聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マタイ福音書 十字架につけられる

2005年04月23日 | 新約聖書日記
『 27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。』

新約聖書略解をまとめて
『いよいよイエスは十字架を背負い、処刑の場へ進む。
しかし受難のクライマックスとなるこの場面で、イエスの受けた肉体的な苦しみについての具体的な描写はほとんどなく、35節の「十字架につけると」にとどめている。
代わって描かれているのは、十字架につけられたイエスを嘲る多くの人である。
そして彼らの考える「救い主」(イエスに期待する彼らの「救い」)とは、力ずくでも敵を支配し得る実力者の姿であり、
現実のイエスはそれとは全くかけ離れていることを語る。
32節「キレネ人」とは、キレネから過越のためにエルサレムに来ていたディアスポラ・ユダヤ人であろう。
弟子たちがすべて逃亡してしまった状態で、自発的ではないにしても、最初にイエスの十字架を負うことになったのは、偶然通りかかった男であった。
しかし彼とその息子たちはのちにキリスト教徒となったようである。
33節「ゴルゴダ」は、頭蓋骨を意味するアラム語に由来する地名。
当時のエルサレム市城壁のすぐ外にあった処刑場で、アントニア砦から西約六百メートル。
イエスは激しい鞭打ちの刑で既に体力を相当消耗しており、自力で十字架を運ぶことができなかった。
34節からの描写には詩編の句やモチーフが多く織り込まれている。
「苦いぶどう酒」は詩69・22を、35節の死刑囚の衣服を取り合うのは詩22・19を、
39節の頭を振る嘲りの仕草は詩22・8を、43節の嘲笑の言葉には詩22・9を、それぞれ背景にしている。
つまり伝承はイエスを詩編の語る「苦難を受ける義人」に当てはめて理解し、その解釈に立って形成されている。
37節罪状書きの「ユダヤ人の王」は明らかにイエスの誕生物語(2・2)と対応している。
かつてヘロデ王に殺されそうになったイエスは、今は痛みの冠を頭に載せた「王」として処刑される。』

天の父なる神さま
人間の求めた救い主の姿は、神が私たちに与えられた救い主の姿とは、違うものでした。
わたしたちは、何も分からずにいました。
でも、今、こうして、神の愛を示され、神のみこころを私たちに分かるようにしてくださったことに感謝します。
すべての人が、神の愛を、知ることができますように。
主イエスさまの御名によって、お祈りします。
アーメン


マタイ福音書 兵士から侮辱される

2005年04月19日 | 新約聖書日記
『27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。』

新約聖書略解をまとめて
『総督ピラトは過越の期間を彼の指揮する部隊と一緒にエルサレムで過ごし、不測の事態に備えていた。
彼は神殿西北端のアントニア砦を官邸としていた。
裁判の後、イエスはここに連れてこられ、兵士全員から侮辱を受けた。
王衣の変わりに赤い外套を、王冠の代わりに棘の生えた茨の輪を、王笏の代わりに葦の棒を持たせ、
この惨めな姿の「ユダヤ人の王」を嘲りの的にした。
ある者は表敬のポーズをとり、つばを吐きかけ、権力とは全く無関係で無抵抗のイエスを殴打した。
それは第三の受難予告「異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち」(20・19)がイエスの身に起こった時であった。』

天の父なる神様
イエスさまが、わたしたちの罪の身代わりになってくださり、鞭打たれ、嘲られ、十字架につけられました。
わたしたちの為に命を捨ててくださったイエスさま。
独り子であるイエスさまを、わたしたちの罪の身代わりにしてくださった、神さま。
痛み苦しむ神であり、愛ある神である、天のお父さま。
神は、人の痛みを知り、ご自分が苦しまれ、どんな罪をおかしたものでも愛され救われる、愛の神です。
聖書のみことばにより、神の愛を知り、祈りで神と交わり、いつも愛の中におれることを感謝します。
どうか、どんなときにも変わらない永遠の愛を、すべての人が知ることができますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

むかつく!

2005年04月06日 | わたしの思い
キリスト教をかたる、新興宗教のくそ牧師。
牧師の名前を使って、子供に変なことし続けて、許さへんで!
「地獄に落ちるぞ」。。。なんて脅すのは、キリスト教ちゃうで!
おまけに、牧師でもないわ。
今日は、ニュース聞いて、怒りまくった。
ほんまに、腹たった。
キリスト教を侮辱してる。