聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記1章 つづき パート2

2006年11月13日 | 旧約聖書日記
つづき

「旧約聖書略解 エステル記 緒論」(日本基督教団出版局)をまとめて
『書名と背景
エステル記は、ペルシア帝国で起こった迫害からのユダヤ人解放を祝う「プリム祭」(今日でもユダヤ人の間で盛んに祝われている)の起源説話であり、
女主人公エステルの名をその書名にしている。
エステル記は誇張や不正確な点も多く、述べられている出来事がそのまま史実とは言い難い。
むしろ明快な人物描写や緊張感あふれる筋運び、劇的な物語展開など極めて優れた文学作品と言えよう。
ただし、このような文学が書かれる背景には、離散のユダヤ人が直面した迫害などの困難な状況と、そこから奇跡的な脱出経験が核としてあることは否定できない。

意義と正典への受容
エステル記は、死海写本の断片の中に見出されず、新約聖書にも引用が無く、わずかに旧約聖書続編の2マカ15・36に「モルデカイの日」として表れるだけである。
また、ユダヤ教、キリスト教ともに正典結集の際に異論のあった書物の一つである。
本書には「神」という語は一度も用いられておらず、契約や律法や祈りへの言及もない。
女主人公のエステルは異邦人と結婚し、異邦的環境世界に生きる女性である。
当のプリム祭も、バビロニア・ペルシアで始まった異教的起源をもつ祭りで、モーセ五書に一行の規定も無い。
さらに私怨でないとはいえ復讐が肯定され、民族主義的傾向も強い。
にもかかわらずエステル記が正典に入った理由は、プリム祭それ自体が圧倒的にユダヤ民衆の間で人気があったからであろう。
しかしそれだけではない。
言葉の上には表れていないが、著者は一連の出来事を神の摂理と信じており、またどのような危機的状況にあっても「ユダヤ人の解放と救済」は神の意志であることを言外に訴え続けている。
神名を使用しないというのも、世俗的色彩の濃いプリム祭に朗読される本書の性格上、神の聖性を汚さないようにという著者の信仰の表れともいえよう。
本書の執筆年代については、ペルシア語の借用はあってもギリシア語のそれはないこと、ユダの祭儀的慣習に関心が無いことなどから、前五世紀後半から四世紀のディアスポラ・ユダヤ人の筆が想定される。

本書は「解放」を祝うプリム祭の起源説話であるが、最後に今日的意義について一言したい。
「アウシュヴィッツ」という言葉に収斂される歴史的事件を経験した今日の我々にとって、本書の提起する問題は決して他人事ではない。
ユダヤ人(のみならず精神病者や身体障害者、「ジプシー」、同性愛者、政治犯、敵視された非ユダヤ人、子どもなど)が殺戮されていた時、「神」はどこにいたのか。そしてその時キリスト者はどこにいたのか。
その問いと無縁に生きることはできないからである。
その意味でエステル記は、民族・宗教・信条・利権を盾にした殺戮・復讐の連鎖をどのように克服すべきか、今日的問題提起の書でもある。』


”「3分間のグッドニュース 歴史 エステル記1章」鎌野善三 いのちのことば社発売” へ、つづく

エステル記1章 つづき

2006年11月12日 | 旧約聖書日記
つづき

「聖書 スタディ版 旧約聖書 各書の概説 エステル記」をまとめて
【特徴・・エステル記は聖書の中でも幸せな物語のひとつであろう。
エステル記に見える人名や日付の使い方などは歴史書というより歴史を題材にした小説と言ったほうがよいであろう。
たとえばクセルクセス王の妻は実際にはアメストリスといったが、ワシュティと名を変えられ、史実に反して王妃の位から退けられたとされている。
また、ペルシアは他民族の宗教には寛容なことで知られており、信仰のゆえに人を殺すというような命令が出されたとは考えにくいことなども、小説と見たほうがよいとされる理由である。
興味深いことに、エステル記は聖書の中で神に直接言及していない唯一の書物である。
しかし、神の存在はエステルが王妃となってユダヤ人を守るという出来事の背景に明らかに意識されている。

なぜ、書かれたのか?・・今の暦で言えば2月中旬から3月中旬に当たるアダルの月に「プリム祭」というユダヤの祭りが祝われる。
エステル記が書かれた主な理由はこのプリム祭の起源を説明するためであったようだ。
プリム祭は年に一度、はめを外して楽しむ陽気な祝祭である。
A.D.5世紀に書かれたユダヤ教の中心的書物であるタルムードは「『モルデカイに祝福あれ』と『ハマンは呪われよ』の違いが分からなくなるまでワインを飲め」と命じている。

どんな背景があるのか?・・ペルシアのキュロス大王はバビロニア帝国をB.C.538年に滅ぼした。
そのとき、捕囚となって70年間バビロニアで暮らしていたユダヤ人にキュロスは故郷への帰還許可を与えた。
しかし、多くのユダヤ人はエルサレムの廃墟に戻るよりも、第二の故郷バビロニアに留まることを望んだ。
エステル記に登場するモルデカイとそのいとこエステルは、バビロニアに留まったユダヤ人である。】


「旧約聖書略解(日本基督教団出版局)エステル記 緒論」へ、つづく

エステル記1章

2006年11月11日 | 旧約聖書日記
【◆クセルクセス王の酒宴
1:1 クセルクセスの時代のことである。このクセルクセスは、インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であった。
1:2 そのころ、クセルクセス王は要塞の町スサで王位につき、
1:3 その治世の第三年に、酒宴を催し、大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族および諸州の高官たちを招いた。
1:4 こうして王は、百八十日の長期にわたって自分の国がどれほど富み栄え、その威力がどれほど貴く輝かしいものであるかを示した。
1:5 それが終わると、王は七日間、酒宴を王宮の庭園で催し、要塞の町スサに住む者を皆、身分の上下を問わず招いた。
1:6 大理石の柱から柱へと紅白の組みひもが張り渡され、そこに純白の亜麻布、みごとな綿織物、紫の幔幕が一連の銀の輪によって掛けられていた。また、緑や白の大理石、真珠貝や黒曜石を使ったモザイクの床には、金や銀の長いすが並べられていた。
1:7 酒を供するための金の杯は一つ一つ趣を異にし、王室用のぶどう酒が、王の寛大さを示すにふさわしく、惜しげもなく振る舞われた。
1:8 しかし、定めによって酒を飲むことは強いられてはいなかった。王の命令によって給仕長たちは、人々に思いどおりにさせていたからである。
1:9 王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女のための酒宴を催していた。

◆王妃ワシュティの退位
1:10 七日目のことである。ぶどう酒で上機嫌になったクセルクセス王は、そば近く仕える宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスの七人に命じて、
1:11 冠を着けた王妃ワシュティを召し出そうとした。その美しさを高官および列席する民に見せようというのである。王妃は美しい人であった。
1:12 ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。王は大いに機嫌を損ね、怒りに燃え、
1:13 経験を積んだ賢人たちに事を諮った。王の身辺の事柄はすべて、国の定めや裁きに通じている人々によって審議されることになっていた。
1:14 王は、王の側近で、王国の最高の地位にある、ペルシアとメディアの七人の大臣カルシェナ、シェタル、アドマタ、タルシシュ、メレス、マルセナ、メムカンを呼び寄せた。
1:15 「王妃ワシュティは、わたしが宦官によって伝えた命令に従わなかった。この場合、国の定めによれば王妃をどのように扱うべきか。」
1:16 メムカンが王と大臣一同に向かって言った。「王妃ワシュティのなさったことは、ただ王のみならず、国中のすべての高官、すべての民にとって都合の悪いことです。
1:17 この王妃の事件が知れ渡りますと、女たちは皆、『王妃ワシュティは王に召されても、お出ましにならなかった』と申して、夫を軽蔑の目で見るようになります。
1:18 今日この日にも、ペルシアとメディアの高官夫人たちは、この王妃の事件を聞いて、王にお仕えするすべての高官に向かってそう申すにちがいありません。何とも侮辱的で腹立たしいことです。
1:19 もしもお心に適いますなら、『ワシュティがクセルクセス王の前に出ることを禁ずる。王妃の位は、より優れた他の女に与える』との命令を王御自身お下しになり、これをペルシアとメディアの国法の中に書き込ませ、確定事項となさってはいかがでしょうか。
1:20 お出しになった勅令がこの大国の津々浦々に聞こえますと、女たちは皆、身分のいかんにかかわらず夫を敬うようになりましょう。」
1:21 王にも大臣たちにもこの発言は適切であると思われ、王はメムカンの言うとおりにした。
1:22 王は支配下のすべての州に勅書を送ったが、それは州ごとにその州の文字で、また、民族ごとにその民族の言語で書かれていた。すべての男子が自分の家の主人となり、自分の母国語で話せるようにとの計らいからであった。】
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 エステル記)


「聖書スタディ版 旧約聖書 各書の概説 エステル記」へ、つづく

「聖書の読み方」加藤常昭 日本キリスト教団出版局

2006年11月01日 | 本の感想
なかなか本が読めない、活字嫌いなわたしですが、
どうしても自分の中で、聖書を読んでいっているけども、
これでいいのか?こういう読み方をしてていいのかが、はっきりしなくなってきたので、
昔々に読みかけて置いておいたこの本をひっぱり出してきて、読んだところです。

「聖書の読み方」加藤常昭 日本キリスト教団出版局
加藤常昭先生の本は、わりと持っているんですが、
そのどの本を読んでも、ず~っとこの先生の言っていることがよく分からない、
この先生の書いた本ははっきりしたことを言ってない、まわりくどい上に自分が分かるように答えが書かれてないって思っていました。
ので、勧められても、どうも好きになれないなあ。。。と思ってました。
が、ここ1年くらいでしょうか、わたしは洗礼を受けて今年で5年目になるんですが、
今頃、やっと先生の言われることが、分かってきました。
本を読んで、「そうや、そうなんや!」っていう風に心にすっと入って、答えが書かれていることが理解できるようになってきました。

で、この聖書の読み方も、今回また読んでみて、ほんとによかったです。
聖書を読む上で、どういう読み方をしていったらいいのか、答えが理解できました。
でも、自分なりに理解できても、まだ自分ではまだそこまでできてないっていう感じもしました。

少々、あちこちを抜粋させていただきますm(_ _)m
『信仰とは、自分をほんとうにたいせつにする心です。自分を生かす心です。
自分を押し殺そうとするような心ではないのです。
信じなかった時には思ってもみなかったように、自分がたいせつにされていること、自分の生命の重さをずしりと感じて生きていくこと、それが信仰です。
・・・・・
われわれは自分のいのちの尊さを見失っているのかもしれません。それだから自分を生かしきることができないのです。
・・・・・
キリストは十字架の道をみつめておられます。すでにその道を歩いておられるのです。
なんのためでしょうか。
われわれも同じように死ななければならないという模範を示すためなのでしょうか。
わたくしは思います。
それはわれわれの命を買いもどすためだったと言ってはいけないでしょうか。
・・・・・
われわれのいのちの値うちをもういちど正しくはかり直すためにキリストが死んでくださったと言えないでしょうか。
われわれの失われたいのちの価を知るためには、キリストの死の価の高さを知ればよいのです。
自分自身のいのちの重さはキリストの十字架の持つずしりとした重みによってのみはかりうるのです。
・・・・・
われわれが知るのは、自分自身が求めている自分のいのちが、すでにキリストによってはかられているということです。
自分が生きていく道が、というより、自分が生かされる道が、ひらかれていることを知るのです。
このようにキリストの中に自己を発見すること、ここにわれわれが聖書を読む目標があると言えるのではないでしょうか。
・・・・・
キリストによって自分が生かされる、自分のようなものでも生きる道がここにそなえられている。
それがキリストの恵みです。
先に、聖書の中に読みぬくべきものとして示されたキリストの恵みなのです。』


なによりもまず、積ん読ではなく、毎日聖書を読んでいくことが大切ですね(o^^o)
それから、教会の礼拝に行って、御言葉の語られている正しい理解を得ることが大切ですね。
ぼちぼちと進んでいきたいと思いますm(_ _)m