聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マタイ福音書 死刑の判決を受ける

2005年03月30日 | 新約聖書日記
『27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。
「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。
「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、
水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。』

新約聖書略解をまとめて
『裁判の経過を語るこの段落は、マタイ以前の伝承に二つの新しい部分が挿入されており(19節、24~25節)、
これによってマタイはイエスを処刑した責任を強くユダヤ側に置く。
そしてそれに反比例してピラトの責任を著しく軽減している。
19節ではピラトの妻(異邦人)がイエスを「正しい人」と呼んで、イエスの無罪性を主張し、
夫がイエスの裁判に関わらないよう訴える。
彼女の訴えの根拠は夢であるが、夢は本書では神の告知の手段であるので、
最後の場面で神がイエスの無罪を知らせるという筋書きである。
24~25節では、ピラトは異邦人であるのに、手を洗うという聖書に基づく動作を見せて、
もはやイエスの処刑とは無関係であることを表し、その一方でユダヤ人側が積極的に罪を引き受けることを表明する。
25節の「民」は、神の民としてのイスラエル全体を意味する語であり、
しかも「我々と子孫」と言うので、ユダヤ人の総体が今後イエス殺害の責めを負うという主張である。
ここには本書の成立時におけるユダヤ教との厳しい対立が背後にあり、
福音書記者もこのような偏見や憎しみを免れていないことに注目すべきである。
他方、異邦人伝道を心がけるマタイにとって、ピラトの法的責任を軽減することは教会の意図にも適うことであった。

18節以下で、ピラトは一貫してイエスの無罪を認め、イエスを釈放しようと何度も試みる。
彼はユダヤ人の政治運動に対しては容赦なく弾圧し、民衆の不穏な動きを鎮圧する人物であったから、
イエスについてのこの過剰なほどの弁護は、歴史的には疑わしい。
この物語は、一世紀末の本書の成立時には、ローマ世界においてキリスト教が正当な宗教であることを示すための証明として機能し、
逆にその動機から物語が形成されたと考えられる。
26節ピラトは結局妥協し、イエスについての真実を究明するより、その場の流れに事態をまかせたので、
ユダヤで最高権限を持つ彼の責任は否定し得ない。』


使徒信条には、ポンテオ・ピラトという名前が書かれています。
なんで、「ポンテオ・ピラト」という人だけが、書かれているのかな。。と疑問で、少し本を調べてみました。
東神大パンフレット「正しい信仰ー使徒信条ー」には、
ピラトという実際に生きていた人の時に起こったこと、を示すため、キリストによる人間の救いは、人間が考えたものではなく、ピラトが造りだしたものでもないということ。
加藤常昭信仰講和「使徒信条・十戒・主の祈り 上」には、
私たちがイエスを苦しめたということ。「苦しみを受け」。誰が苦しめたかは使徒信条は言いません。わかっていることだから。
ただ、ポンテオ・ピラトだけが責任を負わなければいけないことではなかった。
およそ人たる者すべてがイエスの苦しみを受けておられる姿を見る時、「これは私がしているのだ」と認めなければならないのです。

上のように書いてあるのを見て、少し分かってきた気がします。
ポンテオ・ピラトという、実際に歴史に残る人の時代に、まさに生きておられたイエスさまを、
ピラトも含めて、わたしたちすべての人間が、苦しめ、十字架にはりつけにしたということを思うため。
十字架による人間の救いは、人間が考え出したことではなく、神さまがわたしたちに与えられた恵みだということ。
主イエスの名によってお祈りします。
アーメン

「一日一生」を読んで

2005年03月22日 | 本の感想
わたしの好きな本「一日一生」内村鑑三 教文館を、何ページか読みました。
何回読んでもいいんですが、その日、そのときの、自分の気分とかによっても、
感動するページが違ったりしますね。
落ち込んでるとき、結構、読んだりします。
そしたら元気出たりします(o^^o)

抜粋『4月21日 実に欲しいものはこの信仰である。
キリストと彼の十字架のほかに信仰の理由を求めない信仰である。
その証明をこの世の事業の成功において求めない信仰である。
これを自己の聖成(きよめ)において求めない信仰である。
単純な信仰である。大胆な信仰である。
イエス・キリストと彼の十字架のほかに、社会事業もわが道徳もいらないという信仰である。
あたかもコロンブスが天の星に頼るほか、陸上に何物をも標的(めじるし)としてもつことなく、
大洋に乗り出した時のような信仰である。
そしてこの信仰があってこそ、私たちは大宇宙を逍遙し、人を恐れず罪を恐れず大声疾呼して、
新大陸でない新エルサレムへと私たちの船を乗り出すことができるのである。(研二)』


信仰の証しを自分の道徳的成長やこの世での成功に求めてはいけないですね。
ただイエスさまの十字架を信じることができる信仰が与えられますように。
アーメン

マタイ福音書 ピラトから尋問される

2005年03月22日 | 新約聖書日記
『27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。』

新約聖書略解をまとめて
『ピラトは過越の祭りの期間中、首都の治安を守るため、駐在地カイサリアから軍隊を引き連れてエルサレムに来ていた。
ちょうどそこへユダヤ教指導層の告発によって「ユダヤ人の王」という嫌疑をかけられた男が連れてこられたので、
彼は直ちに尋問に着手せざるを得ない。
この期間、宗教的情熱に燃えてローマ帝国の支配体制に反抗する民衆運動は少なくなく、
総督としてピラトはそれをいち早く鎮圧せねばならなかった。
ピラトの質問「ユダヤ人の王なのか」は、処刑の理由として十字架の罪状書きに書かれたことと共通するので、
彼はまずイエスを政治的反乱を企てる者として取り調べたわけである。
これに対するイエスの返答は、婉曲な否定を意味する。
イエスが自ら王だと肯定したのであれば、裁判の続行はあり得ず、直ちに判決となったであろう。』

恵み深い天のお父さま
イエスさまは、不利な証言をしている祭司長や長老たちの訴えにも、何も答えられませんでした。
イエスさまは、十字架への道を自ら選ばれ、歩まれます。
わたしたちの罪のすべてを担って、十字架で、わたしたちの罪の代わりになってくださいました。
イエスさまの愛と神の大きな赦しを思います。
受難週である今日、あらためて、イエスさまの愛の大きさを思います。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

「よくわかるキリスト教の教派」を読んで

2005年03月18日 | 本の感想
なんか、最近、ぜんぜん、本を読んでなかったもんで。。。( ̄~ ̄;)
久しぶりに読めました。

「よくわかるキリスト教の教派」徳善義和・今橋朗著、キリスト新聞社発行。
たくさんの教派があって、いろいろ勉強になりました。
で、この本を読んで、一番理解できたことは、
どんなに分かれていたとしても、キリスト教は”聖書”において一つだということです。
カトリックとプロテスタントが共同で完成させた「新共同訳聖書」(日本聖書協会)は、
「キリスト教の聖書は一つ」ということを広く日本の社会に訴えることとなり、
キリスト教の決め手はただひとつ、「聖書」だ、ということでした。

異端といわれる、「モルモン教」「ものみの塔、エホバの証人」「統一教会」は、
もはやキリスト教から出たものでも、キリスト教とは呼べないのです。
これらに共通した点は、聖書ではなく、自分たちの聖書をそれぞれに持っているところです。
モルモン教は、「モルモン経」を、
ものみの塔とかエホバの証人と呼ばれるものは、自分訳の「新世界訳」という聖書を作っていたり、
統一教会は「原理講論」が聖書に代わる経典になっています。

わたしは、まだまだ、キリスト教の知識が足りません。
クリスチャンとして、最低限、知っておかないといけないことは、山ほどあって。。。
う~む、もっと本を読まないと。。。と、思った、今日でもありましたm(_ _)m

マタイ福音書 ユダ、自殺する (前の聖書日記からの続きです)

2005年03月16日 | 新約聖書日記
『27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、
銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、
「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「彼らは銀貨三十枚を取った。
それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」』

新約聖書略解をまとめて
『ユダの自殺を記したこの段落は、マタイに特有の記事である。
二節の文は十一節に自然につながり、二節でイエスをピラトに連行した祭司長たちは十二節でもピラトのそばにいるのであるから、
3~10節の段落を挟むことによってマタイは文の流れに不自然さを持ち込んでいる。
従ってマタイはこの物語を意図的にここに置いたと思われる。
その理由は、イエスを裏切ったユダのその後の行為を、直前のペトロの行為と対比させるためであろう。
後者は自分の弱さを痛感し、「外に出て、激しく泣いた」が、ユダは「後悔し」、けなげにも自ら決着をつけようとする。
しかし自分の力で解決を求め責任をとろうとすることは、結局自分を救うことにはならなかった。
そのような彼の「後悔」は、悔い改めとは異なる。
一方イエスについてのユダの言葉「罪のない人」は、たとえ裁判の手続きを経ていても、イエスは無実の罪を着せられたことを示す。
ユダに対する祭司長たちの言葉「(それは)お前の問題だ」は、ほぼそのままピラトが裁判の場に居合わせた人々に投げかける言葉となっている。
こうしてイエス殺害の責任は、ピラトを介してユダからユダヤ指導者層へ明確に移ることになる。
9b~10節は、おもにゼカ11・12~13からの引用で、これにエレ32・6~15、18・1~2の文意が連想されている。
預言者ゼカリヤは羊飼いとして働いて得た賃金三十シュケルを神殿の「鋳物師」に投げ与えるが、
この「鋳物師」(ヨーツェル)はヘブライ語の文字一つを変えると「賽銭箱」(オーツェル)となる。
こうした語の連想を巧みに利用して、マタイはユダの自殺の伝承を旧約と結びつけ、ユダの行為は旧約句の実現であったとする。
つまりユダの行為は結果的にたまたま旧約文のとおりであったのである。』

恵み深い天のお父さま
罪の無いイエスさまが、すべての人の罪を担ってくださいました。
罪あるわたしたちが、赦される恵みを思います。
罪あるわたしをも、使われる神の大きさを思います。
イエスさまの御名によって、お祈りします。
アーメン