聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書7章 耳が聞こえず舌の回らない人をいやす その2

2008年10月28日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書略解 日本基督教団出版局 をまとめて。
『アラム語で「開かれよ」(エツファタ)という。すると耳が「開かれ」、舌の「もつれ」、むしろ「縄目」が「解かれ」、その人は「はっきりと」話すようになった。
37節は、奇跡物語を結ぶ定型的な喝采の叫びであるが、しかし36節の挿入の後では、居合わせた人が宣べ伝えた言葉であると共に、それを聞いた人々が応答する言葉ともなる。
いわば、デカポリス地方全体が声を合わせて叫んでいる。
叫ぶ言葉の、特に後半は、1・27の叫びと同じく、今、生起したひとつの奇跡を超えて、「耳が聞こえない人々」を聞こえるように、「話のできない人々」を話すようにと、複数の人々について、しかも「(彼は)する」と現在形で言われる。
ひとつの奇跡を通して、それを超える事態が指示されている。
しかもそれは七十人訳イザヤ35・5以下を基礎とした叫びで、そこで展望されていた終わりの日の至福の状態をふまえて、それが今、イエスを通して成就していることを、歓喜を持って確認している。』


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『マルコだけが報じている出来事である。
マルコによるとティルスの地方を去ったイエスは35キロメートルほど北上してフェニキアの港町シドンを通って南東のデカポリス地方の真ん中にあるガリラヤ湖に直行する。
このような行程の記述はやや不自然であり、また、ガリラヤ湖をデカポリスの真ん中に位置づけることも地理的に不正確であるが、
マルコはイエスが異邦人の地であるデカポリス地方の湖岸で耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたといいたいのであろう。

ここでも異邦人のいやしが語られる。
31節bは新共同訳では「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と訳されている。
他の多くの翻訳も同様である。こうような訳も不可能ではないが、構文的には、「デカポリス地方の真ん中」という語句はガリラヤ湖にかけて読むほうが自然である。

「イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し」、奇跡を行う。このような公衆締め出しのモティーフは古代の奇跡物語では珍しくない。
異邦人読者には「エッファタ」というアラム語は奇跡を引き起こす魔術的な異語として受け取られるかもしれないが、マルコはその言葉は「開け」という意味であると説明する。
イエスは魔術師とは異なり、権威ある明確な言葉で奇跡を行う神の子である。イエスが命じると、ただちにいやしの奇跡が生じる。

人々の感嘆の言葉(37節)は七十人訳の創世記1・31とイザヤ35・5~6を連想させる。
神の創造の業がすべてすばらしかったように、イエスの行ったこともすべてすばらしい。
イザヤの預言した救いの時はイエスによってもたらされる。』


新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 をまとめて。
『イエスはツロを去り、シドンを経てデカポリス地方のガリラヤ湖畔に帰ってこられた。シドンもツロと同じく異邦の地である。
おそらくイエスは、ツロとシドンにおいても多くの時間を費やして神の国を宣べ伝えられたのであろう。

イエスはデカポリス地方に帰ってこられた。すると人々がひとりのろうあ者を連れて来て、手を置いて直してくださるようにお願いした。彼は、生まれた時からその障害に悩み続けており、よくなる見込みはほとんどなかったと思われる。人々は最後の望みを託して、彼をみもとにつれてきた。
信仰は、人間的には絶望だと思われるところから始まる。
神は絶望を希望に変えてくださる方である。
また福音書には、その病人を連れてきた人たちの信仰が称賛されている例がよくあるが、ここでも強調こそされていないが、その人を連れてきた人々がいたことと、彼らの信仰にふれている。
自分を振り返っても、私たちがイエスにお会いできたのは、多くの場合、家族や友人が誘って教会に連れて行ってくれたためであることが多いはずだ。

イエスはそのろうあ者を治された。
彼をひとりだけ連れ出したのは、イエスの深い配慮である。病気のいやしは純粋な愛の働きであって、見せ物ではない。

37節の彼らの言葉は、メシヤ預言を思い起こさせる光景であり、人々はイエスがメシヤであることをそれとなく感じ始めたようである。
しかし、一般の民衆は単に奇蹟を行う方としてのメシヤを期待し、律法学者やパリサイ人たちは敵意を燃やしていたので、イエスは誤解を避けるために言いふらさないようにと命じられた。
こうした配慮は、これからしばしば見られるようになる。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
メシアである主イエスさまに感謝します。
わたしたちの罪を背負われて十字架にて死なれ、わたしたちの罪の身代わりになってくださり、そして神により復活させられ、わたしたちの希望となられました。
神さまとの交わりをもつことができる喜びを、主イエスさまによって教えられ、
神さまに心を向け心を開くことが信仰であり、人生における意味であると知りました。
神を知り、神に心をひらき、神との交わりを持てる喜びに生きられますように。
主イエスさまに教えられ、従っていくことができますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


マルコ福音書7章 耳が聞こえず舌の回らない人をいやす

2008年10月13日 | 新約聖書日記
◆耳が聞こえず舌の回らない人をいやす

『7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


7:31 Jesus then left the neighborhood of Tyre and went on through Sidon to Lake Galilee, going by way of the territory of the Ten Towns.

7:32 Some people brought him a man who was deaf and could hardly speak, and they begged Jesus to place his hands on him.

7:33 So Jesus took him off alone, away from the crowd, put his fingers in the man's ears, spat, and touched the man's tongue.

7:34 Then Jesus looked up to heaven, gave a deep groan, and said to the man, "Ephphatha," which means, "Open up!"

7:35 At once the man was able to hear, his speech impediment was removed, and he began to talk without any trouble.

7:36 Then Jesus ordered the people not to speak of it to anyone; but the more he ordered them not to, the more they told it.

7:37 And all who heard were completely amazed. "How well he does everything!" they exclaimed. "He even causes the deaf to hear and the dumb to speak!"』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書略解などへ、つづく

エステル記7章 ハマン、失脚する その3

2008年10月10日 | 旧約聖書日記
「新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社、
つづき

『本章における第三の教訓は、この世における神の民の存在の価値についてである。
実は「事実、その迫害者は王の損失を償うことができないのです」と訳されている本章4節の後半は、難解な文章で、テキストに破損があると考える者も多い。
事実、新共同訳聖書ではこの部分は訳されていない。
口語訳聖書は「わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」と訳している。
この訳に従えば、ユダヤ人が救われるなら、王が受け取れるはずの銀一万タラントは損失となるであろうが、そんな損失とユダヤ人の難儀は比較にならない、と解釈できる。
新改訳聖書に従えば、ユダヤ人が虐殺されることによって受ける王の損失は計り知れないものがあると解釈できる。ここは新改訳聖書に従って解釈するのが妥当であると思われるので、その線に従って考えてみたい。
実はペルシャ帝国内においてユダヤ人達は、市民としてまた役人として、相当の貢献を国家にもたらしていたと思われる。
そのユダヤ人を絶滅させてしまうことは、ペルシャ帝国にとっては計り知れない損失で、銀一万タラントをもってしてもとても埋め合わせできるものではないというのである。

一国における神の民の存在の価値は大きい。それは祈りと信仰という見えざる世界における国家への貢献ばかりでなく、一市民として目に見える社会における貢献においても、神の民の存在の価値は大きくなければならない。
キリスト者は、神の国とカイザルの国の両方に属している。
そしてその両方の国において責任を問われている。
神の国にとってなくてはならない人物は、カイザルの国においても同様である。
「その迫害者は、王の損失を償うことができないのです」
国家・社会・職場において、いかなる代価を支払っても決してその損失を補うことができないほどのキリスト者の存在でありたい。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
エステルのように神に信頼することができますように。
ハマンのような自分の内なる罪を、十字架につけることができますように。
信じ、祈り求め、この世において行動ができる者になれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン



エステル記7章 ハマン、失脚する その2

2008年10月09日 | 旧約聖書日記
つづき

今回の聖書箇所での、旧約聖書略解と旧約聖書注解Ⅰの説明は、あらすじを書いただけのようで、あまり良くなかったので、
「新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社 だけを使用してみます。

「新聖書講解シリーズ 旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記」いのちのことば社 を、まとめて。
『本章を通して教えられる第一のことは、祈る者の条件についてである。
 祈る者の条件の第一は、神のみこころの成就を第一に求めることである。
エステルは神の御旨の働くことを信じている。
 祈る者の条件の第二は、大胆さと確信をもって神に近づくことである。
エステルは神が必ず聞いてくださるという確信がある。
 祈る者の条件の第三は、滅び行く同胞の救い無き状態を神に告げ、自分もその民と等しい立場に立つことである。
聖書における祈る聖徒たちは、モーセにしても、ダニエルにしても、パウロにしてもみなそうであった。
滅び行く同胞が救われるためには、いのちの書から名前が消されようとも、この身がのろわれようとも、と祈るのであった。
 最後に祈る者の第四の条件は、サタンに立ち向かうことである。
エステルはハマンと正面から対決して、その一撃をもってハマンの息の根を止めた。

本章における学びの第二の点は、古き人を十字架につけることである。
ハマンはサタンの型そのものであり、またサタンの支配下にある者である。
しかしハマンに見る自己顕示性や自己中心性はキリスト者の内心にもひそかに巣くっていないだろうか。
聖書はこのハマン的精神を「古き人」あるいは「肉」、人間の「うちに住みついている罪」などと呼んでいる。
犯した行為の罪、すなわち犯罪に対するところの性質の罪、すなわち原罪とも生得罪とも呼ばれるしろものである。
だから聖書において罪が解決され、罪から救われるという時に、むろんこの罪の解決とこの罪からの救いがうたわれていることは否定できない。

ここでハマンは木にかけられた。七十人訳では「彼を十字架につけよ」となっているが、エステル記の特徴のひとつは、このハマン、すなわち「古き人」が十字架につけられることである。
これは霊的解釈であり、ハマンはわれたの内にある古い人の型としても見ることができる。
聖書の真理とわれらの現実にずれは無いだろうか。このキリストの事実に信仰によって結び合わされ、「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とはっきりとあかしできるであろうか。
「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨て」と命じられているが、脱ぎ捨てる場所はただひとつ「十字架」である。
聖書はわれらの心に働きかけ、われらの内にある古き人の正体を暴露されるであろう。
しかしそれと共に聖霊はわれらの内に働きかけて十字架を仰がせ、かしこにその古き人がキリストと共に十字架につけられていることを信じさせて下さるであろう。
かくしてキリストがわれらの内に住み、生き、働き、キリストの御姿を形造ってくださるのである。

十字架は救いの終焉であるかに見えたが、実はサタンの終焉であった。
サタンがわれらに敵して計画したすべての悪しきわざの終焉であった。
結局、木にかけられて死んだのはモルデカイではなく、ハマンであった。
神はこうして十字架においてサタンに対し、罪に対して、完全にして永遠の勝利を取られたのである。』


本章における第三の教訓へ、つづく