聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙 1章 挨拶 その1

2009年05月22日 | 新約聖書日記
◆挨拶

『 1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


1:1 From Paul, a servant of Christ Jesus and an apostle chosen and called by God to preach his Good News.

1:2 The Good News was promised long ago by God through his prophets, as written in the Holy Scriptures.

1:3 It is about his Son, our Lord Jesus Christ: as to his humanity, he was born a descendant of David;

1:4 as to his divine holiness, he was shown with great power to be the Son of God by being raised from death.

1:5 Through him God gave me the privilege of being an apostle for the sake of Christ, in order to lead people of all nations to believe and obey.

1:6 This also includes you who are in Rome, whom God has called to belong to Jesus Christ.

1:7 And so I write to all of you in Rome whom God loves and has called to be his own people: /May God our Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV ローマの信徒への手紙より)



新約聖書略解などへ、つづく

マルコ福音書 8章 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 その3

2009年05月21日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『マルコはイエスを試そうとするファリサイ派の人々の不信仰について語った後、すぐにここで弟子の無理解をも浮き彫りにする。
14~21節はマルコが伝承を部分的に用いて構成した物語である。
ひとつの伝承は14節a、16~17節aから成っていたのではなかろうか。
すなわち、イエスと共に旅に出た弟子達はパンを持ってくるのを忘れ、そのことを心配そうに論じ合っていると、
イエスは、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」と問う。
イエスが共にいる場合、いっさいの思い煩いは不要であると、この伝承は教えていたのであろう。
14節aは、すでに弟子達が経験した二つの奇跡的な給食の出来事との関連で弟子達の無理解を強調するためのマルコの編集句。
舟で湖を渡るイエスの一行という場面の設定もマルコ的である。
15節のイエスの言葉は14節a、16~17aの文脈の中で夾雑物であるかのような印象を与える。
この伝承をマルコは11節のファリサイ派の人々との関連で、そしてまたパンとパン種との結びつきのゆえに、ここに置いたのであろう。

14節「一つのパン」は唯一の真のパンであるイエスを指すという象徴的解釈はマルコの文脈では成り立たない。
「一つのパン」は、すでに報じられた二回の奇跡的給食との関連で理解すべきである。
五つのパンをもって男だけで五千人の群集を満腹させ、さらに七つのパンをもって四千人を満腹させたイエスには、一つのパンをもって少数の弟子達を満腹させることはもちろん可能である。
そのイエスと共にいるのに、パンのことで思い煩い、議論をしている弟子達の不信仰が描かれる。
15節「パン種」は神の国のたとえにも用いられているが、ここでは悪い意味で、小さな事柄が大きな影響を与えることの比喩として用いられている。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」はマタイでは「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」に変えられ、それは彼らの教えであると説明されている。
ルカは「ファリサイ派の人々のパン種」について「それは偽善である」と説明している。
マルコはそのパン種が具体的になんであるかを説明していないが、この福音書を初めから読んできた者には、それがイエスに対する不信仰であることがわかる。
16~21節ファリサイ派の人々とヘロデはイエスがだれであるかを理解しないが、弟子達も同様にそれを理解していない。
彼らは彼らを奇跡的に満腹させることのできるイエスが共にいるのに、しかも15節の注意にもかかわらず、なお「パンを持っていないことで論じ合っている」。
こうして弟子達は無理解という点で「外の人々」、ファリサイ派の人々、ヘロデと同一の面におかれる。
このペリコーペは、「まだ悟らないのか」という弟子達に対するイエスの問いをもって終わる。
弟子達から答えは返ってこない。
この問いは読者への問いでもある。答えは読者に残されている。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
すぐそばにいてもイエスさまを理解すること信じきることができない弟子たちを見て、自分のことと重なります。
見ていても共に居ても、不信仰のままである弟子達を想います。
見ないでも信じる者にしてください。
聖書の御言葉を読み、共にいてくださるイエスさまを理解し、信じることができますように。
お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りしますm(_ _)m
アーメン


マルコ福音書 8章 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 その2

2009年05月19日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『15節弟子に向けた「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」に対するイエスの警句が導入される。
パン生地の中で酵母を発酵させた「パン種」を混ぜて焼くと、パンは大きく膨らむ。
注意すべきパン種も、今は小さく、秘められているが、やがて大きく膨らんで顕在化するものであろう。
マルコの中でファリサイ派とヘロデ派ないしヘロデは、イエスを殺す意図で一貫する。

ここでもパンの奇跡がイエスと彼を通して実現される神の国を理解する鍵とされている。
21節そして「まだ理解しないか」と問われる。
ここで理解すべきは6・52からみると、イエスの、「神の子」としての権威を与えられた本質であろう。
従って、オープンな形で終わる問いかけは8・29のペトロのキリスト告白と繋がっている。
しかし特に第一のパンの奇跡は、終末完成の日に現実となる神の国の先取りであった。
するとキリストの本質への理解は、彼を通して実現される神の国の秘密の理解と不可分離に結合している。』


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて。
『向こう岸に渡る舟の中で、イエスと弟子たちは、一つの問答を交わした。
弟子達がパンを一個しか持ってこなかったことがきっかけで問答が始まった。
パンのことにこだわって議論する弟子達と、そこから霊的な教訓を与えようとされるイエスとの間に微妙な食い違いを見せながら、問答は繰り広げられる。
 話の発端は、15節のイエスの警告であった。
「パン種」は、他に悪影響を与えるものの比喩で、イエスはパリサイ派の誤った批判精神とヘロデの世俗主義にくれぐれも気をつけるようにと警告されたのである。
パン種はほんのわずかでも、粉のかたまり全体を大きくふくらませる。
彼らの批判精神や世俗主義もそれと同じで、少しでも人の心に入ると、イエスを誤解させたり、宣教の働きを徹底的に破壊させる危険を含んでいた。
 この警告には、もう一つの意味がある。
マルコの福音書は、ローマのクリスチャンの求めによって書かれたといわれているが、このことばはユダヤの宗教的勢力とローマ帝国の権力に対する初めての警告とも受け取れる。
二つともこの世で栄えている権力集団であるが、それらの危険と限界をイエスはそれとなく暗示されたのであろう。
 さて、イエスのことばをめぐって弟子たちの議論が始まった。まず彼らにはイエスの警告の意味が分からなかった。
それには二つ理由があった。一つは、食べるパンの方に心が奪われていたからである。
二つ目は、イエスにパリサイ人とヘロデの危険がいかに迫っているかに、弟子達が少しも気づいていないためであった。
パリサイ人は、本格的にイエスを陥れようと謀り始めていた。弟子達はその深刻さに気がつかず、のんきにパンのことで議論していた。
 私たちも、しばしばこれと同じ過ちを犯す。問題の本質も、危機が差し迫っていることも知らずに、目先の現象に心を奪われていたずらに議論を繰り返すのである。
 そんな弟子達に対してイエスは、警告の意味を説明された。
「悟らないのですか」ということばを二回も使って、弟子達の霊的理解の鈍さを厳しく戒めている。
「二回にわたるパンの奇跡を思い起こしなさい。わたしは必要ならいつでもパンを与えることができる。だからわたしはあなたがたがパンを持ってくるのを忘れたことなど問題にしているのではない。
それよりあなたがたは、パリサイ人の悪意に満ちた批判精神とヘロデの世俗性に染まらないようにくれぐれも気をつけなさい」。
イエスはそう言っているのである。』



新約聖書注解Ⅰにつづく

マルコ福音書 8章 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 その1

2009年05月12日 | 新約聖書日記
◆ファリサイ派の人々とヘロデのパン種

『8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。

8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。

8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。

8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。

8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、

8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

8:14 The disciples had forgotten to bring enough bread and had only one loaf with them in the boat.

8:15 "Take care," Jesus warned them, "and be on your guard against the yeast of the Pharisees and the yeast of Herod."

8:16 They started discussing among themselves: "He says this because we don't have any bread."

8:17 Jesus knew what they were saying, so he asked them, "Why are you discussing about not having any bread? Don't you know or understand yet? Are your minds so dull?

8:18 You have eyes-can't you see? You have ears-can't you hear? Don't you remember

8:19 when I broke the five loaves for the five thousand people? How many baskets full of leftover pieces did you take up?" /"Twelve," they answered.

8:20 "And when I broke the seven loaves for the four thousand people," asked Jesus, "how many baskets full of leftover pieces did you take up?" /"Seven," they answered.

8:21 "And you still don't understand?" he asked them.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)



新約聖書略解などへ、つづく


エステル記 10章 モルデカイの栄誉

2009年05月09日 | 旧約聖書日記
『◆モルデカイの栄誉

10:1 クセルクセス王は全国と海の島々に税を課した。

10:2 王が権威をもって勇敢に遂行したすべての事業と、またその王が高めてモルデカイに与えた栄誉の詳細は、『メディアとペルシアの王の年代記』に書き記されている。

10:3 ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。

10:1 King Xerxes imposed forced labor on the people of the coastal regions of his empire as well as on those of the interior.

10:2 All the great and wonderful things he did, as well as the whole story of how he promoted Mordecai to high office, are recorded in the official records of the kings of Persia and Media.

10:3 Mordecai the Jew was second in rank only to King Xerxes himself. He was honored and well-liked by his fellow Jews. He worked for the good of his people and for the security of all their descendants.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV エステル記より)


旧約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『本章のエピローグ1~3節は、当時世界最大の権力者であったクセルクセス王の繁栄と並んでモルデカイの栄誉の記述をもって終わる。
ペルシアでは種々の事件を記録する習慣があり、「メディアとペルシアの王の年代記」という史料を示す表現は、王上11・4や代下25・26他にも見られる。
モルデカイはユダヤ人として同胞から仰がれ、また優れた執政を行うペルシアの高官として「多くの兄弟たち」にも愛された。
エステルの名はもはやエピローグには出てこないが、両者の存在は、権力の中枢に食い込みながら離散の民の活路を開く民族の知恵を示し、同時にユダヤ人と非ユダヤ人の「共生」の可能性をも積極的に提示する。』

旧約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『最後に王が力強く繁栄した政治を行ったこと、それをモルデカイが支援して敬慕されたことを書く。
「税を課し」と、なぜ税のことが突然言われるのか、問題である。
ハマンがユダヤ民族を全滅させて納めるはずの銀貨一万キカルが、ユダヤ民族が生き残って納められなくなった補償が考えられているのであろうか。
それとも「島々」、つまりペルシアが支配下においた地中海東方の島々まで税を課したということで、その支配の成功を言おうとしているのであろうか。
「メディアとペルシアの王の年代記」は、列王記や歴代誌がその歴史資料として引用する書物と同じような書名である。
従ってこの書物はペルシア人というより、ユダヤ人が書いたものと思われるが、それが実在したかどうか確かめることはできない。
ただこのような書名をあげて、この物語が事実だったのだということをその著者は強調している。
「その民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した」は、モルデカイが過去だけでなく、今もその働きを続けていることを示唆して、結んでいる。』

新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 を、まとめて。
『本章は、本書のエピローグであって、わずか三節をもって終わっている。
モルデカイの偉大さは、当時世界最大の権力者であったアハシュエロス(ギリシア名ではクセルクセス)王の権威と勇気ある事業と並行して描写されている。
モルデカイの偉大さは、王の功績と共に王の年代記の書に記されているが、その偉大さが3節において説明されている。
彼は王に次ぐ地位に座し、ユダヤ人の敬愛の的であり、同胞のために幸福を求め、平和を語った。
彼の人格とその働きが一筆で見事に描写されている。

さて、ひるがえってこの最後の章において、キリスト者の生ける真の王とその王国の繁栄と平和に目を転ずることにしよう。
この最後の章において、もはやエステルは姿を現していない。
人類の救いにおいて、神はすべてのすべてとなられるのである。ただあがめられるのは神ご自身であり、神の権威と勢力と偉大さだけである。
福音の時代がその働きをなし終えると、かの日が来る。
その日「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(黙11・5)」。
神の敵は永遠の審判にあずかり、神はすべてのすべてとなられる。
全地に神のみいつが現れ、神の幕屋が人と共にあり、神ご自身が人と共に住まわれる。そこに愛と喜びはあふれ、神の民の幸福と平和は永遠に続く。
この御国の完成のために、キリスト者はいのちを賭してそのわざを続けなければならない。神は、今こそ現代のエステルを求められる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
旧約のエステル記を最後まで読み終えられたことに感謝します。
モルデカイやエステルのように、兄弟姉妹のため、ひいては神のために働くことができる者になれますように。
主の御心が行えますように。
主イエス・キリストの御名によっておいのりします。
アーメン

エステル記 9章 ユダヤ人の復讐・プリムは運命の祭り その3

2009年05月07日 | 旧約聖書日記
つづき


旧約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 は、今回の内容については、略解とほとんど重複してるので載せません。

ので、
新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社を、まとめます。
前半はやはり略解と重複してますので、後半部分だけ、自分なりにまとめて載せてみます。
『24節25節はエステル記の要約であると同時に、プリムの祭の発端を記している。
このプリムの祭は新しくユダヤ人の祭に加えられ、ユダヤ人の間で年々行われ続け、今日に及んでいる。
「シナゴーク礼拝において、特定の祭りの日に聖書の中からとくに選んで朗読されるものがある。
雅歌(過越祭)、ルツ記(五旬節)、哀歌(アヴの月9日)、伝道の書(仮庵祭)そしてエステル記(プリム祭)である。
これらを一括して『五巻』(ハメッシュ・メギロート)と呼ぶ。
いずれも比較的短く、しかも美しい書である。」
このように、今日もユダヤ人は、エステル9・28の「この両日は、代々にわたり・・・記念され、祝われなければならない」のみことばに従って、プリムの祭には、エステル記を朗読してこれを記念している。

本章から教えられる第一の学びは、徹底的な勝利についてである。
エステル記の読者の中には、神の民のこのような凄惨極まる殺戮の記事に嫌気のさす者も多く居るだろう。
キリスト者の標準で判断されるなら、決して弁護できるものではないと批判する者も少なくないだろう。
これについて、ユダヤ人と王妃の行動を正しく理解しようとする考え方が幾つかある。
例えば、旧約聖書の「聖絶」の観念や、ユダヤ民族を通しての神の救いの計画という救済史的観点、さらにこれを神の民の敵に対する神の正義の現れとする見方などである。
しかし忘れてならないことは、すでに学んできたように、ユダヤ人のこの行動は明らかに正当防衛であって、彼らの側から攻撃を加えたものではなかったことである。
結果的にはそれは聖絶にも、ユダヤ人から救い主が出ることにも、神の正義にも通じるものではあったが、現実において自衛権の行使以外の何ものでもなかった。
 ひるがえって、われらの霊の戦いにおいても同じことが言える。
王国の中心は宮殿である。われらの生涯の宮殿はわれらの心である。
シュシャンの宮殿に巣くう敵の残党三百人が根絶やしにされたように、われらの心中の敵の残党も徹底的に処分されなければならない。
敵との妥協は許されない。
またエステルがすでに死んでいるハマンの子たちを木にかけたように、われらの心中のハマンの残党がただに死んでいるだけではなく、その全き死を公に確認しなければならない。
かくしてわれらの王国に平和が訪れるであろう。

本章から教えられる第二の学びは、全き安息についてである。
徹底した勝利は徹底した平和をもたらし、まったき死はまったき安息をもたらすであろう。
実に勝利のあるところに平和があり、死のあるところに安息がある。
換言すれば、勝利なくして平安なく、まったき死なくしてまったき安息はないのである。
 ひるがえって、われらのたましいの世界においても同じことが言える。
新改訳聖書において、休み、安息なる語には二種類のことばが用いられている。
一夜の宿りをあらわす言葉と徹底的な休みを表す言葉である。
神はわれらにただ一夜の宿りの休みではなく、徹底的な休み、すなわちまったき安息を与えてくださるのである。
個々のキリスト者は、過去の罪が赦され、義と認められ、神との平和を経験したところから、更に、今立っている恵みへと導かれ、内心の古き人は滅ぼされ、聖霊のバプテスマによるキリストの内住によって、徹底的な休み、まったき安息、神の安息をわがものとすることができるのである。

本章の最後の学びとして、勝利の記念について学ぶことにしたい。
本章は、ユダヤ人の三大祭と並んで、なぜ今日もプリムの祭が盛大に祝われているかを詳しく説明している。
このプリムの日は、神の民の勝利の記念の日であった。
この日がプリムと名づけられたのは、人の投げるプルが人の計画をはるかに越えて、神の絶妙な摂理の御手によって神のプルに変えられたことを意味している。
単なる過去の出来事を思い出すだけではない。
この記念の日は、人の思いと計画をはるかに越えて働かれる摂理の神を覚える日であった。
 一体に聖書の記念の概念は、ある一つの客観的行為によって、想起される人物や出来事が単に過去のものではなく「今ここで」現実となる、というものである。
だから、それは単なる「記念」ではなく「再現」ということにさえなる。
われらも神の勝利や神の顧みの出来事を単なる過去のものとして記念したくはない。
神の勝利を記念することによって、日々新たに摂理の神の支えと守りと勝利を経験する者でありたい。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神の摂理を想います。
人の思いや計画を越えて働かれる神の御手によって、わたしたちを導かれ、そして恵みを与えられていることに、感謝します。
神の摂理を信じきれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン