聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書7章 昔の人の言い伝え その2

2008年07月18日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『全体は、1論争(一節以下)、2群集への語りかけ(十四節以下)、3弟子への秘密の教え(十七節以下)に分けることが出来る。

1、論争
元々の論争は、「汚れた手」による食事よりも、ユダヤ人の日常生活を規定すべき「昔の人の言い伝え」をめぐる。
それは文書となった「律法」(旧約のモーセ五書)を現実に適用するために、律法学者たちが施してきた解釈を口頭で伝えたもので、特にファリサイ派が律法違反への防御柵として重視した。
イエスの応答は、六節からと九節からの、二段階になっている。
六節から八節まず神の民としてのイスラエルを表す「民」をめぐる七十人訳イザヤ29・13がほぼそのまま引用される。
これにより、イザヤの言葉を借りて、「昔の人の伝承」が「人間の戒め」でしかないことを暴露する。
九節から十三節次に、実例として、父母を敬うことを強く求めるモーセの律法にも拘わらず、「あなたたちは」<あなた方の伝承>に基づいて、両親の利益に供すべきものを「(神への)捧げもの」と宣言すれば、もはや与えないでもよいとしていると指摘する。

2、群集への語りかけ
十四節で、どこからともなく群集を召喚して、「(あなた方は)皆、私に聞け、そして理解せよ」と語りかけられる。
「私に聞け」は極めて大胆な言葉で、律法を解釈する律法学者はもちろん、神の言葉を語るモーセも超えた権威の主張である。
十五節語られた言葉自体も、人間の外からその内に入るもので、彼を祭儀的に「汚れさせる」ものは何も無いことを宣言する。
これは祭儀的に浄・不浄を分けたレビ記的規定の根本的否定である。
また当時のユダヤ人が行った浄・不浄観からの「異邦人」差別を無効にする。

3弟子への秘密の教え
十七節「彼の弟子たち」がイエスに「譬え」について尋ねたとされる。
外の者たちには譬えで語り、自らの弟子には秘密裡に解き明かす状況が再現されている。

外から人の中に入るものは、原文では、「腹」(元来「空洞」と関連して「
体の空洞」)の中に入って、「便所」(「住まい」から「離れた」野外便所)の中に出て行くだけで、「心」の中には入らない。
これによって「心」に決定的な役割が与えられる。
神の前での人間が、もはや祭儀的浄・不浄観からでなく、もっぱら倫理的観点からのみ判断されることになる。
内から出てきて人を神の前で汚れたものとするのは、「心」の中から出てくる「悪い思い」であるとされる。
「悪い」は「卑しい、誤った、邪な」である。
以上の展開は、律法に則した生活の有無から非ユダヤ人を汚れた者と差別することを禁じる。』


新約聖書注解Ⅰ、新聖書講解シリーズ、に、つづく。