聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙2章 ユダヤ人と律法 その2

2011年02月10日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書注解Ⅱを、まとめて。

『前段落で、パウロは従来の「ユダヤ人とギリシア人」という二分法を、律法の実質的な遵守の有無という二分法で越えた。
しかし彼はユダヤ人の優位性を否定したのではない。
むしろ、ユダヤ人の特権意識が内実を伴わないことを問題にする。
他人を裁きながら、自分が同じ誤りを繰り返しているユダヤ人に対する厳しい攻撃がここから始まる。
ここでは、一章における人類の性的倒錯が、ユダヤ人の建て前と現実の驚くべき倒錯として語られる。
ユダヤ人の優れている点が五つの動詞的表現と四つの名詞的表現で語られる。
それは決して揶揄的な皮肉な調子を持ってはいない。
それゆえ、それに続く四つの非難の調子を帯びた問いは鋭く彼らの問題を突いている。
「神を誇りとし」は、「自分を誇る」ことの反対として、神を知る者の正しい態度である。
また、「何をなすべきかをわきまえている」ことは、神の民の最高の特徴である。

ユダヤ教徒は、律法を所有しているだけでなく、それによって具体的に神の意志を知っていること、唯一神を信じていること(=「真理」)を誇ることができる。
それゆえ、彼らは他人に教え、説くのである。
しかし彼らはそうしながら、自らは十戒に違反して平気でいる。
「偶像を忌み嫌いながら」異教の神殿の悪に加担している。
同じような問いに導かれて、ユダヤ人の矛盾に満ちた態度が、自ら誇っている者をないがしろにしていることが暴かれていく。
この自己矛盾が自分だけの問題ではなく、「神の名」にかかわるものであることが指摘される。

25節から議論はさらに「割礼」の問題へと移っていく。
ユダヤ人男性は、生後八日目に陽の皮を切る。これを割礼と言い、彼らはこうして初めてユダヤ人となる。
割礼を受けて異邦人は「改宗者」となる。
割礼は、神との契約関係に入ることであり、律法と賜物を約束され、保証されることである。
無割礼のユダヤ人というものは存在しない(この場合女性は問題の外に置かれている)。
したがって、割礼について論じることはユダヤ人について論じることであり、その有効性を論じることはユダヤ人の特権について論じることなのである。
パウロは、この議論に踏み込み、割礼→律法授与→救いの繋がりを一旦切断し、
割礼→律法遵守→救いとして繋ぎ直す。
こうすることによって、割礼が律法遵守へと向かう方向を逆にたどり、律法を守る者が割礼を受けた者と見なされるのだと主張する。
しかしパウロは決してここでユダヤ人の優位性や存在意義を否定しているのではない。
彼は「体」にではなく「心に施された」割礼を重視すると言うことによって、割礼の真の意味に目を向けているからである。
彼は「肉に施された外見上の」、「律法の文字」によるものを「”霊”によって心に施された」ものと鋭く対比し、「外見上のユダヤ人」ではなく、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」と言う。
これは、割礼とユダヤ人を再解釈することによって止揚し、実質的には全く新しい神の民、キリスト教徒を意味するものに変質させて、もはや現実のユダヤ人と、これまでの神の民の歴史を過去のものとして無意味化してしまう議論の仕方である。

本書間においては、むしろこのような割り切った断定が引き起こす、神の契約への忠実さに関する問いが重大視されている。
外見と内実、文字と心、肉と霊、といった二分法がここでの主眼ではなく、今や異邦人キリスト教徒として現実に存在するこの「まことのユダヤ人」が現実のユダヤ人とどのような関連を持つのか、新しいイスラエルが古いイスラエルとどのように繋がるのか、がここでの問題である。』




お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
心に割礼を受けたものとして、こころに霊を頂いたものとして、
神を賛美し、神の律法を遵守するものとして、生きられますように。
信仰をお与えください。
守り導いてください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン