聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 「洗礼者ヨハネ、殺される」 その1

2007年11月28日 | 新約聖書日記
◆洗礼者ヨハネ、殺される

『 6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。

6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。

6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、

6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、

6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。

6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。

6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。

6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。

6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、

6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

6:14 Now King Herod heard about all this, because Jesus' reputation had spread everywhere. Some people were saying, "John the Baptist has come back to life! That is why he has this power to perform miracles."

6:15 Others, however, said, "He is Elijah." /Others said, "He is a prophet, like one of the prophets of long ago."

6:16 When Herod heard it, he said, "He is John the Baptist! I had his head cut off, but he has come back to life!"

6:17 Herod himself had ordered John's arrest, and he had him tied up and put in prison. Herod did this because of Herodias, whom he had married, even though she was the wife of his brother Philip.

6:18 John the Baptist kept telling Herod, "It isn't right for you to marry your brother's wife!"

6:19 So Herodias held a grudge against John and wanted to kill him, but she could not because of Herod.

6:20 Herod was afraid of John because he knew that John was a good and holy man, and so he kept him safe. He liked to listen to him, even though he became greatly disturbed every time he heard him.

6:21 Finally Herodias got her chance. It was on Herod's birthday, when he gave a feast for all the top government officials, the military chiefs, and the leading citizens of Galilee.

6:22 The daughter of Herodias came in and danced, and pleased Herod and his guests. So the king said to the girl, "What would you like to have? I will give you anything you want."

6:23 With many vows he said to her, "I swear that I will give you anything you ask for, even as much as half my kingdom!"

6:24 So the girl went out and asked her mother, "What shall I ask for?" /"The head of John the Baptist," she answered.

6:25 The girl hurried back at once to the king and demanded, "I want you to give me here and now the head of John the Baptist on a plate!"

6:26 This made the king very sad, but he could not refuse her because of the vows he had made in front of all his guests.

6:27 So he sent off a guard at once with orders to bring John's head. The guard left, went to the prison, and cut John's head off;

6:28 then he brought it on a plate and gave it to the girl, who gave it to her mother.

6:29 When John's disciples heard about this, they came and got his body, and buried it.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)



「新約聖書注解Ⅰ」「新約聖書略解」「新聖書講解シリーズ マルコの福音書」へつづく

エステル記4章 モルデカイ、エステルを説得する その2

2007年11月01日 | 旧約聖書日記
つづき

新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 を、まとめて
『エステル記のクライマックスともいえる4章の中から、3つのことを学んでみたい。
エステル記全体のテーマは、神の摂理である。
神は確かに、人間の思いや願いを越えたところにおいてその摂理の御手を動かされる。
だから、われらの神は人間の祈りの範囲の中だけで行動される神では決して無い。
しかし、同時に御自分のみわざの遂行のために神はご自身の器を必要とされ、その器の協力を求められることもまた事実である。
本章において、モルデカイもエステルも、ひいてはシュシャンのユダヤ人同胞も、一人残らず神のみわざの遂行のために動員されている。

本章において教えられる第一のことは、モルデカイに見る生ける神に対する信仰である。
まず「神の御約束に立つ信仰」である。その約束の中心は、ユダヤ人の中から全人類の救い主、メシヤが出現することであった。
モルデカイが、この信仰に立っていたことは疑う余地がない。
たとえ他のいかなる民族が滅びても、ご自身の御約束の真実にかけて神は選びの民を必ず守り、助け、救われる。これがモルデカイの神の約束に対する信仰であった。
そして「神の摂理に立つ信仰」である。摂理の神は御自身のみわざを進めるために摂理の道具としての器を用いられる。その神の摂理をモルデカイはここで強くエステルに意識させている。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」のみことばの中にモルデカイの「摂理信仰」が脈動している。
そして「神の召命に立つ信仰」である。神の召命に具体的に応答する信仰である。
神のしもべがもし神の召命から離れるなら、それは死に等しい。
たとえ人が神の召命に従わないことがあっても、神は「別の所から」助けと救いを起こされる。
神のしもべは使命があるうちは、絶対に死なない。死ぬ時は、使命が終った時である。神のしもべが使命に生きるとき、その人はすでに死を克服し、解決したことになる。

本章において、第二に教えられることは、エステルに見る神への全き明け渡しについてである。
「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」。このみことばは、エステル記のゴールデン・テキストであろう。
エステル記といえば、この一句、この句といえばエステル記といわれるほどに、有名中の有名なみことばである。
エステルのたましいがここに導かれるまでに、どれだけの祈りがあり沈思黙考があっただろうか。
いわばエステルは、ここでたましいのゲッセマネを通過したことになる。
「われも死ぬべくば死ぬべし」の「べくば」は、「死ぬことがみこころならば」の意味であろう。
だからそれは、「私は死にます」という人間的な決意や判断ではない。その死さえも神の御手にゆだねて、みこころならばと自らを明け渡したのである。
神の摂理の御手の中に、すなわち神の意志と計画の中に無条件に自分自身を投げ出してしまう。
これこそが真の献身者なのである。換言すれば、そこにエステルの「己の死」があった。
キリストの十字架の上で、キリストと共に「我」も死んでいると信じているたましいは、神の御旨に対してこのような態度をとることができる。
実は「古き人」が死んでいるということは、単に怒らず争わず憤らずといった対人関係、つまり道徳問題ではなく、それは神の御旨に対する自分の意志の屈服という対神関係、つまり宗教問題なのである。
聖書中、そのスピリットの典型は、救い主の母たるマリヤのそれであった。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように」、このマリヤの言葉はエステルの言う「わたしは死ななければならないのでしたら、死にます」と全く軌を一にしよう。

最後に本章におけるもう一つの教訓は、神の民のとりなしの祈りについてである。
「死ななければならないのでしたら」と死さえも御手にゆだねつつも、エステルはこの一事の成功のためにシュシャンの全同胞にとりなしの祈りを依頼した。
三日間飲まず食わずの真剣勝負である。むろん、エステルも侍女たちも共に断食して祈った。モルデカイも同様であった。
この時点で神の前における働き人はもはやモルデカイやエステルといった特定の器たちだけではなく、すべての神の民がそれに加えられたのである。
神の民は一人残らず、とりなしの祈りのために召された。
祈りが炎のたばとなって天の御座に達し、全能者の御手を動かしたことだろう。
しかし、神はまた、無数の名も無き聖徒たちの心を合わせたとりなしの祈りにもよく耳を傾けられる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
いつも父とわたしとマルを守ってくださって感謝です。
これからも弱いわたしたちをお導きください。
どうか、信仰が与えられますように。
「われも死ぬべくば死ぬべし」と言える信仰が与えられますように。
祈り求める心をもお与えください。
神の摂理を信じきれますように。神の使命を果たせるものでありますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン