聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書6章 湖の上を歩く その1

2008年03月25日 | 新約聖書日記
◆湖の上を歩く
『 6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。

6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。

6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。

6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。

6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。

6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

6:45 At once Jesus made his disciples get into the boat and go ahead of him to Bethsaida, on the other side of the lake, while he sent the crowd away.

6:46 After saying good-bye to the people, he went away to a hill to pray.

6:47 When evening came, the boat was in the middle of the lake, while Jesus was alone on land.

6:48 He saw that his disciples were straining at the oars, because they were rowing against the wind; so sometime between three and six o'clock in the morning, he came to them, walking on the water. He was going to pass them by,

6:49 but they saw him walking on the water. "It's a ghost!" they thought, and screamed.

6:50 They were all terrified when they saw him. /Jesus spoke to them at once, "Courage!" he said. "It is I. Don't be afraid!"

6:51 Then he got into the boat with them, and the wind died down. The disciples were completely amazed,

6:52 because they had not understood the real meaning of the feeding of the five thousand; their minds could not grasp it.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書略解などへつづく

マルコ福音書6章 五千人に食べ物を与える その3

2008年03月21日 | 新約聖書日記
つづき


新聖書講解シリーズ マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『イエスは彼らに対して有名なパンの奇跡を行うのであるが、私たちは三通りの人間を観察することによって、この出来事を見ていこう。

第一は民衆の姿である。
この頃になると、イエスの行く所にはどこでも、朝早くから夜遅くまで、群集が押し寄せて来た。
イエスはそのような民衆を「羊飼いのいない羊のよう」だと感じられた。
当時の民衆は、政治的にも宗教的にも社会的にも放置されていた。

イエスはこのような民衆の姿に目を留めて深く憐れまれ、時の経つのも忘れて彼らを教えられた。
また、彼らの必要にこたえて、悪霊を追い出し、病気を治された。
自ら進んで人々の中に身を投じ、彼らの必要にこたえ、彼らに仕えられた。

第二は、目先のことに心を奪われた弟子たちの姿である。
イエスは熱心に教え、民衆は真剣に聞いていた。時がどんどん過ぎていくのに誰も気が付かなかった。
しかし弟子たちは時間を気にして落ち着かず、イエスに群集を解散させるように申し上げた。
弟子たちは信仰と思いやりが欠けていて、時間が遅いこと、へんぴな場所、大勢の群集が空腹であることなどに心が奪われ、イエスへの信頼と群集に対する配慮に欠けていた。
彼らは多くの奇跡を行って民衆の必要にこたえてきた方がそばにおられることも、自分たちが伝道旅行においてどのように人々の問題にこたえてきたかも忘れてしまっている。

私たちも、現実の問題に直面したとき、その状況に心が奪われ、あれこれと思い悩むことが多い。
問題を現実面だけで解決しようと躍起になって、イエスに対する信仰と隣人へ愛の配慮をなおざりにしてしまう。

第三は、民衆の必要にこたえるイエスの姿である。
イエスはまず弟子たちを訓練するために言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べるものをあげなさい」。しかし弟子たちは、イエスの真意を悟ることができず、相変わらず現実のことだけに終始していた。
パンの奇跡が行われたのはこの後である。
イエスの奇跡が民衆の必要に十分こたえたことを示している。
イエスは飼う者のいない羊のような民衆を、神のことばと実際のパンをもって養われたのであった。

今日、日本は平和と繁栄を享受しているが、世界には飢餓と貧困に苦しんでいる人たちが決して少なくない。
日本のクリスチャンは、イエスの模範にならい、福音の伝道と共に、実際的な協力においてもそうした人々に仕えていかねばならない。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまにならい、神様のことばを伝えることと共に、現実的な協力もしていくことができますように。
イエスさまの奇跡により現された、終末の神の国を、待ち望みます。
羊飼いのいない羊のようであった私たちが、整然と並ぶ共同体となる、完成された神の国をおもいます。
至福を感じることができる御国の到来を待ち望みます。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


マルコ福音書6章 五千人に食べ物を与える その2

2008年03月15日 | 新約聖書日記
つづき


新共同訳 新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『イエスはこの物語に類似している四千人の給食の物語(8.1~9)では群集の空腹に憐れみを寄せるが、ここでは「飼い主の居ない羊のような有様」を深く憐れむ。
これは旧約聖書でよく知られている比喩で、かならずしも空腹の状態のみを表すものではない。
マルコは、この言葉に「いろいろと教え始められた」という編集句━「・・・し始める」はマルコの文章の特徴。
教師としてのイエスの働きもマルコの強調するところ━をつなげることにより、イエスが群集の精神的・物質的必要にこたえる者であることを明らかにする。
ここにもイエスの活動を特色づける、言葉と業の不可分の結びつきを見ることができる。

各自で夕食を買わせるために群集を解散させるようにという弟子たちの求めに対して、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と答える。
イエスの答えに弟子たちが驚くのも当然である。しかし彼らが驚くのは彼らと共にいる神の子イエスの力を知らないからである。

イエスの所作━「パン・・・取る」、「賛美の祈りを唱える」、「裂く」、「与える」━は最後の晩餐の時のそれと類似しているので、五千人の給食はしばしば正餐式を予示するものとして解釈されている。
しかしユダヤ人の通常の食事においても家父長が賛美の祈りをささげ、パンを裂いて家族に配るので、ここに特に予示を見る必要は無い。魚は正餐には無関係であり、他方、正餐に不可欠のぶどう酒はここで言及されていない。

すべての者が飢えを十分に満たしたこと、食事の残りが十二の籠にいっぱいになったこと、パンを食べた者は男だけで五千人であったこと━これらの細部にわたる記述によって給食が大きな奇跡であったことが強調される。

この物語はエリヤおよびエリシャの話を思い起こさせる。飢饉のときにエリヤは寡婦とその子供が一握りの粉と少量の油で長い間パンを作って食べることができるようにし、エリシャも僅かなパンと穀物で100人の者を満腹させた。
しかしイエスは飼い主のいない羊のような大群衆を憐れみ、権威ある者として教え、そのすべての者を満腹させるという大奇跡を行う。
旧約聖書ではヤハウェはしばしばイスラエルの牧者にたとえられているが。
イエスもここで神的な力をもって大群衆を教え、養う大牧者として登場する。
マルコは群集の人気を集めるイエスの姿を生き生きと描きながら、
すでに言及された群集のイエス観に対して、イエスが神的存在として預言者以上の者であることを示す。
しかしそのことは弟子たちにも分からない。』


新共同訳 新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて
『集まった大衆を見て、イエスは彼らを「憐れむ」。その理由は「牧者を持たない羊たちのようであった」からである。
羊は野獣から身を守る術を持たず、斜面を上に、また風上へと進む習性のために、牧者を必要とする。
牧者は旧約聖書では王、特に神を表す。
また「牧者を持たない羊」は、「イスラエルの会衆」を表す。

群集は「百人ずつ、五十人ずつ、集団ごとに横たわった」。
「百人、五十人ずつ」はイスラエルの軍隊やクムラン教団の整然と並んだ姿を表す。
「まとまって」の所には名詞「集団」がある。元来、庭園の花壇を意味し、転じて「まとまった集団」である。
イエスの下での「牧者を持たない羊」の姿から、整然とした共同体への変容が、この重要な特色である。
それは終末論的な、完成された神の国の光景であろう。

全員が食べて「満腹した」。
この語は七十人訳詩132・15でも神が住むシオンの至福を表している。
給食物語、特に8章のものはエリシャが二十個のパンで百人に食べさせ、なお余ったという物語を明らかに基礎としている。
それを圧倒的に凌駕することを誇示するように、ここでもパンの残りは十二「籠」で、食べた人は五千人の「男たち」とされる。
「会衆」として成人の男だけを数えるイスラエルの習慣がここに反映している。
この奇跡は、イエスと十二人の神の国の宣教を通して、終わりの日に彼の下で成立する終末論的共同体を先取り的に示したものといえよう。
いわば「神の国の秘密」の一時的顕在化である。』


新聖書講解シリーズ マルコ福音書 いのちのことば社 へつづく

マルコ福音書 五千人に食べ物を与える その1

2008年03月04日 | 新約聖書日記
◆五千人に食べ物を与える

『 6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。

6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。

6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」

6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。

6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。

6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

6:42 すべての人が食べて満腹した。

6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。

6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

6:30 The apostles returned and met with Jesus, and told him all they had done and taught.

6:31 There were so many people coming and going that Jesus and his disciples didn't even have time to eat. So he said to them, "Let us go off by ourselves to some place where we will be alone and you can rest a while."

6:32 So they started out in a boat by themselves to a lonely place.

6:33 Many people, however, saw them leave and knew at once who they were; so they went from all the towns and ran ahead by land and arrived at the place ahead of Jesus and his disciples.

6:34 When Jesus got out of the boat, he saw this large crowd, and his heart was filled with pity for them, because they were like sheep without a shepherd. So he began to teach them many things.

6:35 When it was getting late, his disciples came to him and said, "It is already very late, and this is a lonely place.

6:36 Send the people away, and let them go to the nearby farms and villages in order to buy themselves something to eat."

6:37 "You yourselves give them something to eat," Jesus answered. /They asked, "Do you want us to go and spend two hundred silver coins on bread in order to feed them?"

6:38 So Jesus asked them, "How much bread do you have? Go and see." /When they found out, they told him, "Five loaves and also two fish."

6:39 Jesus then told his disciples to make all the people divide into groups and sit down on the green grass.

6:40 So the people sat down in rows, in groups of a hundred and groups of fifty.

6:41 Then Jesus took the five loaves and the two fish, looked up to heaven, and gave thanks to God. He broke the loaves and gave them to his disciples to distribute to the people. He also divided the two fish among them all.

6:42 Everyone ate and had enough.

6:43 Then the disciples took up twelve baskets full of what was left of the bread and the fish.

6:44 The number of men who were fed was five thousand.』
(日本聖書教会 聖書 和英対照 和文・新共同約 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書略解と新聖書講解シリーズにつづく

エステル記 5章 エステル、王とハマンを招待する その2

2008年03月02日 | 旧約聖書日記
つづき

旧約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて
『召されぬまま王宮の庭に立ったエステルに、王は「金の笏を差し伸べた」。それは彼女が死を免れ王の好意を勝ち得たことを示す。
エステルは王とハマンを今日酒宴に招待したいと申し出る。
エステルは、王の面前で対決する覚悟でハマンの同席を求める。
それとは知らず王妃の私的な招待に有頂天のハマンの様子を伝える。
その日エステルは王に真意を打ち明けず、明日もう一度酒宴を準備するので「ハマンと一緒にお出ましください」と述べるにとどまる。
時間をかけて相手を油断させ、事態を有利に導こうとする戦略だろうか。
結果としてこの延期は、その夜のうちに舞台の大逆転を準備することになった。
酒宴の帰途、ハマンは再び王宮の門で何の敬意も表さないモルデカイを見て、怒りがこみ上げる。
ただモルデカイ一人の存在ゆえに「そのすべてが私にはむなしいものとなる」とハマンは告白せざるを得ない。』

新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 をまとめて
『本章には王とエステル、ハマンとモルデカイの四人の主要人物が一斉に登場し、四人の性格が浮き彫りにされている。

さて、本章において、教えられる第一のことは、明け渡された心の確信と自由についてである。
禁を犯して王宮の内庭に立つエステルのその時の心境ほど澄んだものはなかったであろう。
「われもし死ぬべくば死ぬべし」と、神の御旨の中に自らは完全に明け渡された。

教えられる第二のことは、神のしもべの知恵と分別についてである。
エステルは王に自分の本心をすぐには打ち明けなかった。
エステルは機会をうかがい、時を待った。王に心中を打ち明けるための最も効果的な環境を作るためであった。
エステルのこの知恵と分別に学びたい。
1、彼女は人の心を動かすためには食事を共にすることが極めて有効である、という実際的知恵を持ち合わせていた。
2、招待を繰り返し、その秘密の願いを持ち出すことを遅らせることによって事の重大性をにおわせ、王の興味と関心を倍加させた。
3、ハマンを共に招くことによって、彼を有頂天にさせ、その心にすきを作り、彼を彼女の圏内に引き込んでしまった。
4、「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みがかなえていただけますなら・・・・あす、私は王様のおっしゃったとおりにいたします」と、エステルの願いから王の命令へと主導権を完全に王に移した。
こうしたエステルの知恵と分別は、御霊の賜物であろう。
祈りつつ、神の知恵を求めつつ、エステルは一歩一歩慎重に駒を進めていった。

本章における最後の学びは、ハマンに見る人間の恐るべき邪悪性についてである。
虚栄・頑迷・貪欲・高慢・残忍などのいずれもが、ハマンの性格をよく表している。
しかも不思議なことに彼はその輝かしい富を誇り、子供の多きを誇り、王や王妃と共に国の最高位に上げられたことを自慢しつつも、それでもなおあくなき成功を望んでは憂鬱になっているのである。
一国の大宰相ともあろう者が、たった一人の役人の行動が気になり、それによって彼の誇りも、喜びも奪われてしまうとは、不思議である。
しかし、ハマンに見る人間の恐るべき邪悪性はよそごとではない。
今、われらの内に巣くうハマン的精神があるなら、それこそが木にかけられ、のろわれ、完全な終焉を遂げなければならない。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
沢山の財産や地位を持つ人間でさえ、ただ一人の自分に敬意を示さない人間の行いに、
怒りをこみ上げさせて、すべてをむなしく思わせてしまう、弱さを持っています。
モルデカイの信仰の強さをおもう時、ハマンの弱さをもおもいます。
ハマンの自分の劣等感への裏返しなのかもしれません。
自分に対する態度で、大きく自分の感情を左右してしまうところが、ハマンと自分を重ねあわせるところでもあります。
弱さによる怒りで、さらに多くの罪を犯してしまうことのないよう、神の憐れみを祈るばかりです。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン