという仕方で神の前に正しい者とされないとすれば、全世界は黙して神の裁きに服さなければならない。
律法の言葉に聞き、律法遵守に向かう者は、その努力と部分的成果を己が功績として誇るゆえに、神の義に達することができないからである。
律法のわざによって自分の義を立てようとすることこそが、神の義を立てることに逆行する。
律法の戒めを満たすことによって人間は救いへと至ることはできない。
パウロは律法の本質をこの不可能性に見る。
このような律法観はユダヤ人には思いも及ばないものである。
しかし彼は、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」と結論するのである。』




お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
罪の下にいるわたしをお赦しください。
ただ神の恵みによるイエスさまの犠牲によってのみ、救われることを感謝します。
心から感謝します。
イエスさまを知らない人たちにも、イエスさまを受け入れない人たちにも、
すべての人にイエスさまの犠牲の恵みが与えられていますことを、
神さまが愛であることを心から信じます。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン