わたし、内村鑑三、大好きなのです!!!
ほんとうに好き!!
読むと、ほんとうに恵まれます。
ほんとうに、目が覚めます。
そして心が熱くなり、泣けてきて、そして、また神を求めるようになります。
信仰に離れてきたと思ったりしたときには、内村鑑三を読めば、ぐいと引き戻されます。
内村鑑三の「一日一生」という本もすばらしいですが、
せっかく内村鑑三全集を古書で買い揃えたので、このブログでもカテゴリーを作って、いいなあと思うところを、ちょこっとづつ紹介していきますm(_ _)m
内村鑑三全集 32巻 岩波書店 より
『人生の目的
○幸福を楽しむ為の人生にあらず、完全に達する為の人生である。
完全に達するを得ば、或(あるい)はまた幾分なりとも完全に近づくを得ば、それで人生の目的は達せられたのである。
故に幸福可なり、不幸可なり、此目的にして達せらるれば可なりである。
そして品性を磨く為に、霊魂を完成する為に、不幸は幸福よりも効果多くある。
故に不幸は幸福よりも幸福である。
不幸は殊更に求むべきではないが、然(しか)れどもその身に臨むやこれを歓迎すべきである。
茲(ここ)に於(おい)てか使徒ヤコブの言(ことば)の意味深長なるを知る。
曰(いわ)く
我が兄弟よ、若(も)し汝等(なんじら)様々の試誘(こころみ)に遇はば之を喜ぶべき事とすべし、そは汝等の受くる信仰の試みは汝等をして忍耐(しのび)を生ぜしむるを知ればなり。
汝等全く且(かつ)備わりて欠くる所なからん為に忍耐をして全く働かしめよ(ヤコブ書1章二、三、四節)
と。
即(すなわ)ち不幸艱難信仰の試みをして汝等を完成せしめよとの事である。
人生最上の得達は神に似ることである、神の子の模型に達することである。
使徒ペテロが曰(い)へるが如(ごと)し(ペテロ前書二章二二、二三節)
彼れ(キリスト)罪を犯さず又その口に詭鐍(いつはり)なかりき、彼れ詬(ののし)られて詬らず、苦しめられて激しき言を出さず、只(ただ)義を以って鞫(さば)く者に自己を託(まか)せたり
と。
人は茲に至って救われたと称すべく、人生の最大幸福は実に茲に在るのである。
○近代人の模型たる芸術家ゲーテは恒(つね)に嘆じて曰うた「人生の此歓び、此悲しみは何の為なる乎(か)」と。
そして彼は己に問ふて己に答へ得なかった。然れども詩人ならず芸術家ならざるクリスチャンは此問に対し明確なる答を有(も)っている、
曰く「天の父が完全(まった)きが如くに完全からん為である」と。此歓び、殊に此悲しみは此の為である。
故に涙の雫(しづく)は真珠よりも貴いのである。死の苦しみにまで特殊の価値があるのである。
失望は得意よりも有利なるのである。世に憎まるる事が天に迎えらるるの途(みち)と成るのである。
今代の人が、其基督教会までが、成功成功と叫んで成功を人生最上の得達であると思ふは迷誤此上なしである。
イエスの御生涯が大失敗であった、故に大成功であったのである。
故に我等も亦(また)パウロと共に曰ふべきである
之に因りて我れキリストの為に弱きと陵辱(はずかしめ)と空乏(ともしき)と迫害(せめ)と患難(なやみ)とに遇ふを楽しみとせり、そは我れ弱き時に強ければ也(コリント後書十二章十節)
と。
斯(か)く解して人生の意義は明白である。』
ほんとうに好き!!
読むと、ほんとうに恵まれます。
ほんとうに、目が覚めます。
そして心が熱くなり、泣けてきて、そして、また神を求めるようになります。
信仰に離れてきたと思ったりしたときには、内村鑑三を読めば、ぐいと引き戻されます。
内村鑑三の「一日一生」という本もすばらしいですが、
せっかく内村鑑三全集を古書で買い揃えたので、このブログでもカテゴリーを作って、いいなあと思うところを、ちょこっとづつ紹介していきますm(_ _)m
内村鑑三全集 32巻 岩波書店 より
『人生の目的
○幸福を楽しむ為の人生にあらず、完全に達する為の人生である。
完全に達するを得ば、或(あるい)はまた幾分なりとも完全に近づくを得ば、それで人生の目的は達せられたのである。
故に幸福可なり、不幸可なり、此目的にして達せらるれば可なりである。
そして品性を磨く為に、霊魂を完成する為に、不幸は幸福よりも効果多くある。
故に不幸は幸福よりも幸福である。
不幸は殊更に求むべきではないが、然(しか)れどもその身に臨むやこれを歓迎すべきである。
茲(ここ)に於(おい)てか使徒ヤコブの言(ことば)の意味深長なるを知る。
曰(いわ)く
我が兄弟よ、若(も)し汝等(なんじら)様々の試誘(こころみ)に遇はば之を喜ぶべき事とすべし、そは汝等の受くる信仰の試みは汝等をして忍耐(しのび)を生ぜしむるを知ればなり。
汝等全く且(かつ)備わりて欠くる所なからん為に忍耐をして全く働かしめよ(ヤコブ書1章二、三、四節)
と。
即(すなわ)ち不幸艱難信仰の試みをして汝等を完成せしめよとの事である。
人生最上の得達は神に似ることである、神の子の模型に達することである。
使徒ペテロが曰(い)へるが如(ごと)し(ペテロ前書二章二二、二三節)
彼れ(キリスト)罪を犯さず又その口に詭鐍(いつはり)なかりき、彼れ詬(ののし)られて詬らず、苦しめられて激しき言を出さず、只(ただ)義を以って鞫(さば)く者に自己を託(まか)せたり
と。
人は茲に至って救われたと称すべく、人生の最大幸福は実に茲に在るのである。
○近代人の模型たる芸術家ゲーテは恒(つね)に嘆じて曰うた「人生の此歓び、此悲しみは何の為なる乎(か)」と。
そして彼は己に問ふて己に答へ得なかった。然れども詩人ならず芸術家ならざるクリスチャンは此問に対し明確なる答を有(も)っている、
曰く「天の父が完全(まった)きが如くに完全からん為である」と。此歓び、殊に此悲しみは此の為である。
故に涙の雫(しづく)は真珠よりも貴いのである。死の苦しみにまで特殊の価値があるのである。
失望は得意よりも有利なるのである。世に憎まるる事が天に迎えらるるの途(みち)と成るのである。
今代の人が、其基督教会までが、成功成功と叫んで成功を人生最上の得達であると思ふは迷誤此上なしである。
イエスの御生涯が大失敗であった、故に大成功であったのである。
故に我等も亦(また)パウロと共に曰ふべきである
之に因りて我れキリストの為に弱きと陵辱(はずかしめ)と空乏(ともしき)と迫害(せめ)と患難(なやみ)とに遇ふを楽しみとせり、そは我れ弱き時に強ければ也(コリント後書十二章十節)
と。
斯(か)く解して人生の意義は明白である。』